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見て見ぬフリの #フィルター越しの私の世界

「見て見ぬフリ」をするな。

よく親に言われたものだ。
チョロチョロと水滴が垂れる蛇口の栓。
床に落としてしまったポテチのカス。
脱ぎっぱなしの靴下。零れ落ちた涙。

いや、最後のは関係ないのだけれど、
口酸っぱく、耳にタコが出来るほど言われた。
(ちなみにこの状況をタコの酢の物と僕は呼んでいる)

小学校に上がり、しばらくして。
その「タコの酢の物」くらいに言われた
「見て見ぬフリをするな」が現実的に厳しいことを知った。

「目の前で困ってる人がいたら?」
「いじめられている人がいたら?」
「不正を見てしまった時は?」

世の中の全てを「見て見ぬフリ」をして、
何らかの対処をすることは難しいのだ。

ある日、帰り道。
道端で困ってそうな人がいた。
声をかけたら、そのままトレンチコートの間から
陰茎を見せられてしまった。気持ち悪かった。

「いじめられている子がいる」と
先生に密告した子がいた。
翌日、学級会で糾弾されるイジメっ子。
イジメの対象はその子になった。
虐めを受けていた子からも無視されるようになっていた。

「見て見ぬフリ」をしなかったことにより、更に「見て見ぬフリ」をせねばならないようなことが起きる(ときもある)と知った。

そして、「見て見ぬフリ」が便利なことを知った。
トラブルはごめんなのだ。
「見て見ぬフリ」が出来なかった場面で、感謝されることの割合など1割にも満たなかったし、基本は損しかしなかった。

そのうち、高校生くらいまで面倒なことを「見て見ぬフリ」で過ごしているうち、「見て見ぬフリ」どころか問題要素が見えなくなってしまった。「そんなもんじゃん。」とスルーことも増えてきた。

僕が本格的にインターネットに触れはじめた頃、
匿名性が高くてアホほど攻撃的な人が多いネット掲示板では「ヌルーする」とかそんな単語が使われていた。
「見て見ぬフリをすること」をスルースキルと呼ぶのを知った。
「見てるだけ」くらいがマシということも知った。

インターネットでは今日も「見て見ぬフリ」が出来ない人、「見ない」のフィルターがガバガバな人達が損をしている。例えば、嘘に騙されて間違った情報や悪意を拡散してしまっている。善意の拡散による副作用みたいなものが存在するっていうのに、今日も行方不明者とかのツイートを確認不足のまま拡散してしまっている。見なくていいものまで見て、心の健康をブチ壊していたりする人さえいる。

時は経って、今。
だいぶ大人になってしまった。
さて、おそらく後数年もすれば「見て見ぬフリはダメ!」と叱った親の年齢と同じくらいの年頃になる。でもそんな現実も「見て見ぬフリ」をしたくなる、というよりも今こうやって書かなければ見えてすらいなかった。

もし子どもが出来たとして僕はどうするんだろう。
「嫌なら見るな」と教えるのだろうか。

今は分からないし、そんな現実も見て見ぬフリをする。
そして、見て見ぬフリを出来なくて失敗してる人たちを見て、こう戒めるのだ、「人の振り見て我が振り直せ」と。

そして、こんな駄文もどこにも届くこともなく、
TL上でリンクを僕が貼ったとしても「見て見ぬフリ」で流れていく。

でも適当に読まれて「見て、見るフリ」で御高説を頂くより、
ずっとスルーされるくらいの方が、余程マシなことだと思う。

今日も僕は、罵詈雑言とフィルターをかけられた身体の写真が流れていくTwitterのTLを「見て見ぬフリ」のフィルターで泳いでいく。


いつになったら僕らは「現実」の見て見ぬフリをやめるんだろうか。
そんな、「見て見ぬフリの #フィルター越しの私の世界 」。

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