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走る池田






 桜が散るようになびく髪、薄いピンク色のジャージを着た女神、通称マドンナ先生が、クラスの子どもたちとドッジボールをして休み時間を過ごしていた。むっくんのクラスメイト池田はこの街を代表するような美男子。小学校一年生とは思えない色男。特技はラブレター、上級生同級生問わず「あしたいっしょにあそぼう」としたためる。池田の右と左には二人の子分。いつも池田の言いなりになっており、池田が女の子と一緒にいる時、二人は置いてけぼりを食らっている。池田の視線の先にはマドンナ先生、四年生男子の思い切り投げたボールがマドンナの背中に当たる。
「あーん、当たっちゃったぁ。」
「いぇーい!」男子が騒ぐ。
「先生よわーい!」周囲の女子がやじ立てる。
 コートの外へ掛ける姿は、しなやかだった。一歩一歩の全てを池田は見ている。
(はぁ、マドンナ先生かわいいなぁ)
 これが池田の想いだった。数々の女の子との遊びをこなしてきた池田の最終的な目標はマドンナ先生との結婚、マドンナ先生の推定年齢は二十代後半、六歳の池田とは二十歳ほどの差があるのだが、年の差の恋、この世界では常に人間の業である。池田はマドンナ先生と話しをしたことは無い。マドンナ先生は四年生の担任だ。一年生の池田やむっくんが彼女を目にできるのは、今のような休み時間や全校集会といった会のときだけである。
 マドンナ先生はその湿った唇をとがらせ、躍起になってボールを投げ合うかわいい担当児童たちをコートの外から見守っていた。その一角だけ平和に包まれている。面識の無い池田たちはその境界線の外にいる。
 三人はジャングルジムから校庭を見下ろしていた。子分が言う。
「池田くん、ドッジボールしたいの?そんなに四年生の方ばっかり見て。」
「そうだ。マドンナ先生と一緒にドッジボールがしたい。」池田は言う。
「四年生の仲間に入れてもらうのは、いくら池田くんでも難しいよ。」子分が言う。
 三人は途方に暮れていた。しかし池田は、別にドッジボールの仲間になれなくても、マドンナ先生と結婚さえできればよかった。小学一年生のかわいい願いであった。
「さあ!そろそろ休み時間終りよ!」校舎の手前から教頭の声がする。若干色の入った眼鏡をかけたふくよかなお腹から繰り出されるよく通る声だ。教頭は以前音楽の先生をしていたらしい。
 池田や子分と、四年生やマドンナ先生もその小さなお尻を振りながら校舎へ駆け出す。チャイムが鳴り、今日も池田はマドンナ先生の姿を見るばかりで、目標はまだ遠くに感じていた。





 池田は家に帰ってもマドンナ先生のことを悶々と考える時間が多くなった。池田の父は会社の社長で忙しく、母は家事を行うことは殆どない。そういう家庭だった。食事は母と二人で外食をすることが多かった。今日は駅前のホテルのレストランに来ていた。
「今日は学校どうだったの?」母が聞く。
「楽しかったよ。あのねお母さん、今日テストで百点取ったよ。それでね、体育で一番だったよ。走るの一番だったよ。僕幼稚園のときからサッカーやってたからみんなより足速いんだよ。お父さんに言っといてね。お父さん今日も帰り遅いの?」
「すごいじゃない。そうねえ、今日もお仕事でお食事も済ませてくるそうだから、遅いと思うわ。寂しいねぇ。ごめんね。」
「大丈夫だよ。お母さん、テストで百点取ったことと、足が速かったことお父さんに言ってね。」
「もちろんよ。美味しいね、このハンバーグ。お腹いっぱいになりそう?」
「うん。おいしいね。」
 池田はお父さんもお母さんも大好きだった。お父さんはお金持ちですごい人だということを薄々感じていた。何よりもそれが池田にとっての自慢だった。お母さんは世界で一番可愛かった。お母さんと結婚することができないことを知ってから、他の女の子を探すことが増えた。マドンナ先生はお母さんに似ていた。
「お母さん、僕ね、お母さんと結婚したいって幼稚園の頃言ってたけど、今はね、ちゃんと他に結婚したい人見つけたんだ。」
「あら、どなた?」いきなりませたことをいう息子に目を点にして質問した。
「それは秘密。もし教えてあげられる日がきたら教えてあげるね。」
「わかったわ。どんな人か楽しみだわ。」
 お母さんとの約束により、池田の執念はより強固になった。なんとしてでもマドンナ先生を振り返らせなければならないと池田は意気込んだ。



