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ゴッドマザー

 神惰亭。神が惰らける処。旦那が営んだ居酒屋を、死後、妻の守谷香実子が引継いで二十年。数々のお客が足を運び、ここを居場所としてきた。女将はお客の話の聞き役として傑出していたが、中には女将の意見を聞きたくて訪れる者もある。そのときの独特な回答により、噂によると香実子は「ゴッドマザー」と呼ばれることもあるという。

 これは、神惰亭の学生アルバイト門和海が、女将とお客の話や、ゴッドマザーの考えをまとめて書き始めた日記である。

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 これは私がママのことをゴッドマザーと呼んで慕うお客さんとの会話を聞き、その中で私がこれはなるほどと思ったものをまとめています。私はママの居酒屋で働く一人のただの大学生です。なのでゴッドマザーの哲学を全て表現できているとは到底思えません。若輩者なもので、そこまでの理解力と表現力を備えていません。ですので、どうぞご容赦ください。





 先週から神惰亭で働き始めた。きっかけは張り紙を見て、だが、働いてみたら面白い。一番は女将さんの人柄である。はんなりとしているような、したたかなような、掴みどころの無い人なのである。魅力はなにかと聞かれると、いまいち言葉にできないのだが、とにかく魅力的なのである。それを証拠にお客が絶えない。常連が多い。スタッフは、私が入る前に一人いたらしいのだが、大学卒業とともに辞めてしまったそうだ。私はスタッフとして雇われたが、基本的には女将さん一人でも回る店なので、座って一緒に話しを聴いたりすることが多いのである。

 そこで私は、この立場を活かして女将である守谷香実子さんの「言葉にならない魅力」を記録してみようと思う。


 店にきた社会人五六年目くらいの若い男。仕事は楽しいようで、会社の先輩たちの背中を見て何やら向上心が刺激されたような雰囲気だ。先輩たちのように上を目指す男でありたいという意欲が伝わってくる。

「かしこくなりたい。チャンスを逃さないで色々な経験を積んでみたい。経験が自分を形成すると思う。成長した自分はどんな人物だろう。経験を積むことができれば、同じ経験をしたいと思う人が自分の元に来てくれることもあるだろう、そんな人物になることができれば、楽しい人生が送ることができると思う。だけどもちろん、お金や影響力がほしいのではない。ひたすらに成長できる人なら、もしまだ社会に認められる存在でないにしても、不安になる必要がないはずだ。それほどに向上心を持つことができれば、本当の意味でかしこくなれるのではないか。お金や影響力も後からついてくるのではないだろうか。」

 女将は若者を自分の息子を見るかのような目で見ていた。話しを聞きながら、手際よく他の客の頼んだ芋焼酎の水割りをつくり、若い男にこう言った。

「すごく立派ですわねぇ、私はかしこくありませんのでかしこい人の送る人生は分かりはしませんの。チャンスも何がチャンスだったのかなんて振り返ってもよく分かりません。今日を生きて、それだけで私は精一杯ですの。自分は誰かに助けてもらってばかりで、自分が培ったものなんてないですもの。身体が大人になった十二歳くらいから、成長なんて言葉は忘れてしまいましたわ。私にはこのお店しかありませんので、この場所が保たれるようにすることしか考えていませんの。お金や権力を持った人がここに集まることもあります。それは私にとっては嬉しいことですけど、人の魅力はそれだけでは無いことは感じています。それだけだとしたら、私に魅力がないことになってしまいますもの。あなたのお考えも素晴らしいと思いますけれども、今の意欲を語るお姿も好きよ。何も持っていなくても、真剣に語る表情さえあれば素敵に見えるのよ。もしあなたがたくさんの人に慕われることになったら、是非ここにたくさん連れてきてちょうだいね。もし上手くいかないことがあれば、あなたの好きな料理を作らせていただくわ。何か考え込むことがおありでしたら、ここに来てくだされば、いくらでもお話聞きたいと思っていますわ。応援しております。」

 若い男は女将に対して照れたような表情で「それはどうもありがとうございます。」と言った。周囲の先輩と見られる人たちに、調子に乗るなよ、というような目で見られていた。





 個人経営で事業を営む男だそうだ。どうして男と言うものは居酒屋で人生について語りたがるのだろうか。この男は少し悩んでいる様子だった。考えはこんなものだった。

「言葉だけ上手くても、表情だけ思わせぶりでも、そうした工夫だけでは、上手く行かないよ。」

 女将はどのようなお客の意見にも真剣な表情で聞く。これはすごいことである。女将はこの様に答えた。

「それはそうかも知れませんわね。ただ私は人間ができておりませんので、苦し紛れに言葉を尽くして、思わせぶりでも表情を作っていることは多いですわ。そういう、言葉や表情に頼らない雰囲気とやらが欲しいものですわ。」

