退屈から逃げるのか、退屈に立ち向かうのか、退屈と仲良くなるのか

退屈について考えている。

年末年始、久しぶりに家族や親戚に会った。
1月、Twitterに「1日2ツイート以上しようと思います」と呟いた。
1月、新しく絵のモデルを始めた。
1月、劇団の仲間たちと久しぶりに会った。
2月、34回目の誕生日を迎えた。

新しい年が始まって、新しいことを始めたり、久しぶりの人に会ったり、誕生日を迎えたり、いわゆる「日常」と少し違う日々に充実を感じていた。

このあたりまでは、退屈を感じていなかったと思う。昨年まで滅多にツイートしていなかった僕にとって「1日2ツイート」は大変かもと思っていたけれど、やってみたら意外と呟くことにも困らなかった。このあたりまでは。

でも、2月の中旬頃から、毎日同じことの繰り返し、「The日常」という日々になってきて、「あれ?なんか退屈…?」と感じる瞬間が増えてきた。
同じことの繰り返しで呟くことが無いぞ…という日が増えてきた。

今、『暇と退屈の倫理学』という本を読んでいる。

『哲学の先生と人生の話をしよう』という本について二つ前の記事で書いたのだけど、実はその前に同じ國分功一郎先生の『暇と退屈の倫理学』を読んでいた。

しかし、これを読んだのが1月の絶賛充実中の日々だったので、たぶん「退屈」をどこか他人事のように受け取っていたのである。いや、もちろんそんなつもりで読んではいなかったのだけど、無意識に「今の自分は必要としていない」と判断しちゃってた気がする。

ここにきて、「あれ?退屈…?」と感じてきたので、改めて読み返すことにした。

すると、まぁ刺さる刺さる。笑
これは自分ごとだ。つい最近読んだのに、この短期間でこうも刺さり方が変わるかね。

まだまだ考えている途中だけど、自分なりにどう退屈と向き合っていくかを書いておこうと思う。

同じことを毎日繰り返すことに退屈を感じるなら(退屈の種類はそれだけじゃないけど)、毎日新しいことを始めればいいのか?いや、そんなのは疲れちゃうだろうし、そうじゃなくても次第に「新しいことを始める」ってことに退屈してくるだろう。それに、毎日何かを始めるということは、毎日何かをやめていくことでもある。続けることの価値は大事にしたい。

そもそも定住してるから、毎日同じことを繰り返すことを、ある程度は受け入れなければいけない。

であれば、目の前の事、目の前の物をちゃんと受け取れるようにならなければいけない。目の前の事、目の前の物を楽しめるようになればいい。

毎日同じ時間の電車に乗って、毎日同じようなバイトをして、毎日同じようなものを食べて…をどうやって楽しむか。

やはり、知ること。まずは調べることか。
例えば毎日乗っている電車についてもっと知れば、今より受け取れるようになるかもしれない。例えば毎日やっているバイトについて(もう10年以上やっているので今更だけど)、その会社の歴史をもっと調べてみれば、今より受け取れるようになるかもしれない。例えば毎日食べているシャウエッセンのウインナーについて、どこでどんな風に作られているのか工場見学をすれば、今より受け取れるようになるかもしれない。

何でもかんでも調べてる時間は無いけれど、退屈と向き合う術の一つではあるはずだ。

國分先生は『哲学の先生と人生の話をしよう』の中で、「仕事が楽しくない」「本当にやりたかったのか分からなくなる」という相談者に対して

自分が本当にそれをやりたかったのかどうか分からなくなる、というのは、その対象についての情報と理解が欠如しているからです。

(出典:哲学の先生と人生の話をしよう 國分功一郎 朝日文庫)

と言っていた。これは、退屈との向き合い方にも通じる部分だと思う。

退屈を感じる対象について調べよう。

それから、やっぱり僕にとっては演劇か。演劇をやっている時は退屈から逃れられる。日常にいかに演劇を取り込むかってことは考えてもいいのかもしれない。

さて、ここまで書いた後にこの記事のタイトルをつけたのだけど、退屈と仲良くなるって何だろう。仲良くなんてなれるのかな。

2月中に更新したいので、ちょっと一旦ここまで。引き続き考えまーす。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?