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『不機嫌な果実』林真理子



1 結婚


 この作品を読んで、人間はどのような経緯で結婚を決意するのだろうかと思った。上から目線なことを書くが、なんだかこの作品に出てくる人たちがとても幼稚に感じた。そのお陰か分からないが、一瞬で読み終わった。

 結婚する前に、この人と結婚をしたらどうなるのだろうかとどれだけのことを考えるのだろう。でも、全てを予測して考えることは難しいのは分かる。なので、結婚して何かしらの影響は受けるにせよ、その前に相手に左右されない精神力を育てることの方が優先なのではないかと思うこともある。ただ、そんなことを言ったら仙人にならないと結婚できないし、仙人にならずに死んでいくのではないか、仙人を目指すのであればそれも本望なのかもしれないが、仙人になる途中で仙人になることを諦めて、誰かと結婚する位がちょうどいいのかもしれない。相手に期待を膨らませ合う関係は良くない、と言うのであれば、合理的に安定した結婚生活を送るには、それが正しい手順なのかもしれない。二人で生きるのだけど、一人でも生きられる。そうすれば、相手にどんな問題があろうと無かろうと、別に自分の人生にはさほどの影響がない。自分は自分の人生を進めていくことに集中すればよいのだから。

 ただ、そうならば、なぜ結婚するのだろうか。結婚自体はただの制度なのだと思うこともできるし、人類の社会法則だと捉えることもできるし、結婚をどのように捉えるかは人それぞれだが、少なくとも僕の生きてきた平成から令和にかけては、それがとても重要なことのように感じられることが個人的には多かった。結婚が、”あがり”のような感じだ。

 しかし昔の映画や本などによると、結婚が始まりだと感じることが多い。例えば、落語の一席のなかに、嫁さんをとらない男に対して、「一人で貧乏でも、嫁さんがいると経済が立つって昔から言うもんだ」という台詞があるが、今自分が生きている感覚としては、まず一人で経済が立たないことには結婚は考えられない。そして、嫁さん候補からもそのような期待を感じるのだ。思いやりの気持ちとセットで、経済が必要なのだ。個人的には二人の方が力を発揮できる感覚はとても分かる。なぜなら僕はだらしないから。だらしない部分を粛々と整理してくれる人がもしいたら、自分は今の倍くらいの給料を得ることができるような気がしている。洗濯しなきゃと思って、一日が終わる日が、一年のうちに約200日ほどあるのだから。



2 不倫


 今回の作品のテーマは作者も言うとおり「エンタメ不倫」だが、そもそも不倫は面白いものなのだろうか。なぜ面白い、読みたいと思うのだろうか。

 僕の崇拝する遠藤周作さんが、不倫を肯定的に描いたことはない、というより、不倫したいという感覚を「弱さ」として描くことは多い気がする。それが人間らしさというのだろうが。ただ、僕みたいな男は、「不倫したい」とも思うし不倫ができる「勇気もない」ほどに弱いから、「不倫をしたい」ということもあると言ってくれるのには癒やされる。

 不機嫌な果実は、美女と野獣の物語だから、僕とは縁遠い世界の話だが、不倫の関係を渡り歩く冒険物語のようで面白かった。そして、僕のような不倫をしたい、けど不倫ができない人にとっては、欲求が満たされて、エンタメとなるのだろうと思う。

 相手にいつまでもかっこよく、優しくあってほしいという期待が、外れて、不倫へと導かれる者と、忍耐の先の悟りへと導かれる者があるのだろう。遠藤周作はあくまでもその悟りの方を肯定した上で、不倫の気持ちを描いていた。そのように、悟りと対照的に描かれるからこそ、弓矢がぎゅんぎゅんに張った状態を不倫は作るのである。だから、その弓矢が放たれる快感をエンタメとして消化することができるのであろう。

 ただ、不倫がどうしてここまで「タブー」として考えられる様になったのだろうか。別にいいじゃない、というより、いいも悪いもない、当たり前のように複数の異性や同性と関係を持ってもいいのではないだろうか。なぜだめなのだろうか。僕の想像力では、よく分からない。