 男の表情は和らぎ、何やら少し気持ちが晴れたように、その後の話は明るげだった。






 この日は、インターネットの会社に勤めているという三人組が来た。並んでカウンターに座り、真ん中に座った小綺麗な服を着た男がこの様に言った。

「私は、毎日次のことについて振り返っています。一つ目は、他人の為に全力で頑張ったか、二つ目は、友人との約束を破ったり嘘をつかなかったか、三つ目は、本で読んだだけのことや、まだ実戦経験が未熟な事柄について人に教えたりしてはいないか。以上の三つです。」

 論理的な事が好きそうなこの男の意見に、そばの二人はうんうんとうなずいていた。女将はこのように言った。

「すごく、謙虚でいらっしゃるのね。素晴らしいわ。私は自分が全力で頑張れたかどうかなんて考えたことありませんわ。いつものんびりしてますもの。私はあまり人付き合いが得意でないので、約束はしなくていいように、そして嘘もつかなくてもいいように、人付き合いは遠慮しておりますの。私は約束をよく忘れてしまいますし、見栄を張って嘘をついてしまいますもの。私はそもそも誰かに何かを教えるといったことも苦手ですの。今日も教えてもらうことばかりで、大変勉強になっておりますわ。」

 男は「とんでもないです」と言い、気分良く、その後も自分の仕事について話を展開した。





 今日店に来たのは、街中で歩いていそうなおとなしいおばあちゃんだった。この店が、まだママの旦那さんがやっていたときから知っているという。

「香実子さん、来たわよ。」

「あら、いらっしゃいませ。お久しぶりでございますね。」

「ごめんなさいね。ちょっと、足が痛くて。」

「あら、それは大変ですね。足どうなされたんですか。」

「歳のせいだと思うんだけど、転ぶことがちょっと増えちゃってね。」

 おばあちゃんは扉のすぐ近くにあるソファーへ腰を下ろした。ママは隣に座り、足を触る。」

「ちょっと痩せたんじゃない。ご飯は食べられてるの。」

「いいのいいの。もう死ぬんだし。」

「そんなこと言って、今おいくつになられました?」

「はちじゅー、、、忘れたわ、もう。」

「あら、見た感じ、四十五歳くらいかと思ってました。」

 おばあちゃんは、笑った。歯がなかった。

「今日は、どうなされましたの。」

 他にお客さんが七八人いたのだが、お構いなくおばあちゃんと話し続ける。その間、他のお客さんの相手をするのは私のはずなのだが、数人は勝手にキッチンに入りお酒をつくっているのでやることがない。

「健康のために、外を歩いてきたの。それで、ちょっと、休憩で。」

「あらそうでしたの。何かお飲みになる?最近ね、おいしいお茶をいただいたのよ。是非お飲みになって。」

「あら、そう、それじゃいただこうかしら。ありがとうね。すみませんね。」

 ここは居酒屋ではないのか、という突っ込みは誰もしない。突然店の一角でお茶会が始まった。時刻は夜七時くらいだっただろうか。おいしいお茶を飲みたいと、他のお客さんもソファーの席に集まった。

 おばあちゃんはお茶をゆっくりと一杯のみ、帰って行った。

「あのおばあちゃん、お金も何も払わずに帰りましたけど、いいんですか?」

「いいのいいいの。そういえばここ一年くらい来てなかったわね。あの人の旦那さん、十年前くらいに亡くなったんだけど、毎日のようにここに来ていたのよ。それで、よく酔っ払う方で、あの奥様がよく迎えに来ていたのよ。毎日のように来ていたものだから、旦那さんから、もう一生分お会計いただいたようなものですからと、お会計は私がお断りしているの。たまにお茶を飲みに来たり、ちょっとしたものを食べに来たりしているのよ。でも。元気がなさそうだったわねえ。心配だわ。さっき話を聞いたら、娘さんも息子さんもよく来てくれるって言ってたから、私が出しゃばるところじゃないんだろうけど。」

 ママの店はとても歴史があるということを、改めて知った日だった。





 経営者のような男で抜け目のない雰囲気があった。女性にモテて仕事ができそうだった。そしてよい父親のような安心感もある人であった。彼はこのようなことを言った。

「組織を良い方向に導くにはコツがある。率先して真面目に働き社員の信頼を得ること、自分こそが質素な暮らしをして節約を意識すること、そして、社員の私生活を尊重することです。」