 むっくんが教室へ入ろうとすると池田とその子分が待ってましたとでも言わんばかりに目の前に立ち塞がった。むっくんは彼らを避けて教室に入ろうと、反対側の入り口に向かって歩き始めようとしたが、池田の手がむっくんの服を掴んだ。
「まて」
 池田はむっくんをにらめつけた。
「逃げてんじゃねえよ。調子に乗るな。おまえいつも黙ってどういうつもりだ。きもちわりいんだよ。」
 むっくんはそんなことを言われる筋合いはなかった。しかし、池田の言葉遣いに強くおびえた。
「や・・やめて・・・」
「はは!おい、もっと大きい声で言わねえと分からねえよ。」
 池田の後ろで子分がクスクス笑っている。
「おい、ちょっと来い。まだ先生が来るまで時間があるからな。」
 池田とその子分に連れられて、むっくんは普段使われていない物置のような部屋へ入った。朝だと言うのにほこりっぽい部屋に日差しが入り込まない気味の悪い部屋だった。子分に出入り口は塞がれ、池田はむっくんの目の前に立った。
「いいか。俺の言うことを聞かねえと承知しねえからな。分かったか。まず約束しろ。」
「それは・・・内容によるって・・・」
「はぁ?内容によるって、そんなこと言ったら何言ったって約束できねえじゃねえかよ。そもそもお前を閉じ込めてまで話してるんだから、お前がやりたくないようなことを言うに決まってんだろ。めんどくせえ野郎だな。約束しろ。その代わり、じゃあ、もし俺が言うことをやってくれたら、1000円やる。これでいいか。」
「・・・・・」
「なんとか言えよこのむっつり野郎。ったくめんどくせえな。もし俺が言うことをやってくれなかったら、お前殺す。」
 むっくんの足はガクガク震えた。前から池田の偉そうな態度は気に食わなかったが、実際に目の前でいろいろ言われるとすごく怖かった。
「なにをしてほしいの・・・」
「話せば分かるじゃねえか。」
 池田の依頼はマドンナ先生の身辺情報を入手してほしいということだった。結婚はしているのか。子どもはいるのか。




 マドンナ先生は休み時間になるといつも子どもたちと一緒に遊んでいる。今日は雨が降っているので、教室の中にいる。むっくんは普段行き慣れていない四年生の教室の近くの廊下を右往左往し、マドンナ先生が出てくるタイミングを計っていた。四年生の人たちがむっくんを見て「あの子どうしたのかしら」「誰かに用事でもあるのかしら」などとざわざわし始めた。ある一人の子が「先生、なんか小さい子が来てるよ」とマドンナ先生に伝えた。マドンナ先生は一緒に黒板に絵を描いていた子たちのところを離れ、廊下の方に出てきた。薄い色の運動着の上に女性らしいカーディガンを羽織っていたが、すらりとした手足が服の上からも分かるスタイルだった。髪は後ろできつく縛り、仕事の邪魔にならないようにしている様だったが縛るゴムはやけにふわふわとしていた。ややつんととがった唇に小さなあご、そしてぱっちりとして輝く瞳を教室の前にいる小さな男の子に向け、「どうしたの?」と言った。むっくんは、その向けられた視線に緊張してしまい、うまくしゃべることができなかった。
「せ・・・せんせ・・け・・・けっこ・・けっこん」
「はは!こいつ先生と結婚してえんじゃねえの。やけにませてるぜ」と四年生の一人の人が言った。
「静かにして!どうしたの?何かここに用事があったの?」マドンナ先生は優しくむっくんに声をかける。しかしむっくんはどうしても声を出すことができなかった。苦しくなって、何も言わずに自分の教室に戻ることにした。
「大丈夫?あなた、何年何組?」
 マドンナ先生の声を背に、むっくんは自分の教室まで走って逃げた。



