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『ハンチバック』市川沙央

1 釈華の身体について

 不自由な身体を持った著者だからこそ、細かい描写がとてもリアルだった。読んでその感覚が分かることはない。僕の身体は至って健常なので(強いて言うなら皮膚が弱い)、身体的な障がいを持つ感覚は分からない。共感できない。でも、釈華が苦しくて、大変だということがものすごく伝わってきた。障がい者に限らず、理解し合うことは難しいと思う。それぞれが抱えているバックボーンは、聞いてもよく分からないものだ。
 言葉で表現するのが小説だが、言葉の外側に感じられるものが表現されているものが個人的には好みなので、市川さんの真っ直ぐな言葉選びに、ビビりな僕はたじろぎながら読み進めた。しかし、言いたいことを言っている感じが、とても気持ちがよく、是非もっとたくさん色々な本音を語ってほしいと思った。
 正しい引用か分からないが、江戸の人たちが喧嘩っ早いのは、毎日喧嘩をすることを通して、ストレスを発散していたのではないか、という説がある。なので、喧嘩でお互いに日々言いたいことを全部言う事が、彼らが生きるには必要なことだったのだ。
 同様に、現代人も言いたいことを(それが誰にも共感されないものだとしても)全部言い、それを聞いてあげる(または読む)ことが必要なのではないかと思う。それが言葉の一つの力であると思っている。読む側としては疲れるが、『ハンチバック』は市川さんのよいストレス発散になったのではないだろうか。感謝してほしいものである。
 つまり、この小説の主人公や田中のような社会的弱者が社会的弱者となってしまうのは、もちろん機能不全的な意味合いでの筋力がなかったり、精神障がいで言えば脳内のセロトニン生産量が少なかったり、遺伝的にうつ傾向だったりすることが、ある意味社会的活躍のハードルになっていることがあるのだろうが、それよりも、たとえば『ハンチバック』のような表現が、障がい者の一意見として丁寧に取り上げられてしまうこと、丁寧な親切心、それをあえて持ち上げる風潮が、社会的弱者の「弱み」を浮き彫りにしている面があるのではないか。
 市川さんは『ハンチバック』で言いたいことを書いた。読者はそれを買って読んだ。それで読者は疲れた。ハッキリ言ってこんな、自分の思いを猛々しく語る小説は読むのが疲れる。それで、市川さんは読者に感謝をする。読者はどういたしまして、と言う。これ以上に、やることがあるだろうか。もちろん物理的な障がいは取り除けるように市川さんは主張していいと思う。そこに思想は関係ない。

2 官能記事について

 官能記事を書く40代処女という設定が、なんとも生々しかった。どんな風に創作しているのか、気になった。経験がないのに、あんな風な記事を書くことができるのは、どこからどんな情報を得て、どのように脳内で構成して、最終的に記事になるのかが気になった。
 ネットの官能記事を読むと、男根をそそり立たせる表現で確かに溢れている。風俗体験記などは、僕は男性が書いているものとしか思えない。これを女性が書いている、しかも未経験の女性が書いているとは想像がしがたいところがある。そして稼げるからという理由でTL小説を書いている人がいるというのも、はじめて知った。どこでマネタイズをするのかというと、男性向け記事はマッチングアプリの広告、女性向け記事には復縁神社20選+電話占いの広告が稼げるというのも、興味深かった。釈華も「どんだけ復縁ニーズあるんだよ」と言っていたが、僕もそう思う。世の女性が復縁ニーズは、実際にはどれだけ満たされているのだろうか、またなぜ復縁のニーズが高いのだろうか。男性はマッチングアプリの広告、というのも生々しくてゾッとした。どうか、僕の仲の良い女性達が、エロ記事の広告でマッチングアプリを始めた男に捕まりませんように。
 また、自分で書いた官能記事と、田中との濡れ場的な場面のギャップが、切なく、悲しく、すごく生々しく、不快な気持ちになった。ただ、やりたいことをやる釈華の生き方は、ある意味で勇気づけられるところもある。世の中、綺麗事だけではないのだ。禁欲が徳だってことは分かっているけれども、性欲を満たしていないとやりきれないことばかり起こるのだ。人肌に触れたいし、性行為をしたい、頭を撫でてもらいたい、やさしいキスをされたい、胸にうずくまりたい、優しい言葉に包まれたい、そういった異性を求める性欲を満たしていないと、やっていけないのだ。もちろん、そんなことに頼らなくても生きていける人格者になれるものならなりたい。けれど、一度はその性欲の泥沼に溺れることだって、あって良いのではないだろうか。人生は、どうせもうすぐ終わるのだから。明日死ぬのも、80年後に死ぬのも、宇宙の長い歴史からしたら、青信号の点滅よりも短い。一瞬のきらめきは、そんなことで失われない。
 