 女将は感心したような表情で話しを聴いた。頼まれた麦焼酎をロックで手際よく出し、この様に答えた。

「かっこいいですわ。私は不精な性格ですので、何事も後回ししてしまいますの。いつも和海ちゃんが私より先に仕込みなんか済ませてくれることもありますの。彼女は出世しますわね。質素な暮らしもなにも、元々私にはそんなお金はありませんので、倹約がもはや癖になっております。もし、競馬や宝くじで大当たりを引いたら、私の人間性では崩壊してしまうと思いますわ。社員の私生活を尊重するなんて、お優しいのね。私は私生活が何処へあるやら、自分の私生活さえも大切にする方法がよく分かりませんわ。申し訳ないわね、ぼやけた女で。」

 男は「いや、別にそんなつもりで言ったんじゃないんだよ。まあ、人間できる部分だけではありませんから。私だって抜けているところありますから。」と笑いながら言い、その後は冗談話に花が咲いた。





 真面目な中年のサラリーマンと言ったような雰囲気の男。務める会社の社長を酷く尊敬しているようで、その人生のあり方に憧れを抱いているようだ。

「家族の中で、親を大切にして、目上の親戚に従順な人で、社会の中で上司や仕事先との関係づくりに失敗する人はいない。上司と良い関係を築ける人に、仲間との信頼を崩し、会社を悪い方向に向かわせる人はいない。昔から、できた人間はは何事にも基礎基本を大切にして、まず基礎基本を作り上げることに努力をしたものであるが、それは、基礎基本さえ完成すれば、成功は自然とやってくるものであるからです。我が社の社長がたどり着いた名誉も、おそらく家族を大切にするという基礎基本があってことのことだと思うのです。」

 女将には家族がいないと聴いていたので、これに対してどのように答えるのか、私は少しヒヤリとしていた。女将は真剣に男の話を聞き、自分のことを絡めてこのように答えた。

「大切にされた家族はとても幸せね。その社長さんはなんて素敵な方なのでしょう。あいにく、私には家族というものがございませんで、家族という言葉の意味が、おそらく世間の方々と比べて分かっておりませんの。だから家族だからこそ大切にするということもいまいちピント来ませんの。私にとってはこのお店が、唯一の兄弟みたいなものなのかしら。仕事を大切にすることが、私にとっての基礎基本なのかもしれないわ。私は会社に勤めさせていただいたことがありませんのでよく分かりませんが、もし家族を大切にすることが基礎基本なのであれば、私は会社に努めなくて良かったですわ。だけど、このお店も皆様に家族のように大切にしてもらえるように頑張りますわ。」

 男は「そりゃ、変なことを言わせてしまって申し訳ありませんね。もちろん、ママは家族みたいに大切ですよ。これからも来ますね。」と言った。女将のしたたかさを感じる会話であった。





 ギャルらしいのだが、私には一目見てギャルだとは分からなかった。ギャルは年々進化しているらしい。ナチュラルメイクのギャルだそうだ。そもそもギャルは調べたところによると「ガール」が転じてギャルと言うようになったらしいので、女の子はみんなギャルか。しかし、ギャルと名乗る人の口調は他でもないギャルだ。ギャル二名様のご来店だ。

「卑屈になるの死んでからでよくない?だってさ人生って短いって言うっしょ。」

「マジ分かる。人生っみじかいっしょ。」

「ていうか今日金ねえんだけど!1000円しかねえんだけど!やべえ!ママ、ちょっと下ろしてくる!」

「あら、気をつけて行ってらっしゃい。」

「ママって、マジそういうとき「別にいいよ」とかいわないよね。でもそういうところマジリスペクト。」

「私は気を使えない女だから、そういうところまで気が回らないのよ。」

「こんなに素敵なママなのに気を使えないなんてちょーウケるんだけど!せっかくだし写真撮ろう!」

(パシャ)

「てかさー、マジ彼氏の家に行ったらチーク置いてあんの。彼氏にマジないわって言ったら浮気否定すんの。じゃあこれ何だよ!ってチーク持ったら朱肉だったよね。」

「マジ朱肉とかふざけてる。最高。」

「てかママっていくつ?」

「五五歳よ。」

「五五歳か、マジ良識ある。弟子入りしたい。」

「いつでもいらっしゃい。パフェ食べる?」

「居酒屋でパフェとか最高すぎ。まじ何なの。」

ママは50センチほどの高さのあるパフェを手際よく作り、そしてギャルと一緒に食べた。





 以上が、お店の様子やゴッドマザーから聞いたものをまとめたものです。しかし、ママの魅力はこれではおそらく、一割も伝えられていないんじゃないかと思うんです。なぜならママの本当のすごさは話を聴く力、そしてママの周りにできるなんとも説明しがたい空気(存在感があるわけでもないわけでもないような)だと思っているからです。この日記を読んで饒舌なゴッドマザーをイメージしてしまいましたら、それは間違いです。実際に会うとあまり喋らないママのいる赤提灯へ是非一度いらっしゃってください

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