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神の話#9 遠藤周作の神論



 あたしが神について考えるきっかけになった遠藤周作の神論についても、ここで整理させてくださいな。遠藤周作は自身がキリスト教徒という立場に様々な疑問を持ち、その問題を中心に様々な作品を書いていますね。最も代表的な作品が『沈黙』であります。
 『沈黙』の問題はですね、「これだけ神を信じているのに、なぜ神は黙っているのか。なぜ沈黙しているのか」と言うことです。その解答は、やや難しいが、「それでも神は見ている」でということなんですよ。善し悪しはね、神にとっては些細なことで、とにかく神は見ている、見てくださっているのであります。そしてそれはね、「神は存在する」という気持ちに起因していんですよ。神はいる、と思うから「神は見てくださる」のであります。つまりね、信じる気持ちが大事というわけです。もっと言うと、「神を信じたい」「神を信じたいと思うほど、今苦しい」「神様に助けてほしい」という、心の働きが神の存在を決定づけるということですなぁ。
 またエッセイではこのような興味深い表現をしていましたよ。あたし、好きなんですよ、遠藤周作。
「ながい間、私たちは人間をふくめた地球のもろもろの生命を科学の眼を通して見てきた。しかしこれは地球というものを見るための、細分化された視点であったり視力であり、それはそれとして大いに役だったのだが、全体を見ることを忘れていたのではないか。そして細分化された視力だけを絶対だといつの間にか信じることになって、それが現代まで続いてきたのではないか。そして物質の一部分はよくわかるが、宇宙の大生命についてはむししてしまったのではないか。」
「一人一人の心は違うが、心の底には共通した「場」があるという考えである。そしてこの「場」はすべての人間を包含するとともに、一人、一人の人間を包み支えていて、それぞれの人間を生かしている」
(『ひとりを愛し続ける本』より)
 彼が表現しているものが、表面的には「仏」だの「キリスト」だのと言われているけれど、本質は同じであると言うことですな。それが「場」ということでして。個人的には納得した文章でしたねぇ。
 しかし、あたしはそこからもう一歩踏み込んで「でも、なんだか神の力の弱さを感じる」と言いたいんですよ。もっと世界を楽しみたい、よりよい世界で、幸せな人生を送りたいというあたしたちの願望に反して、実際はそうでもないですよ。『沈黙』でも、「神は見てくださっている」ではなくて、「助けてくれよ!」と思ってしまうんですなぁ。あたしは強情なんですよ。あたしがそう思うという、「思う」ということも、遠藤周作的には神の仕業なのかもしれないですけれども、それでは鶏と卵的な議論になってしまいますから、やはり神をどう考えるかは人それぞれということにしておきましょう。
 神はバカですがね、良心的ですよ。隠れ切支丹を磔にして懲らしめたとしても、もうこんなことはあってはならないと考えてくださったのか、実際に現代ではそこまでのことにはなっていないですね。見てくださって、考えてくださって、あぁ、ありがとうぅ。

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