3 モナリザについて

 モナリザのくだりが、いまいち分からなかった。なので、調べてみた。
 調べたところによると、1974年東京国立博物館にモナリザが来たときに、混むからという理由で、車椅子の障がい者とベビーカーの子供と親の来場を事実上禁止したことに対して、米津智子さんという方が、モナリザに、ガラスケース越しに赤いスプレーを噴射した事件だそうだ。
 米津さんは、相当非難されたとのこと事だった。
 米津さんはどうしてこのような行動に踏み切ったのだろうか。これは本人に聞かないと分からない。
 そのモナリザにスプレーを吹きかけることで、何か意味はあったのだろうか。それも、僕には分からない。
 『ハンチバック』によると、当時は優生思想の女性団体と障がい者団体の対立があり、産むも産まないも女性の自由だろうと米津さんは主張していたようだ。現代は、障がいの有無がかなり事前に分かるようになり、障がいはわかった時点で中絶をするという選択が可能になっているケースがあるということだ。
 しかし、釈華はそんなことよりもモナリザそのものへの嫌悪感があるらしく、時間を経るごとに美や価値が増幅していく、つまり残ることに価値があるという考え方の象徴なので、身体の成長とともに肺が潰れていく自分との対象的な存在だ言うことだ。
 その大変さは、大変お察しするが、モナリザなんてどうでも良いではないかと個人的に思う。たしかに、モナリザに価値を感じる人が世の中に横行すると、釈華や田中と言った障がい者や弱者は、行き所がなくなってしまう可能性が間接的に高まる。なので、モナリザのようなものは排除しといた方が、生きやすくはなるのかもしれない。
 ある哲学書でこのような文章を読んだことがる。(正確な引用ではないが)
「ある宗教信者のインドの老人は、自分の死を予感すると、ガンジス川のほとりで永遠の瞑想に入る。そこで死ぬまで瞑想を続ける。そこを通りがかった人は、その瞑想する老人に賽銭を投げる。老人の周囲には銭がたまっていく。やがて老人は死ぬ。その死んだ老人を見つけた人は、燃やして弔う。肺になった老人はガンジス川へ流してもらう。銭は供養した人が持っていく。誰にも迷惑をかけない、素晴らしい死に方である。」
 僕はこれを読んだときに人生の価値とは何だろうと考えた。人は死ぬときには何も残らない。モナリザを描いても、モナリザを見ても、モナリザを買っても、人は物理的に何も残すことができない。せめてもの弔い代として自分に降りかかる銭を燃やしてくれる人にあげることくらいしか、できることはないのだ。それを自覚して、何もかも、自分を取り巻くものを捨てて捨てて、生きられると楽になるのかもしれない。

