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広大無辺の夕暮れ#2

 僕は、どちらかというと、高低様々な山に囲まれた土地で育ったので、だだっ広い土地には違和感や寂しさを感じる。車などを運転しているときに山脈が見えると、それに連動して地元を思い出すのである。高低様々な山があれば、もちろん山あり谷ありで、山を登るには体力が必要で、谷に落ちれば世の中から隠れた気持ちになる。そんな風に自然と戯れてきた子ども時代を過ごすと、空が広くどこまでもつながって見えるような場所には、慣れないものである。むしろ、ビルに囲まれて、空があまり見えないような場所の方が、木々に囲まれて空全体があまり見えなかった地元に近いのかもしれないとも思う。
 つまりは、その風景、情景は、その人の記憶や記憶に紐付いた感情が引き出されるひとつのきっかけになり得るのだと思う。これは不思議なことである。
 だから、僕にとっては、山は過去の象徴なのである。そして、空は未知の象徴なのかもしれない。未知とは、不安はもちろんのこと、精神状況によってはわくわく感も感じる。しかし、そこに親近感が生まれることはない。
 よく、空を見上げれば、地元とつながっている、などと主に沖縄県民が言っている偏見的イメージがあるが、僕にはそれは全く理解できない。逆に、海辺で過ごした人たちが、僕の「山は過去」という言葉も全く分からないのだろうと思う。
 過去というのは、非常に複雑なものである。過去とは、いいことも、悪いことも、ごちゃまぜになっているのである。例えば、仲良くなりたかった子と仲良くなれた瞬間も、喧嘩した瞬間も、同時にフラッシュバックするのである。それが、過去の記憶なのである。
 それがうっそうとした山の中に、全てパッケージして入っているような感じがするのだ。しかし、山はそれを大らかに保存している。だから山には、善し悪しをこえた、少し神がかったものを個人的には感じるのである。
 僕はよく山の中を走っていた。都心の人間がせせこらとお出かけグッズを買って、休日にまとめて自然を感じるためにやってくるハイキングコースは、僕が毎日走っているランニングコースだったのである。僕はたまたまそこが走るのにちょうど良かったので走っていたのだが、確かに休日は、奇抜な蛍光色のレインコートのようなものを着た、ハイキングスタイルのおじさんおばさんが、いっちょ前にサングラスなんかをつけて歩いていた。僕はその横を、ジャージやたまに部屋着ともとれる格好で走り、彼らを横切っていた。それが、僕と山の記憶のひとつである。ちなみに、山にいることが多かったのに、山の植物や動物など、理科系の知識については、なぜか全く身についていない。興味がなかった。ただ、記憶と山が結びついているだけである。

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