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大空の下で漁をする人々





 快晴の入道雲が三つほど、大河で漁をする人々を見下ろしている。彼らは竹か何かの丈夫な植物で作られた笠のような、もしくは籠を反対にしたもののような道具を使い、ざっと千人の群をなして何かを川底からすくい上げている。その道具を引きずる人や、腰を入れて何かを持ち上げようとする人、どこに獲物がいるかをじっと観察する人など、様々である。ぱっと見たところ、その全ては男性である。彼らの肌は黒く、上半身は裸の人が半数であるが、ポロシャツやアロハシャツのような服を着た人も多い。川はココアのように茶色く濁っていて、川底どころか、水面に浮かぶ木くずのようなものも多く、手探りで、手の感覚や、踏んでいる足の感覚以外に川の内部を知る術はないようである。川の深さは大人の人間の膝から太ももあたりが隠れるほどで、川幅はその視界では全てとらえきれないほどの広さである。なにせ、人間が千人そこの川で作業をしているのだから。とは言え、奥の方には陸も見えている。川岸にはびっしりと緑が生い茂っており、もう少し先には森もある。森と言っても鬱そうとしているのではなく、平地に見られるような、木々の間に大分余裕の見られる森である。川岸にも多くの人が見られている。
 この集団の行っていることは、何か行事のようにも見える。人数がやけに多いため、日常的にこのような光景が見られるとは、日本人の僕からは
想像ができない。しかし、彼らとは文明の系譜が僕のような日本人とは異なるため、もしかしたら彼らにとっては日常なのかもしれない。また、彼らが何を取っているのか、何の作業をしているのかが、よく分からない。何か獲物を捕らえている様子が一つも見当たらないのだ。ただ、ゴミを拾ってきれいにしているだけなのかもしれない。いや、あまりにも大自然の中の川だから、そんなことをするようには思えないが。
 彼らは千人もいるだが、協力して一つの獲物をとらえようとする様子はない。あくまでも一人一人が作業をしている様に見える。察するに、まず杓子ほどの長さの棒を使い、獲物がどこに居るのかを探る。そして、魚なのか、何かがいるのを発見したら、その籠のような道具で上からがばっと覆い被せる。籠のような道具の上には人間の腕が入るほどの穴が空いているため、そこから獲物を獲る、というような作業なのだろうと思われる。
 入道雲は先ほどからあまり動いていない。ゆったりと彼らの頭上を通り過ぎながら、人間達が何をしているのかが気になっているようである。

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 日本で大勢が水辺で何かを取ると言えば、潮干狩りである。僕も潮干狩りの経験があるはずだが、ほぼ記憶から消えている。漁や、釣りは僕の不得意分野である。子どもの頃、地元の川で手製の釣り竿を使い、釣りをしたこともある。従兄弟と二人で、本当は釣りなどしてはいけないことになっているが、しかし田舎のため誰にも発見されないような穴場で、釣りをした記憶がある。従兄弟は非常に自然や生物に詳しかった。僕よりも三つほど年上である。従兄弟が釣り糸を垂らすと、ほんの数秒で魚が釣れるのだが、僕が釣り糸を垂らすと、何分待っても魚が食いつかない。また、従兄弟に釣り竿を渡すと、ほんの数秒で釣れるのである。そのとき、とても複雑な気持ちになったことを覚えている。「僕も釣りたい」「悔しい」「何で釣れるのか」「釣りが向いていないのか」「魚に嫌われているのか」「従兄弟すごい」「釣れるようになりたい」と言った言葉が、小さい僕の脳内を渦巻いた。しかし、いくら教わっても、僕が魚を連れるようになることはなかった。
 従兄弟は魚だけでなく、例えば雑草などにも詳しかった。一緒に散歩するのがとても楽しく、彼の将来の彼女も自然が好きならとても楽しいデートになりそうである。僕も自然が大好きであった。山や、川へ行くのが、とても楽しかった。従兄弟と一緒でなくとも、一人で山や川へはよく行った。しかし、どんどん自然に詳しくなる従兄弟とは対照的に、僕は一向に魚や草について詳しくなることはなかった。これは子どもにとっては難しい問題である。結局好きのは従兄弟であり、魚や植物ではない。当時の僕にはこのことが理解できなかったが、今でははっきりと分かる。結局、子どもの頃から、本当は自然に興味があったのではなく、人間の心や人間関係といった、精神的な要素への関心が高かったのだ。自然も好きなのだが、それ以上に自然に触れたときに心が変化する、その心の様子に関心があるのだ。
 さらに言えば、自然そのものよりも、自然と人間の関係、例えば、料理や農業、山での暮らしなどにも関心がある。常に、人間が絡んでいないと関心が持てないようだ。もっと早くから、このことに気がついておけばよかったのだが、子どもの頃にこのことに気づくにはどうすればよかったのだろうと考える。今、それが分かったから良かったと思うのは簡単だが、それに気づけなかった子どもの時代はあまりに不幸だったと思ってしまうのである。


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 ケイツはまだ一匹も捕まえられていない。ケイツは今日、始めて漁に参加した。見よう見まねで周囲の大人のやり方を真似ているのだが、一向に捕まえられるようにならない。心配した大人達が数名ケイツの側へ寄り、どういうところにいるのか、籠をかぶせるタイミング、獲物の動きの予測の仕方など、事細かに情報を流してくれるのだが、ケイツは分かったようで、分かっていないのかもしれない。
 ケイツは村の子どもたちのなかでは一番走るのが速く、何か作業をやらせればテキパキとこなすことができ、また仲間も多く、優秀な子どもだった。大人達はケイツに対して、この村の中で信頼を得ていずれは統率する立場になるもいいし、もっと世界を見るために他の国の大学などに行き、自分の才能を限りなく発揮して欲しいと大いに期待を寄せている。漁は確かにコツがいるのだが、そこまで難しいものではない。どんくさい男でも、数匹はとらえることができるものなのだが、どうしてケイツにできないのか、大人達は疑問を持っていた。しかし、一番分からなかったのはケイツである。
 ケイツは今まで自分が積み重ねてきた信頼が崩れ、周囲の期待を裏切るような気持ちになった。たかが漁だが、この村を支える重要な仕事である。冷や汗のようなものが背中をぬらしたが、水辺での作業の為にそのことには誰も気づいていないようだった。周囲の村人達は優秀でないことに慣れているのか「誰しも苦手なことはあるさ」とケイツをなだめた。ケイツはその言葉を受け入れることに少々抵抗感を抱いていた。ケイツの最初の漁は、結局一匹も捕まえることができず、終わってしまった。
 ケイツが家に戻ると、そのことについて両親に話しかけられた。父親は、同じ場所で漁をしていたので、ケイツが一匹も捕まえていないことは耳に入っているようだった。父親も他の村人と同じように「すぐに慣れるさ」「何回かやればできるようになるさ」と、声をかけた。
 ケイツはその日以降、勉強を理由にして漁に一度も参加しなかった。それを村人達は熱烈に応援した。ケイツは、まだ先のことながら、外国の大学へ行くことを心に決め、周囲にも宣言した。
 ケイツの心の隅には「漁が苦手」という黒いシミのようなものがあった。「漁はできないからやりたくない」ということについては見て見ぬふりをして「勉強がやりたい」と自分に言い聞かせた。

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