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原罪ってなんなんだ

 最近はやりのタコ型異星人が登場する漫画を読んでいて、気になって調べた方も多いのではないでしょうか、そう。

「原罪ってなんですか?」

 国語辞典やwikiにはちゃんと原罪の項がありますが、いまいち書き方が難解で難しいですよね……。こちらは、それじゃあ自分でまとめてみるか!となった結果の文章でございます。よって、あまり信じないように……。
 あと、私は信仰者ではありませんので、不敬な物言いに感じてもそっと見て見ぬふりをしてやってくださいませ。
 というわけで、サクサクいってみましょう!


1.聖書における「罪」とは

(1)日本人の「罪」と欧米の「罪」

 罪……特に日本人にとって「罪人」とはちょっとヒヤリとする言葉ですよね。例えば警察に捕まるような罪……「犯罪」という言葉もある通り、罪を犯すことに対し日本の道徳倫理は非常に厳しいです。
 アメリカ史上初の日本文化論である『菊と刀』の中でR・ベネディクトは、日本の文化を「恥の文化(shame culture)」、西欧の文化を「罪の文化(guilt culture)」として比較しています。簡単にまとめると、


 罪の文化
・道徳の絶対的基準を説き、良心の啓発を頼みとする
・キリスト教をバックボーンとする欧米人は神の視点を内面化し、罪の自覚という内面的な強制力によって自己を律し、善行をする
・罪責感は「罪の告白」によって軽減することができる

 恥の文化
・何が正しくて何が正しくないかの判断が「世間」に委ねられる
・キリスト教のような超越的な神の観念を持たない日本人は、他人の批評に敏感で、この「外面的強制力」によって自己を律する
・恥辱に伴う激しい痛恨の情を行動の原動力としている
・この際の「恥辱」とは「世間」一般が認めている善行の道標に従えず「名=体面」が保てないということである
・「恥」は世間体を繕うことで解消される


 と、まぁこんな感じでしょうか。
 一つ注意していただきたいのは、この『菊と恥』は戦時中にアメリカで書かれたものであり、難点や欠陥が様々な研究者によって指摘されています。ベネディクトの考察に偏見や思い違いが無いわけではありませんが、それでも日本文化論の古典中の古典、非常に興味深い本です。ぜひ気が向いたら読んでみてください……というのは閑話休題で。
 上記の「罪の文化」と「恥の文化」の比較から分かるように、日本人の思う「罪」と欧米(キリスト教をバックボーンに持つ人々)の考える「罪」は異なる物です。なので「原罪」を考える時には、我々の判断基準に根付く「罪」と同一視しないようにすると少し分かりやすいかもしれません。
 では、次に行ってみましょう!

(2)単数形の罪と複数形の罪

 日本語版の聖書では分かりにくいのですが、英語版やヘブライ語の聖書ではこれは明らかです。
 「罪」には単数形と複数形があります。私はフランス語を履修していたのですが、この何と言うか単数形と複数形の存在に頭を悩ませてばかりで……という余計な話はさておき。

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

ヨハネの手紙 1章8節(新約聖書)より

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

ヨハネの手紙 1章9節(新約聖書)より


 上記はヨハネの手紙1章の8節と9節です。同じように「罪」という言葉が出ていますね。しかし、これ、上と下で複数形と単数形に分かれるんです。

 8節は英語で「sin
ヘブライ語で「ἁμαρτίαν(ハマルティアン)」

 9節は英語で「sins
ヘブライ語で「ἁμαρτίας(ハマルティアス)」

 同じ「罪」という言葉ですが、単数形と複数形に分かれ、さらには意味も異なります。うーん、もうここら辺で頭が痛いですね。
 では、どうして二つの「罪」があるのか。
 簡潔に全て省いて言うなら、単数形の罪は「罪の性質」。複数形の罪は「「罪の性質」を持っているがために犯してしまう「個々の罪」」を意味しているのです。
 付け加えて言うならば、この単数形の罪(ἁμαρτίαν)こそが「原罪」です。
 昔の日本語訳の聖書では単数形の罪を「原罪」、複数形の罪を「罪過」と表したそうですが、それでは「原罪」と「個々の罪」を見ていくことにしましょう。

2.「原罪」は「罪の性質」?

(1)原罪ってなんだ

 今までは言葉の解説でしたが、いよいよ「原罪」とは何なのかに突っ込んでいきたいと思います。いや、緊張しますね……。

あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、 あなたは必ず死ぬ。

創世記 2章16節、17節(旧約聖書)より

 これは創世記の第二章にある文章です。
 神は人に自由意志を与え、自由な意志で神を礼拝し、賛美し、神を喜ばせるようにとアダムとイブを造りました。ですから、最初から人間には自由意志があったのです。そして、その自由意志で以て神に「服従」することを求めました。で、上記の言葉が出るわけです。

 まあ、これに従えていれば人間は永遠の命を得ていたんでしょうけど、残念ながら(残念ながら?)アダムとイブはこれに背きました。では最初の罪を犯す様子をダイジェストでどうぞ。

 サタン(悪魔)は蛇の姿をとり、最初にイブを誘惑しました。アダムは神から直接命令を聞いていたのですが、イブはアダムから間接的に聞いていたので、騙しやすいと思ったのかもしれません。又聞きってそういうことあるよね。蛇はイブを「これを食べれば、あなたも神のようになれる(つまり、永遠の命を手に入れることができる)」と誘惑しました。これは後で触れますが、蛇(サタン)自身が「自分も神のようになりたい」と思って堕落したのでまぁ、経験則に基づく勧誘ですよね。
 で、イブは「食べてはいけない」と言われていた善悪の知識の木の実を食べ、次に夫のアダムにも与え、アダムもそれを食べてしまいました。

