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2024-02-04

・高校生1年生の頃、オーストラリアに留学していた。そこではときどき「What do you want to be in the future? (あなたは将来何になりたいの?)」と聞かれた。そこまでおかしな質問でもないが、世間話として将来の話題が出てくることに価値観の違いを感じたものだった。
 もしかしたら、そのことが記憶に残っているのは「What」という語に対してある種の強さ、強迫感を感じていたからかもしれない。
 将来を「何」という一意に定めることが、私にはできなかった。「お金持ちになりたい」と笑いながら言ってその話は流してしまうのが常だった。生来「一つに集中する」ということが苦手だったので、欧米的な「定まった自分の価値観を持つ」という文化に迎合することも難しかった。

・日本は楽だ。価値観をぶつけ合ったり披露しあう必要がない。誰にもそれを強制されず、逆に「自分」を表現する人を疎んだりする。そこには文脈と空気があり、お互いを尊重することとはお互い触れ合わないことである。
 「相手の領域に踏み込まない」ことでお互いの関係を良好に保つことを、言語学の語用論領域などでは「ネガティブ・ポライトネス」と言ったりする。Brown & Levinsonが提唱したポライトネス理論の一部で、日本では放送大学の滝浦先生などが研究されている。講義で一度拝見したが、とてもわかりやすく教えてくださっていた。私が不真面目なのであまり覚えられていないが。
 ポライトネス理論自体は、「人間はお互いのフェイス(面子)を守ることでお互いの関係を良好に保っている」とか、そんな感じの内容だったと思う。そのために使われるのがポライトネスで、「ネガティブ・ポライトネス」とは言っても悪い意味ではなく、「ポジティブ・ポライトネス」の対義語だ。ポジティブ・ポライトネスの例としては、仲の良さをアピールするような言動、相手への共感、仲間内で通じる言葉(方言など)が挙げられる。日本人が考えるアメリカ人へのステレオタイプだと考えれば良いと思う。

・私はこのポジティブ・ポライトネスが苦手だ。相手に共感したり、働きかけたりした経験があまりない。日本人には同じように苦手な人が多いと思う。
 しかし考えてみると、今までの日本にポジティブなポライトネスは必要なかったのではないだろうか。(最近のネットの論争は脇に置いて)言語的にはほぼ統一された単一民族が押し込まれた島国に、あえて共感を示すためのポライトネスが発展する必要はあるのか。必要な場面もあるとは思うが、人種のサラダボウルであるアメリカと違い、日本ではお互いのコンテクストを共有しやすい。

・私が日本を楽に感じるのはこの点なのだろう。結局人間生まれた場所が一番と言ってしまえばそれまでだが。
 「言わずともわかる」というこの言葉を嫌う人は、最近増えている。たしかに、言ってくれないとわからないということも多々ある。ただそれでも、基本的な価値観を共有できるということは、私にとって一番ありがたいことなのだ。

・ただし、「世の中には価値観が全く違う人間がいる」ということを理解しておくのは決して無駄なことではないと思う。相手の行動について考えるとき、自分の尺度のみを用いて考えていると、その行動原理が全く理解できないことがある。SNSを見ているととくにそう思う。
 だから、一度海外に行ってみるのは良い。私は海外に行って価値観が「変わった」のではなくむしろ「変われないことがわかった」人間だが、それでも相手の立場を想像する力があった方が、理解できないことに対するフラストレーションを軽減できる。多分。

・「一つのことに集中できない」というどうでもいい悩みについて書きたかっただけなのに、どうしてこんな話になったのだろう。この文章こそがその証明になってしまった。文章を書いて生きている人を尊敬する。主張が一貫した文をまとまった量書くことなんてできそうもない。やはり文章のオチも思いつかないので、なあなあにしておこうと思う。

参考
ポライトネス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/ポライトネス

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