「おい、どうだった。何か分かったか。」
 池田の尋問が始まった。何も聞けなかったと言えば、池田はさらに怒るだろう。池田に嫌われ、これからも同じ教室で過ごすことはとても嫌だった。なので、何か池田に対して有益な情報を提供しなければならなかった。
 むっくんはしばらく黙って考えた結果、あれだけの美人が結婚していないわけがないということに結論づいた。
「おい、なんとか言えよ。黙ってねえで。約束守れ。」
「け・・・けっこん・・・して・・・してるって」
 池田の目が見開いた。その後、顔色が赤みがかった色から青、そして白へ変化していくのが見て取れた。池田は下を向き、本当か、とつぶやいた。
「子どもはいるのか」
「それは・・」むっくんは返答に困った。
「まさか・・いるのか」
 むっくんは池田の自分勝手な尋問のせいで胃が痛くなり、お腹を押さえた。早くこの時間から解放されたかった。
「おい、まさか、お腹に?お腹にいるってことか?おい!」
 むっくんは、お腹が痛くなり、池田と話をしているどころではなくなってきた。しびれを切らし「ごめん、ちょっとトイレ」と言って、トイレに逃げ込んだ。



 池田は非常に焦っていた。むっくんはあれ以上何も言わなかった。マドンナ先生との結婚を考えている池田にとって、結婚、さらに妊娠の現実はとても残酷なものだった。自分の存在価値を失いかけるほどのものだった。池田は、本当に先生が妊娠をしているのかを自分でどうしても確かめなければならない、そういう気持ちになった。もし妊娠しているのであれば、池田にチャンスはもうないような気がする。最後の、本当にチャンスがないのかの確認として、本当に妊娠をしているのかどうかを確かめる必要があった
 直接質問してもはぐらかされてしまうだろう。ならば、触るしかない。お腹を直接触り、お腹の膨らみ具合を実際に確かめるしかない。
 池田はマドンナ先生の行動パターンを熟知していた。朝必ず七時半に女性の先生の更衣室から出てくる。彼女は真面目なために、朝の準備はかなりゆとりを持ち、同じ時刻に同じ行動をすることを大切にしているようだ。そのために急な予定の変更などにも焦らずに涼しい顔で対応している。池田のお嫁さんとしては、申し分の無い女性だった。
 池田は翌日の七時半にマドンナ先生が更衣室から出てきた瞬間を狙い、誰だと気づかれぬ隙にお腹を触り、走って逃げる作戦に出ることにした。



 翌日、すべての準備が整い、池田は更衣室のドア近くの廊下の陰で待機をしていた。この場所では時計がないため、自前の腕時計を持参し、確実に先生の出てくる時間を見逃さない様にしていた。
 さあ、ついに七時半になった。しかし、更衣室からマドンナ先生は出てこない。三十一分、三十二分、まだ出てこない。三十五分、四十分。まだ出てこない。
 おかしいぞ。今日は何か、準備に手間取っているのだろうか。マドンナ先生は、もしかして更衣室にいないのだろか。いるものだと思って、入るところは確認していない。思わぬ失態である。そのとき、更衣室のドアが、ぎぎっと音を立て始めた。
「今だ!」
 池田はそれまで頭を渦巻いていた余念を拭い去り、出てくる人間のお腹付近に、走りながら自分の手をあてがうことに全ての神経を集中させた。

