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公共財としての高等教育機関の現在地(2/2)

Ⅱ. 「失われた30年」と「高等教育のユニバーサル化」

 このような日本経済の流れの渦中で「高等教育のユニバーサル化」が進行した。その中で、国公立大学の授業料が突出して上昇してきたのはどういうわけであろうか? その上昇部分は何に費やされてきたのだろうか?

 国の財政破綻が囁かれる中、国立大学の運営費交付金、私立大学の国庫助成金が継続して削減され、いわゆる「競争的資金」重視政策が進められてきた結果、高等教育がどのような局面に立たされたのかについては、その折々の政策推進者の口からはいまだに明らかにされていないし、そもそも「高等教育」社会的役割を改めて問い直す試みもなされてはいない。つまり、高等教育に関する政策評価が行われていない。

 いわゆる団塊の世代が18歳に達した1965年を契機に大学進学率は上昇軌道を描き、70年代初頭には30%を超えた。「高等教育のマス化」の時代である。第一次オイルショックにより「いざなぎ景気」の興奮は一挙にしぼんでしまったものの、「新三種の神器=3C」を中心とした国内消費が堅調に推移する中で、一億中流社会を謳歌し、私立大学だけでなく国公立大学の授業料が高騰し、大学数も急増していったが、大学進学率は30%台を安定してキープしていた。

 しかし、79年1月に「共通一次試験」が導入され、11年後「センター試験」に受け継がれていく過程で、大学進学率の再上昇が始まり、2000年代にはいると、50%を優に超えることとなった。短期大学、各種専門学校への進学率を含めると、18歳人口のほぼ8割が高等教育を学んでいることとなる。
 「高等教育のユニバーサル化」の時代の始まりである。しかも、少子化の影響で18歳人口が激減しているさなかで生じている現象なのである。

 そのような環境下で、1991年の「大学設置基準の大綱化」(リベラルアーツ教育の切り捨て=専門教育・資格取得教育の優先と、自己点検・自己評価システムの導入による結果責任への転嫁)を受けて、特に都市部に立地する私立大学は、定員を増やし、学部学科を増設することによって、「規模の経済」に生き残りをかけるという「バクチ場」市場に突入した。

 2010年、当大学問題研究所が「危機の時代の大学経営」と題して、連続シンポジウムを開始したのは、まさにこのような大学マーケットの構造変化を感じ取ったからに他ならない。

 本年1月、東京大学が300億円の大学債を発行するにあたって、総長が「大学運営ではなく大学経営の時代に入った」と公言していたが、我々がシンポジウム開催した僅か10年前は、「大学経営」という表現は高等教育機関である大学を冒涜するものであり、「大学運営」と称すべきであると、激しい批判にさらされた。

 英語で表現するならばMANAGEMENTではなくOPERATIONということになるであろうが、オペレーションでは、経営戦略、広報戦略、財務戦略などは視界に入りようもなく、大学は戸板一枚の日銭稼ぎ同然で、相も変わらず入試志願者増減、偏差値競争にうつつぬかしている現状を顧みると、いまだ大学は「公共財」としての社会的役割を認識しているとは言い難く、ひたすらその「運営」に血道をあげているといっても過言ではない。

 大学の「公共財」としての経営理念は、コンプライアンス=法規制の順守は言わずものであるが、「教授会の諮問機関化」、「学長の権限強化」、理事会ではなく「評議員会」による大学の経営権の実質的な掌握を目指した「ガバナンスの強化」ではないことは、あえて言うまでもない。

 今求められているのは、18歳人口の縮小=大学マーケットの縮小の趨勢の中で、教育・研究の自由に根差した合理的な運営システムの構築であり、教員組織・研究組織・職員組織がもつれるように重なり合って進化を阻害してきた大学経営を合理的に再構築する「経営体の再構築」である。

 かつて、大学の自治は「教授会の自治」であり、教授会の互選により学長候補が選抜され、助手、事務職員を含む大学構成員の選挙によって学長が選出される大学も数多くあった。教授会が学長を含む学内理事を選出し、学外有識者並びに卒業生からなる学外理事とともに理事会が構成され、理事会の推薦で諮問機関として評議員会が組織され、理事会の意向に沿った評議員会が理事長候補を選出するといういかにも形式主義で自同律な大学の経営構造は、個人経営的で独善的な創立者・理事長を輩出し、人事や資金をめぐって少なからず不祥事を起こしてきたことを否定するものではない。

 また、恣意的な運営体として、将来戦略を描くことなく、「今ここにある危機」を回避するためにひたすら「規模の経済」を求めてきた高等教育市場の内在的脆弱性も否定するものではない。しかし、他方ではこのような迂遠なシステムが教育・研究機関たる「公共財」に営利を目的とした個人・団体の介入や簒奪、あるいは時の権力の道具として利用されることを辛うじて抑止してきたことも事実として受け入れざるを得ない。

Ⅲ. 高等教育の費用対効果をめぐって

 このような長期的な趨勢の中で、国公立大学は、教育の費用対効果を「見える化」することなく授業料の高騰を続け、私立大学は、国公立大学並びに競合する私立大学の動向をにらみつつ授業料の高値安定を維持し、前期、中期、後期等、入学試験の複数化、内部併願制度の導入等による受験者数の「水増し」に狂奔し、2021年度の「共通テスト」の導入と機を一にするかのように、法人内部校からの進学の強化、面接と志望理由書、高校でのスポーツ活動や地域活動等の実績を評価基準とした総合型選抜や指定校推薦、公募制推薦等の「年内入試」を大々的に導入し、学力精査を基本とする一般選抜は、いわゆる「高偏差値校」の特典とされることとなった。

