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ライディング・ハイ

(ホビーホース考・序)

木馬革命

随分前の再放送分を録画してあったので「ホビーホース!ガールズ」を(ようやく)再見することができた。初回放送は途中から見始めたのだと記憶している(どちらかというと最終盤しか見ていなかったような気がする)。そのため、最初からしっかりと見るのは今回が初めてであった。
とりあえず、率直な感想としては、ホビーホースの世界はあまりにもディープで、おいそれとは語れそうにはなさそうだということが真っ先に頭の中に浮かんでくる。ただ単に少女たちがホビーホースに乗って、若者の遊び感覚的に、もしくはスポーツ感覚的に、大いに楽しんでいます、といったようなものでは毛頭ない(だが、そういう楽しみやスポーツの感覚は、ホビーホースのカルチャーにとってとても重要な要素ではある)。このドキュメンタリーを見ただけでは、ホビーホースのことをちっとも全体的に理解できたような気にはならないのだ。
このホビーホースのムーヴメントには、様々な面においてかなりの謎めいた部分がある。なぜ、いま木馬なのだろうか。これほどまでにテクノロジーが発達した社会において、思いきりイマジネーションの世界に振り切れてしまうところに、ホビーホースのもつ怪しさや不思議さが如実に象徴されているようにも感じる。そのうえで、周囲の人々から奇異の目で見られると十二分に分かっていても、なぜ木馬に乗るのだろうか。いや、なぜ木馬でなくてはいけないのだろうか。スケートボード(もしくはブレイヴボードか※)やBMXではなく、厳密には乗り物ですらない自分の足で走らなくてはならない木馬に乗るのか。だがしかし、それがただの棒と綿の入った馬の頭部からなるホビーホースであってそれ以上でもそれ以下でもない極めてシンプルな魅力をもっているからこそ、そのカルチャーは多くのフィンランドのガールズたちを惹きつけているようにも思われるのである。多くのガールズたちは、ホビーホースというものを、まるで自分のために用意されていたものであるかのように発見し、その木馬の世界に自分から足を踏み入れてゆくのである。
そのムーヴメントの世界が、どこか秘教的な趣きを有しているのは、その世界の成り立ちと深い関わりがあるのだろう。現在のホビーホースのムーヴメントは、たったひとりの乗り手から広まったものだといわれている。そうした起源が、もうすでに少なからず神話的な色合いに彩られているのである。古くからヨーロッパでは子供のおもちゃとして親しまれていた木馬(ホビーホース)に乗って日常的に遊んでいる少女たちは、いつの時代にも一定数はいただろう。そして、いつしか時代はインターネット時代に突入し、ソーシャル・メディアによる人と人とのコミュニケーションが大きく発展を遂げてゆく。すると、そのインターネットのコミュニケーション空間において、ユーチューブなどの動画サイトやSNSを通じて木馬遊びを楽しんでいる姿を紹介するものが必ず現われる。そこは人々がリアルな世界での日常を共有する場所でもあるから。アリサ・アアルニオマキ(Alisa Aarniomäki)は、そうした動画サイトやSNSを当たり前のように活用した少女のうちのひとりであった。そして、最も早い段階において非常に多くの動画の視聴者やSNSのフォロワーを獲得し、現代のホビーホース・ムーヴメントの第一人者となっていった。アリサは子供向けの木馬遊びをスタイリッシュなホース・ライディング・アクティヴィティへと一気に高める重要な役割も果たしていた。多くのフィンランドの少女たちは、アリサのホビーホース動画を見て、目を輝かせ心をときめかせて、「私もこれになりたい」「私もホビーホースに乗りたい」と強く引き付けられていった。