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『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀

1 ヤンの人生
 この小説は他でもなく「ヤン」の物語だった。そして、人生は小さな小川で遊ぶようなものではなく、大洪水中の川に流されるようなものであることを教えてくれた。
 基本的にはヤンの視点で物事が描かれているように思う。ヤンは、真面目で、一途で、周囲のことをよく考え、自分よりも他人を優先し、自分が正しいとは思わず、間違えっていたとくよくよすることもある、本当に人間らしい男であった。とても共感できるし、ヤンは偉い。自分に起こった様々な出来事を、他人のせいにせず、全て自分事として捉えている。このように表現すると、非常に真っ当な人間に思うが、実際にヤンの人生をなぞっていくと、幸せだったのだろうかと考えてしまうことが多々ある。
 ヤンの望みは、ずっとたった一つだけであった。それはヤネケと、普通で、ほどほどに、幸せに生きることであった。それは、欲張りだったのだろうか。ヤネケに戻ってきてほしいと要求するのは、傲慢だったのだろうか。こんなに真面目で人から必要とされる人間が、たった一つだけ願ったことが、叶わない。人生の難しさを痛感する。
 ヤンと対比するように、ヤケネの存在がいた。ヤケネは、個人的にはずっととても幸せに描かれていたと思う。ヤンとの違いは自分を持っていたこと、自分のやりたいことを確固として持っていたこと。やりたいことをやる上で阻害となるものには、決して手を出さなかったこと。他人には、大量の要求をするが、相手に対しての執着はなかったように見える。とにかく、誰に何を言われようと、「人でなし」と言われようと関係ない、自分のやりたいことが第一優先である。これは、ヤンとの大きな違いとして描かれていた。ただ、それがいいという風に描かれていたかというとそうでもない。この小説の世界に生きていた人の中で、たくさんの人がヤンを信頼し、たくさんの人がヤンに感謝をしていた。ヤネケは、ものすごく信頼されていたか、ものすごく最低だと思われていた。どちらが正解か比較することがよいことか分からないが、個人的にはヤネケの生き方が正しいと思う。ヤンは「他人は変えられない」という人生の一つの法則を納得し切れなかった。でもヤンにはやりたいことが無いから、社会に合わせて生きるしかなかったのだとも思う。ヤンは社会的評価を手にし、自立を得られなかった。ヤネケは自立を手にし、社会的評価はほとんどない。そう考えると、様々な人間の業を背負って生きたヤンは、ある意味で最後は達観の域に達し、小さくて、充分な(ヤネケ依存ではあるが)幸せを手にした。時代のうねりのお陰で、ヤネケが戻ってきたことで。


2 ヤネケの人柄
 ヤネケのキャラクターが強烈に立ち上がっている。序盤を読んでいた時は、ヤネケとテオの姉弟の人生を軸に描いていくのかなと思ったほどである。彼女の存在はこの物語の旗である。軸がヤンで、その先に取り付けられた旗である。先端で、物語が終わるまで揺らめいている。
 ヤネケは最初から最後までしたたかで、自分が女であり時代的に不利な立場にあることを深く理解していた。ただ、理解するということ、理解できているということが、どれだけの武器になるのかを、ヤネケのやり方を読んでいて感じさせられた。つまり、何がどれだけ不利なのか、逆に有利な立場にある人がどのような人なのか、徹底的に分析して、どんなに不利な立場でも、自分のやりたいことができる環境を、自分の城を頑丈に築き上げていく。それは、見事なものである。彼女のような人が、時代を動かしているのだと、思わされるし、実際にそうなのではないかと思う。。
 ヤネケは周囲から見ると「自分さえ良ければよい人間」という最低なレッテルを貼られることが多い。しかし、彼女のすごいところは「自分さえ良ければよい」とすら思っていないといいうことだ。あの強さがどこから生まれるのかが、とても不思議だった。
 ヤネケ自身は、母親にも、父親にも、可愛がられて育った感じで描かれていない。どれだけ天才とはいえ、そのような環境で育てば、もう少し擦れていてもよいのではないか。レオがヤネケに見捨てられた故に、狂人のようになってしまったかのように、もっと闇を抱えてもよいのではないかと思う。しかし、ヤネケは最初から最後まで、徹底的にカラッとした性格だった。母親の死には泣いていたので、感情のないロボットではないのだが。
 それは基本的にヤンの視点で、ヤンの眼鏡で映されているからかもしれない。本当はヤネケにもヤネケなりの闇があったのかもしれないと考えられるが、少なくともヤネケが思い悩むような場面は皆無だったと思う。
 逆に考えると、「平凡な、いい人」のヤンには、ヤネケの感性や人間性を見抜いて理解することは不可能だと言うことなのかもしれない。
 僕は、天才の脳内に非常に興味がある。天才を題材にした書籍は多くあるが、それは天才を客観的に見たものでしかないものが多いと思う。天才とは、矛盾した存在なのでは無いかと個人的に考えている。例えば、親が死んで悲しくて涙が止まらないけれど、死んだら魂はどうなるのかを考えたり、死体を解剖して身体を調べたいと思ったり、単一の感情ではなく、複雑な感情と思考が、一つの物事や場面に対して、頭の中で渦巻くような人を天才というのではないか、と考えている。ヤネケもそういう人だと思う。
 言語表現は不可能なのだろうか。