4 田中について

 釈華の人生に、田中さえ登場しなければ、釈華が死ぬことはなかったのだろう。しかし、田中は唯一、釈華の性欲を満たしてくれる可能性のある人物だった。釈華にとって、大切かつ天敵のような人物だ。ともあれ、田中の存在は釈華の人生にとっては欠かせないのだろう。
 田中は、どうして釈華を殺してしまったのだろうか。田中は、釈華の金銭にまつわる行動が気に食わない様子だった。障がいを持っているのに、金は持っている。田中には障がいも金もなかった。
 僕は、田中が劣等感の塊で、誰かを責めることで自分を保っているように見える。釈華は格好の対象だったのだろう。
 田中(妹も含む田中家)にお金がない理由の説明はなかったが、とにかくお金がなくて、だから妹も風俗で働いているのだろう。
 お金を払って、田中に性行為を求める釈華は、田中の目にどう映ったのだろうか。性行為後、田中はどのような苦しみを覚え、それをどう釈華へ責任転嫁したのだろう。
 人間が何か劣等感を感じたときに、誰かを責めることでそれを解消することができる。その対象が他人になれば、いじめや差別といった問題に発展するし、対象が自分になれば、うつ病や自殺と言った行為に及ぶ。劣等感は百害あって一利なしなのだが、僕の中にも、劣等感がある。僕は、興味のあることは頑張れるのだが、無いことは頑張れない。いろんなことが頑張っれる人にはどうしても嫉妬してしまうところがある。自覚して、直そうとするのだが、なかなか難しい。僕は、狭い範囲でほそぼそ生きていくしか無いのを、受け入れることに苦労している。釈華や、市川さんほどではないのは確かだと思うが。
 仕事ができる人が羨ましい。稼いでいる人が羨ましい、かっこいい人が羨ましい、美人で優しい奥さんがいる人あ羨ましい、幸せな家庭に生まれた人が羨ましい。全て、劣等感の生み出す煩悩だ。障がいも大変だが、田中や僕のように煩悩まみれの人も、わりかし生きるのが大変だ。皆様はどうでしょうか。

5 せむしと涅槃について

 ハンチバックという言葉の意味が分からなかったが、本書の中では「せむし」と書いてあった。せむしの怪物、なんていう表現もあった。釈華は、せむしの怪物だそうだ。せむしも知らなかった。調べると、背骨が曲がった状態、またその人のことだそうだ。はじめて知った。
 それと対象的に、「涅槃」という言葉も何度が出てきた。
「涅槃のお釈迦様だってたまには歩くだろう。」
「女性と障がい女性がパラレルであるように、障がい女性と涅槃の釈華もまたパラレルである気がした。」
「本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまでたどり着けない。」
「泥の上に咲く涅槃の花だ。」
 (これで全部か分からないが)最初の二つは、自分は涅槃ではないと卑下する釈華の言葉で、三つ目は隣に住む障がい女性について釈華が言及したときの言葉、最後の四つ目は釈華を表現する田中の妹の言葉だ。
 涅槃とはお釈迦の入滅、つまり死ぬことを表す言葉だが、ここでは、涅槃像という意味でも使われている感じだ。寝てばかりの釈華が自虐的に使っていた。だが、本当の意味「悟りを開いた」というような意味でも、使われている。つまりこれは、自分はせむしであることを卑下するのは一種の執着であり、隣の女性はもうそんな障がいが大変とか、そんなのはとっくに乗り越えて、Netflixで韓国ドラマを見て人生を楽しんでいるということだ。
 ただ、田中の妹(紗花:源氏名)は釈華のことを涅槃の花(名前から連想したのだろうが)と言い、釈華の人生を肯定するかのような表現をしていた。
 その最後の場面では、深いテーマがあるので、僕なりに考えてみようと思う。
 紗花は、兄が釈華を殺したことについて、罪悪感を感じていた。夢に出てきてうなされていたこともある。紗花は、釈華の望みをどういうわけか知っていた。それは、妊娠と中絶である。それを、かわりにやってのけようというのだ。一般的に見ると、歪んでいる。
 しかし、それが紗花なりの供養だった。釈華が人間として、女性として、妊娠をするところまではできるのだから、それを経験したという欲求を満たしてあげたいということだ。出産は、骨の構造により子供がお腹の中で育てないのできず、中絶をしなければならない。その、釈華の望みを叶えることは、倫理的に罪なのか、それとも。
 最後の場面の直前で、聖書の一節(のような文章)が出てくる。(間違っていたら申し訳ないが)キリストの聖地イスラエルに、何かが攻め入るような場面。性、誕生に関するキリスト的倫理とぶつかる釈華の欲望の対立が見られて、個人的には面白いと思った。

 最後に、芥川賞の受賞について、選評にて山田詠美氏が「文学的なTPOに恵まれている...」と表現されていたのにとても共感した。つまり、彼女が生きられる時代と国であったこと、彼女が文学に触れることができる時代と国であったこと、彼女が文学に関心があったということ、彼女のそれ以上にこの作品の新鮮さを際立たせ、受賞へと押し上げた要因は無いのではないかと個人的には思う。

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