大きなムーヴメントへと発展していった今でもアリサ・アアルニオマキはホビーホースの世界においてはある種の象徴的な存在であり続けている。最初は動画で人気者となったアリサを中心とするささやかな動きであったのだろうから、その当時の謎めいた擬似乗馬サークル的な側面は、いつまでもメンバーの間で(創世神話的に)保持されて残り続けているという部分もあるのだろう。そのこぢんまりとしてやや閉じた集団という面が、今もそこにあり続けているというところが、今の現実の社会とは少し距離を置きたいとかオルタナティヴなライフスタイルを希求してみたいという層の少女たちに、強くアピールしている部分も少なからずあるのであろう。
ただ、あの無邪気で天真爛漫なガールズたちにも、いつかは大人になってホビーホースに乗らなくなってしまう日がおとずれるのではないか。その時がいつか必ず来るのであろうことをチラッと考えるだけで、なんだかとても辛い気分になってきてしまう。ガールズたちがホビーホースにまたがり人馬一体となって馬術競技に臨み自由闊達に駆け回っている姿を見ていると、いつしかホビーホースが生きた本物の馬のように見えてこないだろうか。それゆえに、いつまでもいつまでもホビーホースとガールズは仲良くずっと一緒にいてほしいと願ってしまわずにはいられないのである。
放送枠に制約があるBS世界のドキュメンタリーにはよくあることだが、日本のテレビで放送されたヴァージョンは、全体を約半分程度の長さに再編集した短縮版であるようだ。完全版のドキュメンタリー・フィルム「ホビーホース・レヴォリューション」を見れば、フィンランド発祥のユース・カルチャーとしてのホビーホース・ムーヴメントの背景や周辺の事情などもよく理解できるのかもしれない。だが、今はまだその辺を深く掘り下げてゆく術は全くない。しかしながら、なぜにホビーホース・ガールズたちの多くはスケルタル・ファミリー〜ゴースト・ダンスやストロベリー・スウィッチブレイドあたりを聴いていそうな雰囲気の髪型や服装やメイクをしている子たちばかりなのだろうか。今はもう二十一世紀だというのに。ホビーホースとゴシック・ロックやポジパンには何か親和性のようなものがあるのだろうか。ただのフィンランドの若者の間での流行なのだろうか。気になって仕方がない。
最後にひとつ思い当たったのが、フィンランドのホビーホースのカルチャーとニューヨークのハーレムで生み出されたボール・カルチャーには、どこか似通ったところがあるような気がするということだ。ホビーホースを楽しむ行為が独自のスポーツの形式として昇華され馬術や障害などの競技会をもつようになったように、ハーレムのボール・カルチャーにおいては雑誌「ヴォーグ」に登場するモデルの身体と衣服の美を誇張させるポージングを模倣する遊びからヴォーギングと呼ばれるダンスのスタイル(「私もこれになりたい」)がゲイ・コミュニティの内部でひそやかに生み出され、そのダンスの流派ごとにいくつものティームが結成されそれぞれのステージ演出や衣装などの華やかさやダンスの技術の高さを競い合うコンテストが行なわれるようになっていった。ボール・カルチャーについては、ドキュメンタリー映画「パリ、夜は眠らない」(90年)を参照のこと。ホビーホースを手にとって新しいスタイルのライディングを行うことがフィンランドの少女たちが起こしたレヴォリューションであったように、ボール・カルチャーやヴォーギングもまたある種のアンダーグラウンド・コミュニティ発祥のレヴォリューションであった。いつの時代にも、世界のメイン・ストリームの近辺に自分の居場所を見出せないものたちは、鍛え抜かれた想像力とイノヴェーションと独創的な発想や思考を駆使して、全く新しい熱狂や生の歓喜の形を開拓していってしまうことがある。それは、多分にわかるかなあわかんねえだろうなあな世界ではあるのだけれど。ただし、そこにこそ、おいそれとは語れえない深みがあるのだということは間違いないところである。