 もし、ガンガン不倫をする世界があったら、どうなのだろうか。妬み嫉みが、強烈に渦巻くことになるのだろうか。不倫を制裁するようになったのは、いつからなのだろうか。それを調べるモチベーションは僕にはないので誰かに教えてほしいが、不倫を制御したらしたで、妬み嫉みはその裏側で渦巻くことにはなっている。違う世界で、渦巻いているので、結局は、人間のエネルギーの総量は変わらない。

 性欲を感じて誰かの肉体を求め、そして不倫に至る。性欲を人間がコントロールできない限り、不倫はなくならない。しかし、性欲をなくすということではなく、コントロールすると言うことが難しい。性欲をなくすのは、何か赤ちゃんの頃にそういう薬を投与すれば、性欲を感じない人類が誕生するのだろうが、あくまでもコントロールすることにこだわっているのは、そこに何か秘密があるのだろう。不倫は、コントロールの失敗である。




3 破綻


 不倫によっていろいろなものが破綻する。夫婦関係、不倫相手との関係、職場との関係、世間的なイメージ、親族の信頼、そして、自らの人生。

 もし不倫をしたとしても破綻しない人間になるにはどうしたら良いだろうか。

 僕の好きな落語家の立川談志は、「(政治家時代に)二日酔いで沖縄に行ってクビになっても商売が保たれるのは俺くらいなもんだ。むしろそれが商売になっちまうんだから」というようなことを言っていた。これは、すごいことである。もし、政治家が本業だったら、全てが破綻したであろう。このように、何か、闇をも包み込める商売があれば、それは不倫によって破綻することはないのかもしれない。不倫をしても、それがネタとなってしまうような何かが。

 不倫のエピソードが、どこかで認められればよいのだ。その表現力さえあれば、不倫を克服することができる。またそのような人間は、不倫に限らずタフな人生を送ることができるのではないかと思う。常に安パイいく、用意周到な人生を選択しなくとも、その最強の流れに乗れれば大丈夫なのだ。

 ただ、その最強の何かが何なのかがよく分からない。その最強の何かにたどり着くまでに、多くのストレスを被る必要があるような気がする。世間から受け入れられないようなことをたくさん経験しなければならないような気がする。

 僕は落語が好きだけど縦社会が嫌いなので落語家はなりたくないし、小説家にはなりたいけど今のところなれていないし、バーの店長とか、アーティストとか、そこまでの才能もセンスもモチベーションもない。酒も弱い。

 こうなったら、破綻をとにかく繰り返していくしかないのだろうか。不倫も、1回ではなくて、100回くらいしてみれば、それはもう破綻とか、そういうものは無くなるのかもしれない。不倫がデフォルト状態になると言うか、別に落語家のような特定の職業に就かなくとも、日常会話が不倫の話題だが、本人の自覚がない状態というか、そういう、一見カオスで支離滅裂な状態で安定している感じになってしまえば、いいのではないか。

 そうしたら、不倫以上に何か、もっと強烈な、カオスを貫くような、何かをまた求めるのだろうか。瀬戸内寂聴は、それを求めて尼さんになったのだろうか。



4 創造


 様々な依存症に現れるように、良くない状態は連鎖してしまう。不倫もまた不倫を生み出し、ギャンブルもアルコールもたばこも糖質も、全て破綻を連鎖させ、破壊に導かれる。

 ただ破壊は創造の親である。創造に価値があるのかは置いておいて、創造は楽しいものである。海は陸を創造したのだろうか、それとも他の誰かが陸を作ったのだろうか。海は追いやられたのだろうか。全部私のものだったのに!陸に面積を譲った海は偉い。

 不機嫌の果実の物語が続いて、全てが不倫で覆い尽くされて、不倫の海ができたときに、どのような陸ができるのかを考えてみよう。

不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫不倫プリン風鈴九厘ちゃりんこりんマリンマンドリンダーリンソーランラーメンチャーハン麻婆豆腐絹ごし木綿素麺そうねそうね寝そう睡眠夢悪夢寝言うなされ閻魔様