 かつて声高に主張された「学びの3要素」すなわち「知識」「判断力」「主体性と協調性」は、「共通テスト」の出題内容にその残滓が辛うじて残されているけれども、もはや大学入試の「選抜制」の意義が変質し、受験生にとっては面接や志望理由書における自己顕示の競い合いの場、大学にとっては、志願者数の誇示と定員確保のためのアリバイ作りの場にすぎないものとなっている。

 このような大学入試の変質は、年内入試の強化によっても定員の確保が見通せない大学と、事実上6年制の中等教育で受験テクニックを研ぎ澄まされた学生がキャンパスを闊歩する大学とに二極化されることとなった。「公共財」たるべき大学は、一億総中流社会のはしごを外された格差社会の見事なばかりの写し絵と化してしまった。このような大学入試のひずみは、学生並びに家計負担者にも多大な影響を与えている。


 文科省が発表した2022年度の国公私立大学の退学者は、63,098人で、全在籍者の2.09%を占めた。その主たる理由は、「転学など」が17.8%、「学生生活不適応・修学意欲低下」が16.8%、「経済的困窮」が13.1%で、退学者の半数近くが広義な意味で大学との不適応に起因としている。また、留年者は平均して在籍者の20%に上っている。

  留年者が所属する学部で上位を占めるのは外国語系学部と理系の学部で、出口に国家試験を控える学部の中には、合格率が大学のブランドと連鎖するため、半ば強制的に留年を強いられるものも含まれている。
(但し、外国語系学部の中にはダブルディグリー制度のない場合、留学期間の長短が少なからず影響している)

 要するところ、形骸化した入試制度が、進学した大学への不適応者、大量の留年者を踏み台にして成立していることは、大学経営に対して重篤な課題を突き付けているといわざるを得ない。

 周知のごとく、関西医科大学医学部、大阪医科薬科大学医学部が本年度より学費の大幅な値下げを行った。前者は6年間で670万円、後者は300万円の引き下げを行い、総額でそれぞれ2,100万円、2,900万円の授業料となった。私立大学医学部の最低額は、千葉県成田市の「国際医療特区」にできた国際医療福祉大学医学部の1,900万円で、最高額は、倉敷市にある川崎医科大学の4,700万円である。

 偏差値で東京大学の理Ⅲと肩を並べる慶應義塾大学の医学部が2,200万円であるから、偏差値万能の世の頂点に鎮座する医科大学・医学部の適正な社会的費用がどのような算術の上に成立しているのか、奇問中の奇問である。(また早稲田大学による吸収合併のうわさが絶えない東京女子医大は、年額200万円の授業料増額を発表しており、附属病院の赤字を授業料によって補填しているのでは、との疑念が巷を賑わせている「医は算術なり⁉」)

 他方では、東京都立大学、大阪公立大学、兵庫県立大学が踵を接するように、2026年度から授業料を無償化すると宣言したこと(東京都立大学の場合は、所得制限がある)は、必要とされる各大学の運営資金を住民税と地方交付税交付金から補填することになることから、改めて高等教育の社会的費用をどのように考えるべきか、国立大学や私立大学に問いかける契機となるであろう。

 ディスカウントセールによる生き残り策に過ぎないのか、「公共財」として高等教育を位置づける意義を問うこととなるのか、はたまた、我が国の高等教育の基盤を支えてきた私立大学に対する「民業圧迫」を意図的に仕掛けたものに過ぎないのか、特に、私立大学にとっては、経営の基盤として授業料を始めとする学生納付金が位置付けられているのであるから、受験者の確保、定員の確保はもとより、授業料の多寡は、私立大学の持続可能な経営をいかにして可能にするのか、深刻な課題として急浮上した。

 そうでありながら、DX、GX人財の育成と供給は今後の大学にとって、回避できない課題であり、18歳人口の減少の中、既存学部のリストラクチャリングをも大学に突きつけている。

 滋賀大学が2017年度に我が国初のデータサイエンス学部を発足すると、雨後の筍のように、データサイエンスや情報科学の名を冠した学部、学科が登場し、23年度現在、その数は78に達し、まだまだ増設の流れに衰えを見せない。それどころか文科省は東京都区内の入学定員の厳格化を緩和し、来るべき情報系人員の不足に対応しようとさえしている。

 そこで、湧き上がる疑念を敢えて言えば、SOCIETY5.0社会の社会類型は、
どのようなものであると想定しているのだろうか。
  ● 産業構造は?
  ● 人口構造は?
  ● 国際社会との関係は? 
  ● 環境問題に対する社会的コストの担い手は?
  ● 超高齢化社会のコストの担い手は?  等々

 有限な人的、物的資源のダイナミックな傾斜配分が今こそ求められているのであって、その中でデータサイエンスが果たす社会的役割を構想しなければならない。底の抜けた樽に水を注ぎつつけても、その色合いがその折々に変化しても、我が国社会の「グランドデザイン」を描くことがまずもって求められ、目を背けることから逃れることはできない。


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