追記
終盤、マリアムが馬術競技からは引退をし、それ以降は指導者へと転身することを決断する大きな転換点があり、カメラは静かにそのなりゆきを淡々と訥々と追い続ける。その大きな揺れ動きの中で、数ヶ月の間ずっと思い悩み葛藤を繰り返していた気持ちが遂に振り切れた瞬間がおとずれたのか、自室のベッドの上に腰掛けたマリアムが綿を抜き取ったホビーホースの頭部をきれいに折り畳んで箱にしまう場面がある。そして、その頭部を収めた箱を戸棚の一番上の奥に押し込むように収納する。おそらく、これがもう乗らなくなってしまったホビーホースの弔いの儀式となるものなのであろう。ご丁寧にも、収納した箱の外側にはマリアムによってサインペンで「安らかに眠れ」という一言が書き込まれている。もはやマリアムをはじめとするガールズたちにとってホビーホースの存在は、ただの木馬でありながらただの木馬ではなくなっているようにも思える。このやや厳かさすら漂う弔事のシーンは、まさに通過儀礼そのもののように見える面もある。このような時間を過ごしてガールズたちはホビーホースから多くのことを学び、少しずつ少しずつ大人になってゆくのだろう。
マリアムのような若い指導者が増え、それぞれに地元の街でホビーホースのティームを作ってさらに若い世代にホビーホースの素晴らしさや奥深さを伝えてゆき、各地の競技会などを熱く盛り上げてゆくことで、ぐんぐんとホビーホース人口の裾野は広くなってゆくのではなかろうか。誰も彼もがホビーホースに乗るようになることは、あまりホビーホースの文化にとってはプラスにはならないような気もするが、何か今のこの時代から要請されているかのようにある種のガールズたちによってホビーホースが強く求められムーヴメントが拡大していっている様子というのは、結構とんでもないハードコアな熱気を帯びているもののようにも見える。もはや木馬は遊ぶためのおもちゃなどではない。もっとやばい何かだ。革命のための嘶きや蹄の音が聞こえるか。なぜ、ここまでホビーホースが必要とされているのか。じっくりと考えてみる価値は大いにありそうである。


