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未練の話#2 未練と夢

 未練に続いて、夢についても考えることに致します。夢のことを考えるようになったのは、実は最近ですねぇ。いやぁ、実はずっと頭の隅にはあったんですけれどもね、あたしはたぶん悪い夢を見ることが多いので、それもねぇ、あまり思い出したくないことをよく夢に見るので、どこか夢について考えることから逃げていたのだと思いますなぁ。むしろねぇ、夢のことが頭から離れなかったでしょうなぁ。ある人にね、あたしの苦しさを語るタイミングがあったときに「そういえばあたしは悪い夢をよく見る」ということを言ったことによって、少し夢というものと、面と向かってみよう、まずはあたしの夢を直に触るように分析するのではなくて、夢というものがどういうものか、外から調べてみようと思った次第です。
 こんな夢を見たことがあります。夢を覚えておくために、眠りを浅くしてみようと思った。眠りが浅い方が夢を見やすいらしいからだ。長く眠れば、その分朝の方は睡眠が浅くなる。そう思って、早く布団の中に入った。しかし、体はそのことを分かっていないから、一向に寝てくれない。羊でも数えてみるかと思い、数え始めるも、百も万も数えても眠れない。しまったなあ。布団に入るのがさすがに早すぎたかと思っていると、いつの間にか寝ることができた。そして気づいたら目が覚めた。いつもより起きるのが早かった。ただ、早く寝て、早く起きただけで、夢の内容は覚えていなかった。そういう夢を見たのだが、どういうこと?
 夢についての本を読んで調べて知ったことはとても面白いものでしたよ。
(まだ読んでいる途中のものもあるので、これからもっと面白いものが増えると思いますがね。)
 一番あたしが面白いと思ったことをだいたい書こうと思います。間違いがあったらすみませんねぇ。
 夢はね、昔は「神のお告げ」として扱われていたんです。現にイエスのお父さんは夢のお告げによりマリアと結ばれた? らしいですよ。そのようにね、夢で見たことが生きることへの何かを導くような形で受け取っていたんですな。あたしが読んだ本によるとね、みんなが当たり前のように知っていることとして「夢=神のお告げ」と言われていたそうですよ。夢というのは、昔はこのように使われていたのですなぁ。
 次に、頭のいい人たちの頑張りにより、夢が神のお告げだとする考え方は薄まっていった。そして「たかが夢」という扱いを受けるのですなぁ。
 その頭のいい人たちの頑張りの中でね、フロイトが1900年に書いた『夢の解釈』により、夢が神のお告げではない考え方が始まったそうですよ。そしてね、夢というのは「たかが夢」ではなくて、科学的にも重要だと、特にね、人の病を治すために考えが進められたそうですよ。
 心に難しさをかかえる人を分かってあげるための「夢分析」から、ピンピンしている人にも、その人の「考えていないけれど、感じていること」が夢の中に見られるということが分かったということですなぁ。
 あたしは昔に、エマ・ワトソンととミランダ・カーのどちらかと結婚するって神に夢で言われたのだけど、今だに電話もメールも来ないって卑弥呼に相談しまして、卑弥呼は「まあ焦らず待て」って。だから、フロイトと二人で居酒屋で飲みながらだらだら待ってたら、フロイトが「それはお前がスケベだってことをお前に教えてくれているだけ」だってねぇ。全く、どっちが本当なんだか、さっぱり分からないぜ。あーあ。科学なんて進歩しなければ良かったのになぁなんて、訳の分からないことを言ってますが、えぇ、あたしが一番分かっていねぇんです。
 さらには、夢はね、これはやっかいですよ「わかりにくい伝え方をする」という作り方でできているんですなぁ(例えばお日様は「父」であるなど)、その「わかりにくい伝え方をする」ことが分からないと、夢について知ることはできないというね。なんとも訳の分からず、引き込まれる話ではないかと思いますがね。人間なんてただの動く塊ですよ、見ようによっちゃぁね、でも心に隠された、かなり込み入った何かについて、頭のいい人たちがたどり着いたんですな。
 ただ、あたしが読んだ本は、フロイト、ユング、フロムなどの昔の人の本なので、新しい夢の考え方がどのようになっているかを知りません。あたしは調べられたことよりも、興味深い話に惹かれる節があるので、何かが分かり始めたわくわく感のある話が好きなのだろうと思う訳でございますな。

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