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二本目のチューハイ


 通りすがりの人からしたら、彼の様子は不可解に映っただろう。駅のホームで二本目の缶チューハイを飲もうとする男。一本目の缶は地面に転がっている。犬に吠えられて涙を流す男。泥棒でもしようとしたのだろうか。犬は家を守ろうと懸命に、泣きながら走る男に吠えていた。
 桐矢が犬を飼い始めたのは一年前の秋。チョコ名付けられたその犬は今、彼の部屋で灼熱の地獄に堪えているかもしれない。桐矢はエアコンのスイッチを消して家を出てしまったのだ。リモコンで冷房を消したことを、頭も指もはっきりと覚えている。季節は初夏だが、今年に入って始めての猛暑日となった。チョコは、灼熱の部屋で、生きてはいないかもしれない。
 気づいたのは、帰りの電車に乗ってから。満員電車の中で桐矢は青ざめ、貧血を起こしそうになったので途中の駅で降りた。何とかベンチで気を取り戻すもチョコの安否が頭から離れなかった。ただ、彼は動けなかった。自分が引き起こした現実を、受け入れることができなかった。
 降りた駅のホームにはコンビニ。酒でも飲んで全て忘れたい気持ちになった。缶チューハイを一本買う。ベンチに座り、飲み干した。


 システムエンジニアとして働く彼は中年を迎えるも独身、一度も彼女ができたことがない。風俗へは何度も行った。彼は意欲を向ける方向を見失っていた。日々知識のアップデートが求められる仕事だが、学習する意欲が沸かず、大きな仕事を任せられることもなく、日々簡単で同じような仕事ばかりをこなしていた。
 犬を飼い始めて数ヶ月は、チョコが喜ぶように、チョコが楽しめるようにという考えで頭が満たされ、やっと自分は生きる方向を見つけたような気持ちになった。しかし、次第にチョコがうっとうしくなってきた。犬の世話は、もちろん癒やしもあったのだが、餌の準備、トイレのしつけ、散歩など、命を背負う責任が人にのしかかる。桐矢はその責任を背負いきれなくなっていた。
 彼の趣味はお酒を飲むことと、動物園に通うことだった。昔から人よりも動物が好きだった。動物は余計なことを喋らず、ただ自分の生き方を全うしている。桐矢もそのようになりたいと思っていた。
 「犬を飼いたい」と両親にせがんでいた過去はあまり良い思い出ではない。両親に付いてホームセンターに行く度に、ペットコーナーのガラスの奥にいる犬や猫たちに、自分の弱くて震えた気持ちを寄せていた。両親にはいつもこう言われていた。
「うちはあんただけで精一杯」
 桐矢はこの言葉に含まれた意味を噛み砕くことに苦労していた。言い返すことが苦手な桐矢は両親のその言葉を受け入れるばかりで、幼い子がよく言う「じゃあ、僕が育てる!」というような、自信溢れる発言は出なかった。そうか、うちは、僕だけで精一杯なんだ、と、違和感もまとめて受け入れるしかなかった。しかし、彼は自分で育てられると心の隅では思っていた。
 おそらくその両親の反対の反動もあり、大人になっても動物を見ることが好きだった。動物に癒やされる体質なのかもしれない。友達も、ましてや恋人もいないから、心を癒やす場所がない。動物は、なんだか桐矢の心を癒やしてくれていた。もし、あのとき両親がペットを飼うことを許してくれていたら、大人になった今、犬を飼うなんて間抜けは判断しなかったかもしれない。「うちはあんただけで精一杯」という言葉が頭の中で繰り返す。
 人間関係はおろか、箸さえ上手く使えず中学に入るまでスプーンとフォークでばかり食事をしていた。中学に入ると、恥ずかしさもあって必死に特訓した成果もあり箸を使えるようになったが、それまではご飯の度に両親のため息を浴びながら生きていた。桐矢は、自分が不器用なことを知っていた。自分はペットなど飼ってはいけないと知っていた。しかし、誰のせいか、自分のせいか、今、桐矢の飼い始めた犬は部屋で死んでいるかもしれない。