ホビーホースとブレイヴボードには、どこかかなり近いものがあるような気がする。いずれもここ最近の新しい流行やムーヴメントであって、その様式はもはや完全に前世紀的な重みからは解放されきっているような風情があり、清々しいまでの魅力に満ち溢れている。また、そのサークルの内部において、ある種独特のガールズ・ライディング・カルチャーのようなものが形成されつつあるという点においても共通項が見出せよう。そこには今や貴重なものとなりつつある自由・自律・自治の領域が、まだまだ未開拓地だらけであるがゆえに膨大に残されているようにも見える。いつまでも大人にはわからない何かであって大いに構わない。飼い馴らされた馬と駆けるのはもうつまらない。新しいガールズたちは、風とともに勇猛に駆け続けるガールズであるべきだ。新世紀のロードサイド・ノマドがライドする。高く。自由に。

ブレイブツイストスケートロール

先日、夕刻に中央小学校の校庭の前あたりから西の方角に向かって歩いていると、ちょっと気になるものが目がとまった。ひとりのスマートな体型のショートカットの女の子が、片手にブレイブボードを抱えて同じ方向へ歩いていたのである。少し先を歩いていた少女は、小学校の脇の道の信号が青になるのを待って渡ると、そのはるか前方を歩いている友人の姿を見つけて、大きな声でその子の名前を何度か呼び、相手が少女に気がつくと手を振ってすたすたと走っていってしまった。こちらはゆっくり歩いているだけなので、みるみるうちにブレイヴボードを抱えた少女の姿は小さくなっていってしまった。だが、しばらく歩いてゆくと、川越女子高の門の前のやや幅の広い並木道に小学校中学年ぐらいの女の子が数人集まっている光景に出くわした。次々とブレイブボードを抱えて集まってくる少女たちは、そこで思い思いにぐるぐる滑り回ったり、道端に座り込んでダベったりしている。緑の葉が生茂る桜の並木道であったが、そこにはちょっとした西海岸っぽさがあった。女子高前が、なんともクールな感じのストリート・プレイグラウンドとなっていたのである。もしかするとブレイブボードという遊具は全く新しいスタイルのガールズ・スケート・カルチャーを生み出してゆくことになるのではなかろうか。そのとき、そんなことを思った。郊外の街の何の変哲もない路傍におけることであるので、そこにはあまり都会的なキラキラ感はなくて、それがかえってどちらかというと土臭いようなアーシーさを醸し出していて、少女たちの日常にボードというものがごく自然に溶け込んでいる様子を顕現させてもいた。ラフでシンプルな女の子らしい服装に小さな布製の肩掛けカバン、そして腰の脇に少し重そうに抱えられたブレイブボード。あのボード女子たちは、これからどのような10代の日々を過ごしてゆくのだろうか。ずっとずっと風のように颯爽とクネクネ滑り続けるのだろうか。今後この新しいスケート・カルチャーはより広まり浸透してゆくのだろうか。ブレイヴボードを楽しむ少女たちが、どのように成長してゆくのか、やんわりと注目をしてゆきたいところである。(2018年/2020年改)

