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松井江と聖書の「贖い」と血の話

 突然松井江という「沼」に落ちた審神者です。本当に唐突で受け身も取り切れませんでした……という話はさておき。

 これからするのは松井江という刀、というよりも「松井江という刀剣男士」の人格形成についてのお話になります。そしてまた、多大なる妄想と引用で成り立ちますのでその辺りを寛大に見守っていただける方、最後までお付き合いいただければ幸いです。


1.松井江の血に関する発言

 そもそもの話、松井江のボイスには血に言及するものが圧倒的に多いですよね。ログインボイスも血、近侍にしていても血、馬当番しても血、放置しても血、鼻血、瀉血、造血……血です。血。私は採血も出血も血が出ることは何もかも苦手なので、本丸で瀉血しようとする松井江を想像しては「オゥ……」となっています、閑話休題。

 ※以下松井江のボイスバレ注意

 ここでは松井江と血の関係性について、その関係が各所で考察され、尚且つミュージカル刀剣乱舞「静かの海のパライソ」でやはり明らかになった「キリシタン」との関係と、彼らの教義の大元である聖書から考えていこうと思います。が、その前に少し松井江の印象的な血に関わるボイスを挙げておきましょう。

「……血を浴び……血を流し続けるのが僕の業……」

本丸

「いいんだ……血を流さなければいけないんだよ、僕は……最後の一雫が尽きるまで……」

本丸(負傷時)

「僕が流さなければならない血は……まだまだこんなものでは足りない」

手入れ(中傷以上)

 うーん、すごく血!


2.聖書と血

 ご存じの通り、聖書はキリスト教にとって欠かす事の出来ない教典です。キリストの新しい契約に関する書物を『新約聖書』とよび、ユダヤ教の経典であったものを救主キリストの準備の書として『旧約聖書』とし、あわせてキリスト教の正典としました。よって、聖書はどちらかを指すのではなく『新約聖書』と『旧約聖書』を合わせて『聖書』とするのです。そして、聖書とは一冊一冊の物語ではありません、これらは多くの書簡の集合体で構成されています。

(1)聖書内の血に関する記述

 という前置きはおいておいて、この『聖書』の中には血に言及する項がいくつもあります。ざっと数えて新約だけでも十六とかそれぐらいでしょうか。以下にいくつか挙げておきましょう。

①ローマ書 3章25節
神は、キリスト・イエスを、そのによる、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
②ローマ書 5章9節
ですから、今すでにキリストのによって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
③Ⅰコリント書 10章16節
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストのにあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
④Ⅰコリント書 11章25節
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしのによる新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
⑤エペソ書 1章7節
この方にあって私たちは、そのによる贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
⑥エペソ書 2章13節
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストのによって近い者とされたのです。
⑦コロサイ書 1章20 節
その十字架のによって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

パウロの書簡(新約聖書)より

 うーん、多い!
 今回はパウロの書簡(最初はキリスト教を迫害していたけど、イエスの幻に触れて回心してウォー!!と布教して回った伝道者パウロが伝道先のキリスト者に宛てた手紙たち)から引っ張ってきましたが、他にもいろんなところでこの「キリストの血」「十字架の血」について言及されています。
 じゃあ、キリストの血とは何ぞや?ということになりますよね。次に行ってみましょう!

(2)じゃあ血ってなんなのさ

 キリスト教についてなんにも知らんけど……という人も「イエス・キリストが十字架にかけられて死んだ」のは御存じでしょう。そうそう、ゴルゴタの丘でね、ユダに裏切られてね……と、こんな感じで。
 そんな感じで偉そうに聖書について語っていますが、私自身は全く信仰者ではありません。学術的な興味で聖書を読んでいる人間は取り敢えず例外として、信仰する者にとって「キリストの血」とは最重要語彙です。その理由を知るためにまず、この一節を読んでもらいましょう。

こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない

へブル書 9章22節(新約聖書)より

 血がキリスト教において重要であったということは、旧約聖書の方にも記されています。契約、いけにえ(ささげもの)、祭司の着る装束の全ては皆「血を土台」にしています。また、創世記9節4章(旧約聖書)には「肉はそのいのちである血のあるままで食べてはならない」と示されています。これは第一に血=いのちであるから、そして第二に、血は贖いの手段だとされているからだそうで。ではこれを踏まえてへブル書の9章22節を読むと
 うーん、すごく血!
 これはキリスト教が如何に血を大事に扱っているかということが良く分かる一節ですね。つまり血はいのちであり、血は贖いのための手段である。そういうわけです。
 それでもってこの一節には血に関する記述が二つあります。一つは「血によってきよめられた」。もう一つは「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」……これらの血は誰の血でしょうか。勿論前後の文脈的にはモーセが契約に用いたいけにえの動物の血なのですが、意味としては「十字架にかけられたイエス・キリストの血」なのです。
 