 桐矢はスマートフォンで恐る恐る検索した。
「犬 高温 耐性」
 犬が高温に弱いことは知っていた。犬は身体で汗を掻くことができず、舌のみで汗を掻く、特に高い温度の場合の体温調節が苦手な動物だ。それでも、もしかしたら死ぬことはないのではないかと、桐矢は思いを巡らせた。しかし、桐矢の気持ちとは裏腹に、動物愛護団体に非難された女性の記事を見つけてしまう。
 飼い犬を自宅に放棄。被疑者の女性は、わざとではない。ただ、エアコンを付け忘れてしまっただけだと主張。それに対し、動物愛護団体の主張は「犬は人間と仕事において助け合うため生まれた動物である。人間の支配下で生きるのではなく、対等に能力を補い合って生きることが自然な関係だ。犬の中にはその能力を生かして盲導犬やセラピー犬として働く犬がいるが、彼らは専門的な機関で育成されたスペシャリストである。心の弱い個人が犬を飼い、そこで癒やしを求めたり、共依存関係(つまり犬がいないと生きていけないと思うこと)に犬を引きずり込む行為には反対である。飼育できるほど心の余裕がない人は、犬ではなく専門的な機関を頼るべきであり、個人的な判断で犬やその他のペットを飼うべきではない。今回の被疑者がわざとではないことは重々承知しているが、今後同じようなことが起こらないように、飼い主となる人は、必要な能力があるか、心の状態は適切かどうかを確認する検査等をするべきである。」というものだ。
 桐矢の今の状況と何一つ変わらない。桐矢は自分が犬を飼い始めたきっかけを思い出す。動物園の飼育員が必死に身体を動かして働いている様子が、とても生き生きしていて、感化されたのだった。普段机に座りパソコンのディスプレイだけを眺めて生きている、モチベーションもなく、同じような、誰でもできるような作業を毎日している。自分は、とても寂しかった。犬でもいいから、自分と一緒に生きてくれる存在が欲しかった。もちろん、チョコは自分よりも先に死ぬ。けれど、不謹慎かも知れないが、死ぬことでさえ、自分の心を動かす大事なイベントになるだろうとも思っていた。
 生きる方向性を見失い、自分の心の弱さに蓋をして、犬を飼うことで何かを解決した気になっていたのか。好きな動物に触れ合えれば何かが変わるかも知れないと、勢いで飼い始めてしまったのか。
 悪いことをしてしまった。取り返しの付かないことをしてしまった。桐矢は自分を責めた。
 桐矢はますます現実と自分を受け入れられなくなった。
「もう、どうでもいいや」
 そんな言葉も頭に浮かぶ。立ち上がり、駅のホームのコンビニに足を進める。先ほどと同じ安い缶チューハイを買う。先ほどと同じ店員。流れるようなレジの作業。ちらっと桐矢の顔を見る。不審だっただろう。
 先ほどのベンチに戻ると、一本目の缶が下に転がっている。拾うこともせず、二本目の缶チューハイを開ける。まだこの時間は駅の利用者が多い。じろじろ見られる。でも、桐矢は、もう、どうでもいいや、と開き直っていた。俺はあの女性と同じように、動物愛護団体の偉い人に、そして世間に怒られるんだ。犬の死体はどうやって処理するのだろう。後で調べればいいや、部屋が死体で臭くなっていなければいいな。
 まあ、いいや。どうでも。