3 レオの苦悩
 最終的に、レオが気の毒だ。救いがない。レオは、実の母親にこてんぱんにされ、恥をかかされ、馬鹿だから、よく分からない共産主義思想にしがみつくしかなくて、そうやって必死に生きてきたのに、自分が正しいと思うことに、まっすぐ生きてきたつもりなのに、それは結局、個人的な親への恨みつらみをこじらせただけのものであって、論理も弱くて、誰にも共感されず、大切にされず、レオとしても攻撃してしまうから、攻撃され返されて、弱いから、すぐに負けるし、そう考えると、四十歳まで、よく頑張って生きてきたじゃないかと、言ってあげたくなるような、そういう男である。
 レオの最初の登場は「とおしゃん、おいしゃん」と言葉遣いから非常に可愛い雰囲気が伝わってきて、母親はいないけれど、誰からも可愛がられ、親だけでなく、みんなに育てられた、そういう存在だった。でも、彼にとっては母親が大事だったんだなあと思う。その気持ちには非常に共感できる。カタリーナ(後妻)にあんなに自分の子のように育ててもらったのに、恩知らずの奴め、とヤンには思われてしまっていたが、その気持も分かる。息子に母親を与えてやれなかったヤンも悪いし、ヤネケはなおさら悪い。ヤネケは、レオにとっては悪魔だろうなと思う。
 でも、世の中には、悪魔もいる。悪魔を避けたり、やっつけたりしながら生きていかなければならないのが人生なのだ。四十歳になっても解決できないレオは、相当苦労している。自分の境遇を受け入れ、自分は自分、親でさえ他人は他人と、割り切らなければならないのだ。だが、どこまでいっても、気持ちは分かる。
 ヤネケには、中途半端さがない。だから、割り切りやすい面もあるのではないかと思うが、ヤンの期待がレオに作用しているのだろうか。レオはどうしても割り切れない。また、共産主義という取っ掛かりを、自分の精神以外に見つけれしまったのも運が悪いのかもしれない。どんなに清くて素晴らしい思想も、個々の自分の精神を上回ることはないと考える。頼ることはあっても、言いなりになってはいけない。言いなりになった途端に精神がこじれてしまう。
 救いのないまま死んでいく人も多い世の中で、レオはこの沼からいつ這い出られるのだろう。


4 大河小説として
 最近個人的に、大河小説に憧れがある。特に『パチンコ』(ミン・ジン・リー著)を読んでからである。生まれてから死ぬまで、または更に何世代にも渡るビッグストーリーは、どこかワクワクを感じる。また、俯瞰して人生を見ることが、個人的に楽しい。人生というのは、大洪水の大河という運命に翻弄されることばかりで、自分が好きなようにコントロールするなんて無理なのではないかと思うことが多い。だから、できることといえば、流されるだけなのだ。流れを読みながら流されるも人生、流れに逆らおうとするも流されるも人生、結局は流されるだけである。大河小説を読むと、そういう運命という人生の不思議と出会うことができるような気がする。
 文章の表現も出しゃばり過ぎない印象で個人的な好みだった。基本的には物語世界の中の大河に、世界のうねりに身を任せて、世界が、時代が、自然と進んでいくことを信じて表現い凝りすぎていないようにに思った。
 この小説も紛うことなき大河小説だと思うので、とても楽しんで読めた。自分が求めていた小説だった。
 ただ一点、自分が言える立場ではないのだが、思うところがあった。それは、若い頃と老人になった頃の登場人物の言葉遣いの印象が一緒で、年齢を感じられる表現と思えなかった。若者なら若者なりの、中年なら中年なりの、老人なら老人なりの、言葉の雰囲気が感じられず、「あれ、今この人何歳だ?」と思ったり、「みんな変わらないな」という印象を持ってしまった。言葉遣いは、若い頃から老人になるまで変わるのだろうか。もちろん、同時代における多世代の言葉が違うのは実体験から納得できるが、他時代の同一人物の言葉遣いは、どのように変容していくのだろうか、というのが気になった。
 この疑問は今まで持ったことがないのだが(直近でも『パチンコ』では感じなかった)、また読み直したら変わるのだろうか、それとも同一人物の時代による言葉使いの変容を表現するための知識や技術があるのだろうか。これは今後のテーマとして一つ持っておこうと思う。



