見出し画像

恋愛の話#2 愛について


 
 心や人生に汚れが付くとと、その汚れが「愛」というものに見えてくる場合があります。汚れは汚れなのですが、「あなたも汚れている、わたしと一緒ですね」という感覚が訪れることがあるのであります。この感覚に陥ると、汚れが「愛」に見えるのよ。
 汚れとは何か考えてみましょう。汚れはネガティブな感情を生み出す経験や、そのネガティブな感情そのものなの。例えば「テストでいい点が取れなかった」「私より仕事ができないやつが嫌い」「みんなの前で声が裏返ってしまった」「彼女に振られた」といった経験や、「劣等感」「慢心」「恥」「寂しさ」などの感情がありますね。
 お互い汚れていることに嫌悪し合うことだってありましょう。汚れていること自体は気持ち悪いことなのだから。近寄りたくないし、自分の汚れはないことにして、相手の汚れだけをあげつらい、馬鹿にしたくなることだってあるでしょう。
 しかし汚れは愛の必要条件ですの。汚れがないと愛とは何かが分からないでしょう。そして愛の力を手にするには努力が必要。自分の汚れも相手の汚れも、ちゃんと「汚れている」と認めること、汚れを見つめること。汚れはとれないの。諦めとは少し違い、汚れたまま、ただそのまま次に進むことなの。
 愛は得なければならないものではないわ。愛など知らなくとも生きて死んでゆくことはできる。愛など知らなくても十分に、十分すぎるほどに人生を謳歌することはできるわ。
 愛は、人生の目標設定として高すぎるもの。愛を見つけてしまい、愛のとりこになりすぎるのもいかがなものよ。愛の幻影を追いかけて、自分を見失ってはいけませんわ。
 愛の力を手にするのは、愛を見つけるのは、とても難しいもの。生きているうちには分からないかもしれない。それを知っておく必要があるわ。だから、個人的には“ほどほどの愛”で、生きていければいいのではないかと思いますわ。汚れは、汚れなの。落ちないけれど、少し隠しながら生きていくのも人間らしいじゃない。しっかりと汚れを見てくれる人が出てくるまで、とっておいても損はないわ。
 悲しいかな、たくさん愛されてきたと思っている人は、汚れが少ないものなの。そういう人は、「愛の探求」は来世にお預けと思ってよいと思うわ。今世は存分に愛される人生を送るといいわ。反対に、傷だらけで満身創痍で生きている人は、もしかしたら前世でお預けにされた「愛の探求」を、今回の人生の中でしてもいいのかもしれない。いやいや、もうこんな人生うんざりだと思うならそれでもいいわ。来世に後回しにしましょう。私はそうしてるわ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?