 これが、アダムとイブが犯した「罪」です。
 「木の実食べただけで罪なんですか!!?
 と、思った方。思い出してください、神の言いつけを。
 つまり、罪の本質は「神への反抗」です。何が善で何が悪であるかは自分で決めるという態度は、自らを神とすることです。イブは蛇に唆され、しかし自ら善悪の知識の木を見て、その選択をしました。つまり自由意志によって、本来神のみが持つべき「善悪の基準」を人間が持ってしまったのです。これはある意味「神のようになった」と言えますよね。

 で、蛇とアダムとイブが犯した罪に対して、神はそれぞれに二つずつ罰を与えました。


・腹ばいで歩くようになった
・イエスによって滅ぼされることが確定した

女と男
・出産の苦しみと男の支配に服すること
・労働の苦しみと死の宣告

 世の中の蛇はサタンのとばっちりで腹ばいなのか……という話はさておき、これが原罪のあらましです。
 神への反抗こそが「原初の罪」であり、「善悪の基準」を人間が持ってしまったことが「原罪」なのです。

(2)ひとつめの原罪

 さて。アダムとイブが犯した原罪については大体なんとなく分かっていただけたと思います。分かりにくかったらすみません、wiki読んでください……(すぐにwikiに頼る)。
 しかしながら、正しくはこの原罪は「二つ目の」原罪です。
 イブが善悪の知恵の木の実に手を出す原因に関わる蛇(サタン)にも罰が下されたことから分かるように、実は「一つ目」の原罪は蛇(サタン)によるものなのです。

主をほめたたえよ すべての御使いよ。
主(しゅ)をほめたたえよ 主の万軍よ。

主の御名をほめたたえよ。
主が命じて それらは創造されたのだ。

詩篇 148篇2、5節(旧約聖書)より

 そもそも、サタンは「天使」でした。
 天使は詩篇にもあるとおり、人間と同じく神によって創造されたものです。

 神から愛された彼らの中でも天使長という肩書を持つ「ルシフェル(ルシファー)」という天使がいました。
 ルシフェルは神と共に天地創造を行い、神に愛されるものでしたがそれは人が造られてから変わります。神は後から創造した人を愛している、実は神は天使を天地創造の手伝いをさせるためだけに創造したのであって本当は愛していないのではないか?と、ルシフェルは人に嫉妬し、神に不信感を抱くようになってしまいました。
 で、神へのクーデターを企てるわけです。
 神を追放しようとしたルシフェルですが、勿論失敗して逆に追放されてしまいます。故に「堕天使」であり、天使から堕ちたルシフェルは「サタン(悪魔)」と呼ばれるようになったというわけで。

 ルシフェルと人間の罪は同じです。そう「神になろうとした」のです。
 同じように「神になりたい」と堕落した人間の犯した原罪は、第二の原罪と取ることができるのではないでしょうか。

 しかしながら、このルシフェルの堕天のお話はキリスト教の伝統的解釈の一つであって、明確に記されている部分は無いので悪しからず(ヨハネの黙示録12章7節をこの追放劇とする場合もある)。

(3)ふたつめの原罪と、みっつめの罪

 二つ目の原罪は先述の通り「アダムとイブ」の犯した罪です。では三つ目の罪は!というところで「複数形の罪」と「単数形の罪」が再登場します。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマの信徒への手紙 6章23節(新約聖書)より

そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

ヤコブの手紙 1章15節(新約聖書)より

 
 アダムとイブが善悪の知恵の木の実だけでなく、永遠の命を与えるいのちの木の実を食べてしまわないようにと、神は二人をエデンの園から追い出しました。これが世に言う「失楽園」ですね。
 人はこの時から逃れられない死の運命を定められることになり、様々な苦しみに苛まれるようになりました。そしてここで三つ目の罪です。

 人類は「罪の性質」を継承して誕生するようになった。

 要は最初の人間であるアダムとイブの子孫は同じ性質を持って生まれてくるのです。まぁ、人類の祖先なんでね。ここから枝分かれしていったので当然っちゃ当然なんでしょうか……というのはさておき。
 現代でも子は親から「肉体的性質」を継承しますが、同じように人間は内面的に、アダムとイブ以来「原罪」を宿しているのです。これは「罪の傾向性」とも言います。
 神から背を向けてしまった「原罪」を血によって、全ての人が受け継いでいる……よって、我々は罪を繰り返し犯してしまう。罪の性質があるからこそ何かの引き金で罪を犯してしまう……というのが三つ目に引き起こされた罪です。
 単数形の罪である「原罪」があるからこそ、人は複数形の「罪過」を犯すという意味がちょっと分かったような気がしますね。

3.まとめ


・原罪は「神への反抗」であり「善悪の基準を持ってしまったこと」
・「原罪」があるから人は「罪過」を犯す

 この原罪から信仰者を解放するのが、後に現れるイエス・キリストにあたります。その点にはちょっとだけ前の記事で触れているので気が向いたら読んでみてください。
 正直中身を頑張って書きすぎてお粗末なまとめになったことは否めませんが、まぁ、こんな、感じです!!というわけで。

 日本人的には理解しにくいところのあるキリスト教の「原罪」ですが、じっくり考えてみると面白いかもしれませんね。それではまた。


【参考文献】
2015「新約聖書 新共同訳」日本聖書協会発行
ルース・ベネディクト2005(翻訳版)「菊と刀」講談社学術文庫
大久保正健訳2015「原罪論」(ジョナサン・エドワーズ選集3)新教出版社
バイブル・ハブBible Hub: Search, Read, Study the Bible in Many Languages

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