#55 両統迭立考

 今夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」に成人となった東宮(皇太子)、居貞親王(後の三条天皇)が登場した。本作ではあまり強調されないが、この時代の皇統はともに村上天皇の子である冷泉天皇系と円融天皇系の両統迭立を基本としていた。両統迭立とは、異なる皇統から交互に天皇を立てることであり、歴史的には中世における大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)がよく知られている。「光る君へ」の時代にも似たような状況があり、冷泉天皇の次代は、弟である円融天皇が即位し、その次は冷泉天皇の子である花山天皇が即位し、その次は円融天皇の子である一条天皇が即位し、その次は冷泉天皇の子である三条天皇(居貞親王)が即位することとなっていたのである。今夜の回で居貞親王が一条天皇の御子の誕生を気にかけ、息子である敦明親王の先行きを心配していたのは、自分自身が一条天皇より年長の皇太子であり、このまま両統迭立が続けば、すでに生まれている敦明親王はまたしても今後生まれるかもしれない一条天皇(この時点でまだ10代後半)の御子の皇太子となるため、長命でなければ本当に即位できるかどうかは分からないためである。
 ところで、敦明親王の母である居貞親王女御の娍子も登場したが、その父藤原済時は藤原北家小一条流の大納言であった。当初、居貞親王の東宮妃には関白藤原兼家の三女綏子(東三条院詮子の妹)が入ったのだが、よい関係を築けなかったようだ。
 摂関政治といえば藤原道長ばかりが取り沙汰されるが、その父兼家こそ天皇家との身内関係の構築に邁進した立役者であり、冷泉天皇には長女超子を入内させ三条天皇(居貞親王)を生ませ、円融天皇には次女詮子を入内させ一条天皇(懐仁親王)を生ませ、一条天皇には孫の定子を入内させている。兼家は当初、冷泉系を正統な皇統だと認識していた節があり、一代限りと考えられていた円融天皇との不仲もそのためだと考えられている。円融天皇と詮子の間に懐仁親王(一条天皇)が生まれたことにより、両統どちらにもよい顔をするようになったらしい。なお、花山天皇を早くに退位させたのは、花山天皇の母が兄藤原伊尹の娘懐子だからであり、7歳の一条天皇を即位させ、自身は摂政・関白となることができた。その際、幼い一条天皇を実質的に後見したのは、生母(国母)たる詮子であり、皇太后となり長きに亘って一条天皇と同居した。兼家没後もその嫡男、関白藤原道隆は詮子を史上初の女院(東三条院)にして一条天皇の後見をさせたのである。母后の力がいかに強かったかを示しているが、道隆亡き後の中関白家の没落と道長政権の誕生にも詮子が大きく関わっている。
 ちなみに、冷泉天皇とその子、花山天皇の狂気伝説は、もともと皇統の嫡流であった冷泉系から円融系に皇統を変化させるにあたり、摂関家が正統性を強調するために作り出された説話であったと考えられている。

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