 ダダダダダダッ

 池田は一年生の中で一番足が速かった。
「バチッ!」
 池田は手を触れることに成功した。緊張のあまり思わず目をつむってしまったが、その感触に驚いた。張りを感じたのだ。まさか!本当だったのか!
 ただ、今は全力で廊下を走ることに集中した。

 ダダダダダダッ

 池田は一年生の中で一番足が速かった。もしかしたら、二年生や、三年生を含めても、一番か二番目くらいには速いかもしれない。
 十分に走ったところで、池田は後ろを振り返った。誰もいない。良かった。いや。良くない。
「マドンナ先生は妊娠していたんだ!」
 池田の目から滝のように涙が出てきた。
「いやだよおお!いやだよおお!」
 池田は感情を抑えられなかった。池田の将来の夢はお母さんと結婚をすることだった。お父さんはすごい人だけど、いつも家にいなかった。でも、お父さんがすごいことは、池田は自慢だった。だから、いつも子分たちに自慢をしていた。お母さんはいつも池田のことを好きだと言ってくれた。好きな人同士が結婚をして、お父さんとお母さんになることを教えてくれた。お父さんにとってお母さんは大切で、お母さんにとってお父さんは大切だってことを教えてくれた。そして子どもは、もっと大切だと教えてくれた。子どもは大切だけど、でも結婚はできないことも教えてくれた。池田はショックだった。だけど、池田はお母さん以外にお互いに大切にしあえる人が見つかるはずだと教えてくれた。
 マドンナ先生はお母さんに似ていた。まだ話をしたことはないが、それでも優しいところと、顔と、髪型と、目と、鼻と、全部が似ていた。だから、いつの間にか大好きになっていた。
 だけどマドンナ先生は結婚していて、お腹の中にいる赤ちゃんのお母さんで、赤ちゃんにはお父さんもいて、マドンナ先生は赤ちゃんのお父さんが大切で、池田のことは大切じゃなかった。

「うわああああん!うわああああああん!!」

「あなた、どうしたの?あら、池田くんじゃない。どうしたのよ。とりあえず保健室に行こうかしら。保健の先生もう来てるかしら。とりあえず行ってみましょ。」
 ふくよかなお腹の教頭先生に連れられ、気づけば保健室にいた。なぜかマドンナ先生も一緒だった。
「池田君、大丈夫?」
 池田は緊張してしゃべることができなかった。



 この前の「せんせい、けっこん」と言って、教室から去って行った一年生が現れてからというもの、教室内で「先生結婚してるの?」「先生子どもいるの?」といった類いの質問が後を絶たなかった。実際には子どもはいないが結婚を約束している人はいる。それもこの学校の先生だから、言うわけにもいかなかった。だから、適当にあしらっておこうと思ったが、その態度が子どもたちの好奇心の火に余計油を注いでしまった様
だった。学校中に噂が立ちそうな気配を感じたので、これはまずいと思った。どうにか、事前に何か対処をしなければならないと思い、同性の教頭先生に相談をすることにした。すごくプライベートな内容だと伝えると、朝早くの更衣室で話しましょうと提案してくれた。恐る恐ることの次第を話すと、経験豊富な教頭の意見にはさすがの了見を感じた。頭が上がらない気持ちになった。
 気分が晴れ、今日の仕事にこれで打ち込めると思った矢先、教頭が更衣室のドアを開けたと同時に、教頭先生が「わあ!」と言ったので、何かと思い廊下に出ると、そこには誰もいなかった。教頭も突然のことで驚いたみたいで、何が起こったのか分からない様子で「何かしら、今何かお腹を誰かに触られて、誰かが走り去っていったような。」
「えええ、何ですか。誰もいないですよ。もしかして、幽霊とか。そういうの怖いです。」
「なにかしらね。痩せろってことかしら。はは!」
 その後、なぜか分からないが、有名な一年生の池田君が廊下で泣いていた。教頭先生は池田君をなだめ、何やら解決したようだった。さすが、長年の経験ほど子どもを安心させるものはない。
 それから私は、困ったことは教頭先生に相談するようにしている。

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