 二本目の缶チューハイは、少し苦く感じた。人生の苦さだ。仕方がない。この苦さは、知っている。今の状況は苦い。チューハイは、人生ほど苦くはない。
 目の前に鳩が歩いてくる。鳩は、転がるチューハイの缶を蹴った。缶は少しだけ転がった。その瞬間、ふと、もしかしたら、まだ生きているかもしれない。急いで帰れば、ギリギリ生きているかもしれない。今すぐ帰って、病院に行けば、大丈夫かもしれない。そして、何事もなかったように、動物を大切にする自分に、そういう、ちゃんとした、そういう、恥ずかしくない自分に戻り、誰にもバレずに人生を続けられるかもしれない。桐矢は、そう思った。
 桐矢は立ち上がった。二本目の缶チューハイを飲み干し、鳩が蹴った缶も拾って、ゴミ箱に捨てる。タイミング良く電車が止まる。自分の駅まで、後二駅。
 電車を降りて、自分のマンションがある場所まで走ろうとする。しかし、酒が回って上手く走れない。住宅街を抜け、数百メートル進まなければならない。桐矢は、必死に自分を立て直す。そのときだった。
「ぅぅわんっ!!」
 桐矢は、びくりとした。どこかの飼い犬が、番犬の使命を全うしようと、夜中に走る不審な男に向かって、全力で吠えている。「ぅわん!わん!」桐矢は、怒られている様な気持ちになった。
(俺の仲間に、なんてことをしてくれたんだ!)
(お前の人生の問題に、俺たちの仲間を巻き込むな!)
「ごめんなさい、、、」
 桐矢の目からは涙が出た。泣きながら走る男に、犬は必死に吠え続ける。桐矢は喉元が詰まる思いがした。先ほど見たばかりの記事にあった動物愛護団体の言い分が浮かぶ。スーツはどんどん熱を帯びてくる。チョコの容態を思う。
 夜だというのに、気温は下がっていない。雲はひとつもない。昼の太陽が残したエネルギーが行き場を失いこの国の生き物の肌へ逃げ場を求める。賢く逃げた者たちは、空調の効いた建物の中で、静かな夜に身を潜めている。
 エアコンを消してしまったのは、ただ、いつもの癖で消してしまっただけなのだ。犬と過ごす始めての夏。その過酷さを想定していなかった。昔から、予定を立てることも、先を想定するのも、苦手なのだ。一つの命を消してしまうほど、自分の能力は、低いのだ。
 昔、箸を使えない小学生だった桐矢に、ため息をかけ続けた両親が頭に浮かぶ。
「ほら言ったでしょ。まずはあんたの人生をちゃんとしなさいよ。」
「自分の人生もちゃんとしてないのに」
 そう言われているような気がする。何も言えない。
 とうは力が抜けてくる。死体のある部屋が怖くなる。こんなことを起こした自分が嫌になる。
 走る体力もなくなってきた。息を切らして、涙を流して、気持ちがぐちゃぐちゃになっていた。まだ灼熱の世界で、さらに高温の部屋を想像すると、吐き気がする。家まであと百メートル。緊張で心臓が波打つようだ。