5 世代交代というテーマ

 大河小説に特に関連するテーマだと思うが、小説中に様々な世代交代が見られた。終盤でヤンが「死者の椅子に座っている」と感じていたが、とても妙な言い回しで思わず唸った。これまで書いてきた通り、ヤンはとても「いいヤツ、いい人」なのだ。彼は父親からは会社を、義父からは市長と言った大きな責任の伴う仕事を引き受ける。両方とも、やりたくてやるわけでなないのだと思う。特に、市長に関しては、ヤンが市長になることに反対したのは、ヤン一人で、その会議にいたその他全員がヤンを推薦した。仕方ない。しょうがない。ヤンは、そう自分に言い聞かせて生きてきたに違いない。それと対称的に、ヤネケは数々の責任を逃れてきている。最終的にはペギン会の副院長となっていたようだが、これもしたたかに「役職名だけ与えられるだけで特に責任は伴わない」という条件ももとで受け入れている。
 ヤンは、本当に偉かったのだろうか、と考える。
 自分の人生の責任が自分にあり、自分を幸せにしなければならないという義務が人間にあるのであれば、ヤンの選択は全て間違っていたのだと思う。嫌なら、断れよ。誰がなんと言おうと、断れよ。特にヤネケの立場からしたら、そう思っても無理はない。
 しかし、ヤネケがそのように言うことはなかった。都合が良かったから、とも言えるが、それがヤンの生き方だったから、とも言えるのではないか。
 どちらを、何を選択するにせよ、結局は人生の大河に流されるだけなのだ。向かう先は同じなのだと感じさせられる。ヤンは乗りかかった船を降りることはなかった。なので、やっぱり偉い。真面目で偉い人間の周囲は、その人を「偉いねぇ」「すごいねぇ」と囃し立てる。そうやって責任を押し付ける。真面目が馬鹿を見る世の中なのだ。それでもその道を突き進んだヤンは、ヤンだからこそ見えたものがあっただろう。別に、見たくて見たものでは無いだろうが、ヤンにとってそれは宝物になるようななにかだったと思いたい。誰にも理解されなくても、自分だけにしか見えなかったとしても、宝物となっていてほしい。
 世代交代というテーマは壮大でとても面白いと思う。世の常なる悩みだからだ。家、会社、団体、自治体、国、あらゆる組織の課題であると思う。誰に、どのように引き継ぐべきなのか、そこに一つの正解はない。
 唯一、全ての組織が向き合っているのは「全ての組織は衰退し、滅びゆく」という課題だ。古代ローマ帝国も、オスマン帝国も、秦も、優秀な帝国は全て現在存在しない。かつて地球を支配していた恐竜もいない。日本はまだ、ヤマトタケルの時代から存続している。仏教教団や、キリスト教教団も、なんだかんだと形を変えながら、(初期の状態とはまるで違うものもあるしれないが)存続している。
 SDGsなど、持続可能ということが徳とされる世の中になっているが、それが徳かどうかは誰にも分からない。超長い目で見れば、全て滅びる。星は、遠くから見れば一瞬のきらめきにすぎず、地球も多分に漏れず、刹那的な存在なのだから。
 そういったことを考える上で、大河小説の中で世代交代というテーマを探りながら読むことは、どこか有意義なような気がしているのである。

 非常に読み甲斐のある、おすすめしたい一冊であった。

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