(3)イエス・キリストの血

「これ(杯)は、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」

マタイによる福音書26章17-29節「最後の晩餐」(新約聖書)より

 かの有名なレオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐はこんな言葉が交わされる場面を描いたものなのですが、さてここでも血です。先述の通り、旧約聖書の時代から「血」は契約を交わすために重要なものであり「いのち」でした。イエスは自らの血を代償として「神との新たな契約をむすぼうと」していたのです。
 キリストを信じ受け入れる人は、神の裁きから救われるという契約を、自ら十字架にかかり血を流すことで完了させる。そのための磔刑です。
 神の裁きから救われるということは、人々の罪は無いものとされ(=イエスが自らの血で贖うから)、永遠の命を得ることが出来ます。

 よって、イエス・キリストの血は「全ての人(信仰する者)の罪を自らが贖うという契約の血」であり「人々の犯した罪の代わりの死」を象徴しているのです。

(4)贖いと贖い主

 キリスト教における血の意味については先述の通りです。
 では先ほどの話の中で出てきた「贖い」とは何なのか、これについても少し考えておきましょう。大丈夫、この文章はきちんと最初から最後まで松井江を語るために考えられた文章なので、キリスト教紹介文では無いので!!

「この方にあって私たちは、そのによる贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

エペソ書 1章7節(新約聖書)より

 そもそもこの文章を書こうと思ったのは、このエペソ書1章7節があまりにも「松井……!」だと感じたからなのであって、それ故に「贖い」についてはどれだけ長くなろうとも外せない部分なのです。
 さて、上記の「この方」とは紛う事無くキリストです。
 要は「イエスが我々のかわりに十字架にかけられて死に、血によって贖って下さることで、我々は罪を赦されている。これは神の子としての祝福を受けられるようにイエスがしてくれたからである」的な、そんな感じでしょう。あ、やめて、石投げないで……。
 じゃあ「贖い」とは何なのか。あまり耳馴染みの無い言葉ですよね、贖い。それもそうです、贖いとは一応キリスト教の専門用語なのだそうで。

  1. 動詞の「ガーアル」(贖う)
    人が失った財産や権利を身代わりとなって買い戻すこと

  2. 名詞の「ゴーエール」(贖う者、贖い主)
    人が失った財産や権利を身代わりとなって買い戻す資格のある人物のこと

 以上は旧約が意味する「贖い」についてです(詳しくはwikiをどうぞ!)。
 いずれも「身代わりになって」という言葉が含まれていますね。
 イエスはその血(=いのち)によって、人々の罪を贖っている。身代わりに死んで、血によって贖っている……ということを踏まえて、それではやっと松井江と血と「贖い」について考えていきましょう。
 ここまでは松井江と血について話す前の序章みたいなものなのですが、いや、長くなり過ぎましたね。後半は巻いていきます。GO!(江だけに)。
 

3.松井江という男士

 ここからは、松井江と血と「贖い」についてを結び付けるために「松井江」という刀についても考えてみます。

(1)そもそも松井江とは

 越中国の刀工、郷義弘作の打刀。一国一城令の例外となった八代城主、松井興長が所持した。
 戦も実務も得意な万能さは、優秀な武将であった元主の影響からか。
 そして、血への執着も彼の刀としての物語から来るものか・・・。

https://twitter.com/tkrb_ht/status/1203963548935655424(公式Twitterより)
 

 松井江は南北朝時代の刀工、郷義弘によって打たれた刀です。
 その名前の由来はかつて細川家家臣の松井興長に所持されていたことに拠ります。興長は忠興から忠利・光尚・綱利の四代の主君に仕え、忠興の死後は八代城を預かることになり、江戸時代の一国一城令の例外として代々松井家は八代城主および肥後熊本藩の筆頭家老を務めることとなりました。
 四代に渡って主家に仕え続ける、重用されるということはその武将としての優秀さを表していることに他なりません。そういうわけで、松井江の実務が良くできるというキャラクター性は明らかにこの松井興長からきていると考えられます。

(2)松井江と島原の乱

 寛永十四年(1673)、キリシタンの武装蜂起が起こります。
 この日本史上類を見ない武装蜂起は幕府や各地の大名をはじめとした多くの人々に強い影響を与え、幕府が動員した十二万人を超える大軍によってようやく鎮圧されました。
 これは徳川三百年の治世の初めに起こった、大規模な一揆蜂起。日本史を語る上で欠かせない「島原の乱(島原・天草一揆)」です。

 と言っても、です。「松井……」としんみりする気持ちは勿論私にもありますが、実際のところは「松井家より細川家の方がガンガン前に出てたんじゃなかったっけ……?」と思わない事も無かったり。

 そもそも、松井興長は肥後熊本藩主細川忠利の命を受けて、派兵の手配や幕府・他藩との交渉に奔走する裏方の仕事が多かったようです(原城の包囲戦の際には自ら手勢を率いて出陣したらしいですが)。