 ということで、不倫と一番似ている言葉は、「風鈴」と「プリン」だった。「風鈴プリン」なんてかわいい言葉だろう。もし、喫茶店に「風鈴プリン」というメニューがあったら、頼んでみたくなるのではないか。少なくとも僕はなる。だから、「風鈴プリン」をみんなで作ってみよう。

 風鈴とは、風が吹くと涼しげな音がなる夏の風物詩である。形は様々だ。だから、風鈴プリンは風鈴の形をしたプリンではなく、もっと他の風鈴の要素をプリンに組み込まなければならない。

 風鈴の要素は、「夏に」「風が吹くと」「涼しい」「音が鳴る」と言ったところだろうか。文字を分解すれば、風が吹けば鈴が鳴るのが風鈴だ。

 プリンの要素は「ぷるぷる」「あまい」「台形っぽい」と言ったところだろうか。個人的な感覚だと「ぷるぷる」の要素が強めだ。なぜなら「ぷりん」だから。

 風が吹くと、鈴が鳴る、ぷるぷるした、プリン。どうすればできるだろうか。風を感じるには、感覚が必要だ。例えば歯磨き粉を使用した後に、口の中の息が強めに感じられる様な、ミントっぽい味付けをするのはどうだろうか。しかし、万人受けを狙うなら、ミントは控えたい。ちょっと、レモンっぽい感じ、レモン牛乳っぽいような味がいいだろうか。

 鈴が鳴るのは、やはり、音が重要だ。音が鳴る。食べて「シャキシャキ」と言った音が鳴ることはあるが、風鈴のような「カランカラン」「チーン」「チャリーン」と言った音を演出するのは、食材では難しいのではないか。ならば、スプーンに小さな鈴をつけて、食べるたびに、涼しげな音が鳴るというのはどうだろうか。これは名案だ。

 というわけで、不倫の海から「風鈴プリン」という喫茶店メニューが創造された。夏の定番メニューになりますように。



5 喫茶店


 「風鈴プリン」を夏に販売する様になってからというもの、これを求めてお客さんが来ることが多くなった。私は数々の不倫を重ね、血縁関係に関しては全て破綻してしまった。もう誰も私とは会ってくれない。しかし、地縁というのはまた血縁とは全然違うもので、この風鈴プリンを売り始めてからというものの、「不倫女の風鈴プリン」ということで話題を集め、この地に足を運ぶ人が増えた。観光系の雑誌や本に紹介されることも増え、どうせ今後の人生で私のことを相手してくれる人はいないだろうからと、捨て身の気持ちで「不倫を100回した女」ということを隠さずに公表することにしていた。すると、その話を求めて、または、不倫女の風鈴プリンというキャッチーな話題に引き寄せられて、私は世間の恥さらしと引き換えに、多様な人間関係を得ることができた。そこに血縁関係者は一人もいない。

 今は風鈴プリンがあるので、不倫をすることはなくなった。不倫をしすぎて、不倫の感覚が麻痺しているのか、不倫の海の中でもはやえら呼吸することを覚え、もう、不倫の概念が消えた世界にいるのだ。今、私は風鈴プリン作りに集中している。

 不倫の海で溺れている人が、この風鈴プリンを食べに来る。もちろんみんなお忍びだ。血縁関係者にばれたら、破綻なのだから。みんな破綻からの破壊と再生をした私の生き様を見て、悩みを癒やしに来る。本も何冊か出版した。それを読んで、来るお客も多い。

 風鈴プリンが素晴らしいのは、不倫が一切関係ないということだ。風鈴プリンは、レモン牛乳味のプリンを鈴の付いたスプーンで食べるメニューだ。そこに、不倫の要素が一切含まれていない。そして、最高においしい。私の不倫と、風鈴プリンは、全く関係が無い別次元の世界に存在するものなのだ。

 だから、風鈴プリンにはこだわりがいがある。もっと風を感じられる食材はないか、プリンに合う食材はないか、もっとよい鈴の音はないか、常に、このことしか考えていない。風鈴プリンの前世である不倫とは、何も関係が無いのだ。前世で人が何をしようと、今生きているこの私には関係が無いのだ。

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