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#42 宗仙寺掃苔録

 前々回書いた六条院界隈の寺町のうち、高倉通にある大平山宗仙寺(曹洞宗)は拝観できなかったが、墓域を歩くことはできた。というのも、ここには京焼を代表する陶工の名跡である高橋道八の累世墓があると知っていたからである。
 高橋道八とは、江戸後期から京焼(清水焼)の窯元を代々受け継ぐ名跡であり、初代道八は元文5年(1740)~文化元年(1804)の人である。伊勢亀山藩士の次男坊で、名は光重、字は周平といい、松風亭空中と号する。武士をやめ、京へ出て陶工となった。やがて独立して粟田口に開窯し、煎茶器の名工として知られるようになる。池大雅、上田秋成など多くの文人らとも交流したという。弟に尾形周平がいる。
 二代目道八は、仁阿弥道八として知られる天才陶工であり、初代道八の次男として生まれた。名は光時。仁和寺宮から法橋の称号と「仁」の字を賜り、醍醐寺三宝院宮から「阿弥」の号を賜ったことにより仁阿弥と号したとされている。粟田口から五条坂に窯を移した。その名声から大名家からも招かれ、紀州藩、薩摩藩、高松藩などの御庭焼を作陶している。
 その後も高橋家の血筋が道八の名跡を受け継いでおり、現在は平成24年(2012)に襲名した九代目道八である。
 なお、宗仙寺は、寺伝によると曹洞宗の開祖である道元が創建した洛中三カ寺の一つとされ、江戸時代には総本山永平寺の代理として宮中に参内する役寺(寺務代行)となっている。菊花紋の鐙瓦もそのためであろうか。また、当寺は室町時代に京都侍所所司代となった多賀高忠(京極氏出身)が開基になったとの伝承もあり、墓域には多賀家所縁の墓塔が並んでいた。書院は安土桃山時代の建築とされ、狩野永徳筆の障壁画があるという。
 無縁仏が集められた周辺には、東久世通禧謹書の忠魂碑が建てられていた。東久世通禧は幕末から明治にかけて活躍した尊攘公家として知られ、有名な「七卿落ち」の一人である。王政復古により復帰し、外国事務総督の一人となったり、神奈川府知事、開拓長官などを歴任している。侍従長に任じられた後、岩倉使節団に随行している。元老院副議長、貴族院副議長、枢密院副議長にもなり、華族令では伯爵に叙された。東久世家(村上源氏久我家庶流)の家格は羽林家であるため、本来ならは子爵相当であるが、明治維新における功績が評価された。
 かかる忠魂碑が日清戦争・日露戦争どちらのものかは不明だが、謹書や揮毫の依頼は絶えなかったであろう。

忠魂碑

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