4.血と贖いと松井江

 では、ここからやっと本来のテーマ「松井江と聖書の「贖い」と血」というテーマについて考えていきましょう。実にここまでほぼ五千字、これをレポートとして提出したいぐらいですが、それはさておき。

(1)贖いのための血なのか

 ※以下、破壊台詞バレあり注意 
 
 
 ゲームやメディアミックスから考えると、松井江の背景として関わって来そうな血に纏わる出来事は大きく二つ。

1.関ケ原の戦い(豊前江との回想)
2.島原の乱(ミュージカル)

 前者に関してはまだ情報が少なすぎて下手な事を言えない(今更)ので、後者の島原を意識しながら続けていきます。ミュージカル観てなくても全く問題ありません、大体今まで言ってきたことを復習するような感じなので。

 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

エペソ書 1章7節(新約聖書)より

 今回三度目の引用となるこの節ですが、キーワードとなる「血」と「贖い」と「赦し」。これを明確に松井江が意識しているのではないかと感じさせる台詞は、刀剣破壊の際にあります。

「これでいい……僕の血は全て捧げよう……許されるはずもないが……」

松井江/刀剣破壊

 「血を捧げる」「許されるはずもない」という言葉には、自らの血を捧げることで赦しを得ようとしている内面が表れているように思えます。
 自らが破壊される(=人間における死と同義?)際の言葉がこれ、ということは普段から「血を捧げることで赦しを得る」という考えが頭にあるのでは?
 つまり、松井江は少々歪んではいますが「聖書に基づいた血の理解」をしていると考えられるのです。
 これがどういうことかというと、彼は「自らが血を流すことで、贖おうとしている」。では、何を贖おうとしているのか……?

 松井江は「聖書に基づいた(キリシタン/クリスチャン)と同じ血の理解と贖いの理解」をしていて、それに基づいて「自らが血を流すことで贖う」ために血に固執していると考えると一応の整合性は取れているように思えます。
 そう考えると、仲間が血を流すことに敏感なのも「贖うべきは自分ひとり」であると思っているともとれて……ウェ(しんどい)。

(2)キリシタンと自害と贖い

 松井江が聖書的な血の捉え方をしていると仮定して、さらに「何に対する贖い」をしようとしているのかを深く考えるとどうしても浮上してくるのが「キリシタン」です。
 島原の乱の最終局面、原城の総攻めの際には「皆殺し」にされた人もいれば自ら自死を選んだ人もいました。籠城者が皆殺しにされた、という伝承は彼らが全員キリシタンであり、全員殉教したのだという印象に基づいているところが無いとは言えません。そんな中で降伏を拒み、自害した人々がいたことは史料により明らかになっています。

 殺してはならない。

出エジプト記 20章13節(旧約聖書より)

 聖書と自殺の関係はここで言及するとややこしいことになるので省くとして、基本は……というか、島原の乱の前後は確かに「自殺は罪」でした。これはルイス=フロイスの記した『日本史』にも記述がありますので、気になる方はそちらをどうぞ。
 迫害による死を、教えを棄てなかった末の死を「殉教」と言いますが「自殺」と「殉教」では天と地ほどの違いがあります。信仰を棄てることを拒み「自殺」した人々は、それだけで罪を背負うことになる。パライソへ行けたとしても、彼らは罪を背負っている

 さて、その罪を背負わせたのは誰か。

 苛烈に彼らを攻め立てた自分達なのではないか、と松井江が思ったのだとしたら。ここで松井興長が島原の乱において、原城の総攻めに参加したという歴史が絡んでくるのではないでしょうか。
 松井江は彼らの「自殺」という罪に対して、自らの血で贖おうとしている。自らが贖い主になろうとしていると考えれば、これもまた「そうなのかもしれない」話の一つです。
 「江の刀は業を背負ってる」だなんて面白くも何ともない洒落ですが、最早人格形成のコンセプトがそれなのではないかと思ってしまいますね。ンな業背負わせてやるなよ……(頭を抱える)。でもこの江の業説、割と桑名江にも当てはまっちゃったりしますよね(豊臣の~)。えぇ……。


5.さいごに

 結論としては「松井江が血に固執するのは、血を流すことで人々(戦に関わった人々なのか、キリシタンなのかは不明)の罪を贖おうとしているからなのではないか」というものに至りました。

 聖書について、また島原の乱についての記述には何分至らないところがあるかもしれませんが、どうか大目に見てやってください。全ては松井くんへの熱いパッションが迸った結果ですので……
 長く蛇足多く、回りくどい文章となりましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。もっと松井くんについて知りたいので、極が楽しみなようで楽しみじゃない気もします。
 やっぱりパライソの円盤買おうかな……。
 追記:パライソ円盤、予約しました!!!楽しみ!

【完】


[参考文献]
2015「新約聖書 新共同訳」日本聖書協会発行
神田千里2018「島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起」講談社
五野井隆史1990「日本キリスト教史」吉川弘文館
高瀬弘一郎2001「キリシタン時代の文化と諸相」八木書店

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