 桐矢が歩く方向に一匹の猫が脇の民家から、さっと飛び出てきた。じっと桐矢を見ている。首輪を付けていないから、野良猫だろう。気にせず家に向かおうとする。猫は人間が近寄るとすぐに逃げてしまうはずなのだが、それどころか桐矢が近づくと道の真ん中で座りこんだ。その目は、桐矢を観察していた。猫にも不審に思われたのかもしれない。それはそうだろう。泣きはらした顔の中年のおじさんだ。
 野良猫はどうして桐矢を見ているのだろう。桐矢との距離が二メートルほどになる。桐矢は立ち止まる。つい、話しかける。
「そこをどいてくれないかい」
 猫はじっと桐矢を見て、そこをどかない。
「家で犬が死んでいるかもしれないんだ。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。
「だからどいてくれよ。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。
「なんでどいてくれないんだよ。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。
「なんだよ、その目は。お前も、俺を責めるのか。もう、しょうがいないじゃないか。」
 桐矢が猫をのけて先へ進もうとするが。猫はその前に立ちはだかる。小さい身体のはずなのに、その眼光にひるんで足を止めてしまう。
「なんだんだよ!犬が生きているかもしれないんだぞ!お前が止めたせいでチョコが死んだら、お前のせいだからな!」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。
「ああ、分かったよ。もう、死んでるんだろ。お前はそれを知っていて俺を咎めにきたのか。分かったよ。俺が悪いよ。もう。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。桐矢はまた涙が出る。
「いつだってこうだ。俺が悪いんだ。不器用な俺が悪いんだ。犬を飼いたいと思った俺が悪いんだ。できのわるい俺が悪いんだ。分かってるよ。分かってるよ。俺がチョコを殺したんだ。分かってるよ。俺が悪い。。。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見る。
「何でこんなことになっちゃったんだろう。これだったら、動物に期待なんてしなければよかった。動物が好きなんて思わなければ良かった。こんなことになるなら、今までの惨めな生活を続けていればよかった。別に惨めでもいい。誰にも好かれなくてもいい。こんな面倒なことが起こるくらいなら、孤独に死ねばよかった。チョコも死んだし。もう、死にたい。死にたいよ。俺は、、、。もう、、、。」
 桐矢はその場に倒れるようにしゃがみ、頭を地面に付けて泣いた。猫は黙ってじっと桐矢を見ていた。
 そこで三十分ほどの時間が経った。その三十分は桐矢のぐすぐすという鳴き声だけがその場に響いていた。桐矢は三十分間ずっと、自分の惨めさと戦っていた。桐矢は顔を上げる。猫はまだ、黙ってじっと桐矢を見ていた。
「なんだよ。おもしろいのか。なんなんだよ。」
 しかし、猫の目は何かを面白がる目をしていないことは、桐矢には感じられた。睨まれているわけでもない。見上げた猫の顔は、何かは分からないが、大きなものをまとっているように感じた。
「なんでそこをどかないんだよ。どいてくれないんだよ。何かを知っているのか。」
 猫は黙ってじっと桐矢を見ていた。桐矢は座り込んだ。
「なあ、教えてくれよ。いったいどうしてお前はここで俺を止めるんだよ。」
 猫は何も教えてくれなかった。黙ってじっと桐矢を見ていた。
 猫が何も教えてくれないのは当たり前だが、それを期待した自分が悪いと思い直す。一度冷静になって考えることにした。
(チョコの死体をまず冷やしてあげなければ。コンビニによって氷を多めに買って帰ろう。俺の布団でくるんで、それで、犬を火葬してくれるところに連絡しなければ。まだ死んで間もないだろうからそこまでの臭いはしないだろう。排泄物が漏れてるかもしれないが、それはしょうがない。)
(これからはペットを飼うなんてことはやめよう。自分の身の丈にあった生活をしよう。もし犬が死んだことがマンションの他の住民にバレてしまっていたら、もしかしたら警察やメディアに連絡されてしまうかもしれない。それは、もうしょうがない。自分がしてしまったことだ。)
(俺は、やっぱり寂しかったのか。チョコには、たしかにうっとうしいって思ってしまっていたけど、本当に助けてもらった。やっぱりかわいかった。ただこれからは今までみたいに動物園に行って癒やされるくらいが自分にはちょうどいいのかもしれない。)
(これからもどうせ友達や恋人はできなそうだ。家族も仲がいいわけでもない。これからは一人で生きて行かなければならない。チョコの十字架を背負って、一人で生きていかなければならない。俺は、なんて弱いんだ。でも、しょうがない。これが俺の人生なんだ。。。)
 桐矢がブツブツと一人で考えている内に、いつのまにか猫は居なくなっていた。冷静さを取り戻した。桐矢は立ち上がり、コンビニで氷をたくさん買って家に向かった。


 マンションにたどり着いた。いつもより数時間遅い。周囲の部屋の明かりは全て消えている。さすがにもう暑さは和らいでいた。
 自分の部屋の前に立つ。鍵をカバンから取り出す。少し、手が震えた。鍵は冷たくなっている。思わず、チョコを悼む。涙がまた出そうになるが、こらえた。
 鍵穴に鍵を差し込む。
「っわん!」
 中からチョコの鳴き声がした。桐矢は驚いて、急いでドアを開ける。チョコが玄関へ駆けてくる。思わず、チョコを抱きしめる。
「良かったあぁ!良かったあぁ!」
 桐矢は声を上げて泣いた。

 部屋はエアコンが付いていた。リモコンは床に転がっていた。チョコは自分でエアコンのスイッチを入れていた。
 チョコの爪がフローリングをカタカタ鳴らす。「っわん!」と吠えて桐矢をじっと見る。桐矢は餌の準備をする。
「ごめんな、ご飯が遅くなっちゃって。」

 夜冷えした洗濯物を取り組む。頭も冷めるまで、少し風に当たることにした。チョコは餌に満足したのか、少し冷房で冷えすぎた部屋の中で丸くなっている。冷凍庫に入れた氷は、その内に三本目のチューハイにでも使おうと思う。

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