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散文的な、吐き捨てるような。今日、写真について思ったこと。思い出したこと。メモ。

きれいな写真、うつくしい写真、よくできた写真、見かけ美しい写真。私が思う美、ステレオタイプな美、美とは絶対的か相対的か。造形美、精神的な美、耽美さ、文化的美徳。美意識は相対的だろう、世間一般的に言われる美とは美(Aesthetic)。造形美は後者だろうか。よくできた写真、映画のような完璧なライティング、映像、文脈によく合うライティング。千載一遇の効果(背景)=決定的瞬間。スナップ写真、決定的瞬間。奇跡的なタイミングで切り取られた瞬間。僕らは他人の撮った写真を見る、或いは写真作品として鑑賞する、それらは誰かが撮影し現像しプリント(或いはスキャニング)までし、我々は結果のみを目にする(事が多い)。その誰かが撮影している姿を我々を見る機会は殆ど無い。だから、それが本物の決定的瞬間なのか、或いは、最初から想定があって、決定的瞬間に見えるように作り上げられたものなのか、知る由もない。けれど信じるしかない、写真とはきっとそういうものである。絶対的な根拠が必要か?写真はそもそも実態ではない、写真に写ることは嘗てそうであったこと(存在した光である)と、言うだけの説得力があるが、絶対とまでは言い切れない。そもそも映像はドキュメンタリーだろうが、フィクションだろうが、映像作品・写真は、人の手が介在しているものであるが故、絶対的実態を伝える媒体としては不完全であると言えるだろう。写真は不完全である。今日のよくできた写真を見て、これは想定を作り上げたものなのか、
実態としてそこにあるものを記録したものなのか判断することは、できない。故に、ステートメントは重要であり、言葉に頼ることになる。ひとつ、鑑賞者が写真作品に価値が見出せるか否かは、信じるしかないという浮ついた制約の中で、作品の中に自分なりの解釈を見つけ、「そのためにこの作品は存在しているのだ」などと、自分の中で納得し知的好奇心を満たせるか否かによるのかも知れない。写真は記号的側面と造形的側面があると思う。造形的な美に、視覚的幸福を見出すことは作品を鑑賞する醍醐味の一つだろう。重複するが写真の指し示す記号、情報的な部分に知的好奇心を満たすこともまた醍醐味だ。そして、その両方がある写真作品が評価される傾向にある、多くの人が価値を見出す傾向にあるように思う。もちろん、ことはそんなに単純では無い、美意識が個人によって異なるのと同様に写真の指し示す情報にどう価値があるか、も、鑑賞者それぞれによって異なる。多くの人に伝わらなければならない場合はそれなりの方法論があるだろうし、【メモ】・血液検査:3000円前後・PCR検査:1000円(保険適応の場合)・診察代:1250円(固定)・薬代(必要な場合):1000円・珈琲豆:3500円、そう言えば…メルカリで好みの水差しと茶碗を買った。早く届かないかな。楽しみ。テーブルウェアをコツコツ集めるの楽しい。そうだ、名前をおいしいナポリタンに変えよう。そうしよう。めぐママのナポリタンおいしかったな、また食べたい。そうそう、で、結局何が言いたいかと言うと、あんまりよくできた写真をみると、大体それが作り物だなって感じがする。むしろ見せたくない部分にリアリティーがあるわけだし。ちょっとメモ当てられないような本当のこと以外にリアリティーなんて見出せない、そんな脳みそなのかも知れない。

ナポー・トレート
ナポー・トレート
ナポー・トレート
ナポー・トレート
ナポー・トレート

余計なものが入り込んでない写真、均整のとれた写真って、最初に想定があって、セットアップされた写真に見えるんだよな。個人的にそういう美しい写真よりもリアリティーを感じる写真が好きなんだな。学生の頃に望遠レンズを敬遠のってそう言うことなのかなぁ。コンパクトカメラ好きだったなぁ。昔はアンチだった森山大道の写真も今は好き。フィルム上の像を物理的に歪めて暗室ワークで自分の見ている世界を宛ら印象派の絵画の様に表現していて、自分には世界をこう見ている、これがリアルな世界だ、と言っていると思えば、グラフィカルなアレブレボケの映像世界も、そうだと分かった気になれる。荒い粒子と高いコントラストに昭和の退廃的な側面を体感するような、知らない時代だけど強い説得力を感じる。これがリアルだ!、と。勿論、被写体の選択も相まってだけど。例えば人間の視覚に近いことがリアルだとすれば、ポジフィルムを正しい露出で撮影すればいいけど、そうでないってところが凄い。作品を鑑賞する時、分かった気になれると言うことは結構重要な気がする。鑑賞時、場合によってはすごく拡大解釈ができる。そんな時はどこかで折り合いをつけたい。大概はどこかで折り合いがつく。ステートメントや編集で道がさし示されている感じはある。だからあんまり鑑賞者に委ねられてもな、って。思うに写真だけじゃなくても、他人の表現に触れようとする場合において、わからんものはわからんでいい。共感できそうってところに落とし所があってもいい。言葉にできんでいい。落とし所があればいい。意識したいのは、自分にとっての、その作品の「落とし所」と「価値」で、それが評価なんだろうな。

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