ライド・フリー

ホビーホースの世界をより深く理解するために、なんらかの参考になるのではないかと考えて、ドキュメンタリー作品「スケボーが私を変える アフガニスタン 少女たちの挑戦」をほんの軽い気持ちで見てみた。後になって、この作品が本年度のアカデミー賞の短編ドキュメンタリー映画部門の受賞作品であることを知る。確かにこれは非常によくできた作品である。全くといってよいほど隙がない。根深く複雑な背景をもつ問題にあるひとつの視点から切り込み、ことさらに説明らしい説明を加えることもなく映像による語りそのものだけで、そこにある何かをくっきりと浮かび上がらせてゆく。ある意味ではドキュメンタリー映画の古典的な語り口といえる手法を採用しているのだが、それがここではかなり高度なレヴェルで細かな部分にいたるまでことごとく成功している。淡々とそこにあるものをあるがままに記録し、ささやかな音楽と簡単な画面編集や装飾を交えながらテンポ良く丸一年の年月の流れを手際よくグッと凝縮して提示してくれる。必要以上にカメラを意識してしまう少女たちや学校の中ならではの飾りっ気のない真っ直ぐな少女たちの年相応の言葉などの、ぎこちなさや失敗や率直さをも含めたあらゆる部分が作品全体の質の形成に大きく寄与している。そして、そのすべての中心に据えられているのが、学校の教材としてのスケートボードなのである。最初はみんな初心者であった少女たちだが、スケボーとの関わりや結びつきが強く深く大きくなってゆくにつれて、もはやスケートボードなくしては、何も始まらないのではないのではないかと思えてきてしまうくらいに、その素朴な遊具は非常に大きな意味をもつものとしてそこに出現してくる。なぜ、そのような役割を担わせるものとしてスケートボードが選ばれているのかは、この作品を見れば、誰にでもわかる・理解できるであろう。スケボーだからこそ私たちは変われるのである。アフガニスタンの少女たちがスケートボードに挑戦する一年の間に見せてくれる変化や成長の姿を、カメラはまさにスケートボードとともに地表レヴェルを動き回るようにして切り取ってゆく。ライドする=乗る、ライディング=乗ることは、弱い立場に置かれ不条理にも虐げられてきたものたちに、自信をもたせ、自立させ、旧い世界そのものである地表に立つことからほんの少しだけ解放し、自由な存在となるための勇気をもたらしてくれる。そこではスケートのライディング・カルチャーそのものが、学校という場を得ることで初めて未来というものを見据え始めた少女たちの生にとっての輝かしい希望の源と直結している。スケートボードに乗る彼女たちの生き生きとした表情を見れば、それは誰の目にも明らかであろう。おそらく、多くの少女たちにとって、スケートボードはひとつのきっかけでしかない、はずである。可能性は、大きく、大きく無限に開かれているべきであるから。スケートボードが私を変える。だが、まずはその始まりの地点にたどり着くことが、まだまだアフガニスタンのカブールにおいてはとてもつもなく大変で困難な道のりを乗り越えた先にあるものであったりもするのである。
もっとも、70年代までのカブールの街は、今では見る影もないのが非常に悲しいのだが、かなり近代化が進んでいて、中東においても有数の美しい都市として知られていたという。アジアとアラブと欧米の新旧の文化が入り混じり混淆して独特のエキゾティシズムが香りたつコスモポリタンな都を出現させていたのではなかろうか。そこに確かにあったはずの自由と解放の空気と同じようなものを、今のスケートボードの少女たちの姿にかすかにだが感じ取ることができるような気もする。もしかすると、これは戦場の街で少女たちがひっそりとスケートボードをしていますなんていうレヴェルの話ではさらさらなくて、ひとつの国がかつてのような美しさと豊かさを取り戻すための第一歩を、スケートボードの技術の習得に奮闘する少女たちの一年間という形を通じて記録した、大変に意義深き映像作品であるのかもしれない。
世界や社会の片隅で抑圧を受け小さく力なきものにされてしまっている少女たちに勇気と希望を与え、生き方そのものまでをも変えてしまう不思議な力を、ライドする(乗る)ことでここではないどこかへと向かうライディング・カルチャーはもたらすことができるようである。そして、そこにおいて少女たちが乗るものは実はなんでも良いようにも思える。サーフボードでもローラースケートでもアイススケートでもスノーボードでもスキーでもBMXでも馬でもキックボードでもブレイヴボードでも。少しだけでも今まで生活していた世界の表面から中空に浮かび上がって、ふわりと別の世界・別次元へと隔絶されて、そのまま滑るようにライディングして、元いた場所とは違う場所に一瞬で移動してしまう。こうした移動や変容の経験こそが極めて重要なのではなかろうか。大人たちには、それは些細な遊びの範疇の中での出来事にしか見えないかもしれない。だが、そうした小さなライディングの経験が、達成感や満足感を生み、ちょっとした自信になり勇気になり希望になる。スケートボードに乗って風を切って前へとぐんぐん進む、その小さく些細な経験の積み重ねこそが、少女たちにとっては大きな希望をもってここではないどこかへと前進してゆくことへとつながってゆくのである。自由に思うがままに自分の力で自分の足で進んでゆくことこそが、あの少女たちにとっては大変に重要なことなのである。
そして、ホビーホースとの比較でいうと、スケートボードとホビーホースには様態こそ異なるもののかなり近しい部分があるようにも感じられる。まずは、その圧倒的なシンプルさにおいて。スケートボードもホビーホースも、必要とされる道具は基本的にはたったひとつである。そこに乗るためのものがあればよく、そしてそこでそれに乗ってしまえばプレイのためのほぼすべての条件は満たされることとなる。あとは、自由にライディングするだけだ。そうした徹底的なシンプルさゆえに、どこの誰であっても気軽に参加することができ、何者も拒まれることなくライドすることができる。スケートボードもホビーホースも大きく間口は開かれている。そして、乗るものを今か今かと待ち構えているようでもある。いずれもとてもシンプルで簡単な道具があればそれでよいので閾はとても低い。ホビーホースについていえば、必要な道具はすべて手作りでオーケーである。完全にDIYなライディング・カルチャーとして、それは生み出されちゃんと成り立ってしまっている。そして、それらは初めて乗った瞬間にすべてが変わってしまうような仕組みともなっている。どこにも最初から上手に乗れるものはいない。だからこそまた乗りたくなる。もっと巧みに乗り物を操りたくなってくる。そこではライディングのフィーリングがすべてだ。そのうちにホビーボースもスケートボードも乗るものの気持ちに応えてくれるようになってくる。道具と体が一体化する。世界は変わる。自由の風が乗るものの傍らを吹き抜けてゆく。ホビーボース/スケートボードと一緒ならどこまでも行ける。行き先は乗り手次第だ。少女たちの可能性は無限大である。

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