青いトタン_3

青い門のある家

かつて市の保健所があった場所は、同じ敷地内に隣接していた児童相談所だけを残して、今はすっかり何もない空き地になっている。普段はほとんどほったらかしで、時々草刈りなどの整備を管理者である市が行なっているようである。夏休み中には、その空き地で早朝のラジオ体操が行なわれいているようだ。自分が小学生だった頃にも、同じ場所で夏休みにラジオ体操をしていた。だが、そのころはまだちゃんと保健所の建物もあり、その前の児童相談所の建物との間にあった小さな運動場のような、普段は近所の老人たちがゲートボール場として使っている狭い土のグラウンドのところで、小学校の通学の班ごとに整列して眠い目を擦りながらラジオ体操を行なった。首から紐でぶら下げたラジオ体操のカードをヒラヒラさせながら。ラジオ体操が終わると、そのカードに書かれているカレンダーの升目に毎日判子を捺してもらうのが決まりだった。その判子の並びで、毎日休まずに早起きしてラジオ体操に来ていたかがわかるのである。たぶん、毎日休まずに行った子供には、最終日に鉛筆やノートなどの景品がもらえたような記憶がある。また、保健所のところの小さなグラウンドは、夏の町内の盆踊りの会場にもなっていた。子供たちには踊りの休憩タイムにアイスが配られるのが決まりだったので、ぼくらはそれを目当てにいつも盆踊りに行っていた。暑い夏の夜に、盆踊り会場の薄暗い片隅にしゃがみ込んで、プラスティック・カップのみぞれアイスを小さな木のへらでガリガリ削りながら黙々と食べたことを覚えている。盆踊りに行ってもアイスを食べる以外は特にすることがないので休憩の時間が来るまでは、会場の外側の保健所と児童相談所の敷地内で走り回ったり追いかけっこをしたりして遊んでいた。夜になって、保健所と児童相談所の敷地の内部にはそれほど多くの街灯もないので、太鼓をのせるやぐらを組んだメインの盆踊り会場の外側は、かなり薄暗かった。そんな薄暗い場所で大はしゃぎして駆け回っていたものだから、案の定派手に転んで膝や肩を擦りむく怪我をして流血の事態を招くというようなことも何度かあった。小学生の頃、盆踊りの会場で転んでできた両膝の瘡蓋がいつまでも熱をもって膿んでしまい、夏休みの間中ずっとヨードチンキを塗る毎日であったことがある。痛くてしみる辛い思い出ではあるが、いつまでも忘れることのできない子供の頃の夏休みの思い出のひとつにはなっている。
今はもうない保健所の前の道、県道12号川越栗橋線の横断歩道に信号ができたのはいつ頃だっただろうか。小学校の低学年の頃には、通学路になっていたあの横断歩道に押しボタン式の信号があったように記憶している。気持ちよく晴れた暑い日の気怠い気分の学校帰りに、右を見ても左を見ても全く車通りのない道路の信号を押しボタンで赤にして、ゆっくりゆっくりピンクレディの「ペッパー警部」の振り真似をしながらカニ歩きで脚と手をぱかぱかさせて横断歩道を渡ったことを今でも覚えている。なぜそんなことをしたのかは思い出せない。通りには全く車の通りそうな気配もなく、すごく静かで、強い日差しだけが降り注いでいて、近くにひとりの通行人も見当たらない状況であったので、何となくちょっとふざけてみたい気分になってしまったのだろう。そして、何よりもあの両手をパッと開き両足をリズミカルにがに股で広げる、あの振り付けが子供ながらに妙にお気に入りだったのである。それくらいにピンクレディの「ペッパー警部」は、小学校の低学年の児童にとっても衝撃的であったのだ。その信号を渡って少し行ったところに、青いトタン板で被われた建物があったことを覚えている。周りの新しい住宅街の家々と比べると、少し古ぼけていて、ちょっと薄暗いどこか影のあるような建物であった。通りから二メートルくらい奥まったところに青いトタンが一面に張り付けられた壁のような建物があり、その中央に常に開いたままの青いトタンの開閉式の扉があって、トラックが一台そこを通れるくらいの門になっていた。通りの端っこには、付近にもう水田がなくなったために水が流れていない半ば干上がっているような(雨が降った後などは少し水たまりができていたように思う。生活排水等は通りから入った路地の奥を流れる水路に流されていたのであろう(そうした水路の排水等を集めて大排水となって流れていたのが、かつて深町堰があった小川であった)。トイレは当時ほとんどの家庭が汲取式であった(定期的にやって来るバキュームカーの汲取ホースの先にいつも軟式の野球ボールがすぽっとくっついていたのを記憶している))用水路の窪みがあり、その向こうにちょっとした緑の雑草や苔の生えた常に土が少し湿っているような狭い空間があって青いトタンの壁があった(門の前の用水路には赤茶く錆びた鉄板が渡してあるだけであったような気がする)。小学生が通学路として歩く通りのこちら側と青いトタンの門のある向こう側は、なんだかものすごく遠く隔たった全く違う世界であるような印象があった。ほんの数メートルしか離れていないだけなのにも関わらず。
それは、古い長屋のような一ヶ所の区画に幾つもの住宅が集合している建物であった。建物は、細い通りに面した敷地の端から端までをガードする門構えのような造りになっていて、その中央のところの入口部分をくぐって中に入ると、敷地をグルッと取り囲むように、コの字型になった家屋がズラリと並んで建っていた。門の内側の中庭のような共有の空間に全棟が面する形で古いこじんまりとした家屋が軒を並べていたのである。中国の家屋にも古くからそういう形式のものがあったような気がする(四合院)。たぶんボルヘスの作品にもそのようなものが出てきた記憶がある。中東からアジアにかけての地域には、古くからそういう様式の建物や住居があったということなのであろう。あの長屋も、きっとそこそこ古い時期からあの場所にあったものであるに違いない。子供の頃にはよくその前を通っていたし、小中学校に通う時は毎日あの長屋の門の前を通って通学していた。とても古そうな長屋の建物ではあったのだが、個人的な感覚としてはいつも通り道の途中にあるよく見慣れた風景の一部でしかなかったのである。小さい頃に、あの内部には何度か入ったこtがあるような気もする。小学校時代の同級生の家があのあたりにあったのでよく近くまで行っていたし、同じ町内なので鬼ごっこやかくれんぼをするための遊び場にするようなこともあったのであろう(あの当時は誰かがビニールボールとプラスチック製のバットを常にもって歩いていて(自転車のサドルの後ろや車輪のスポークの内部などに装着されていたのである)野球ができそうなところがあれば、何人かの子供を集めて、すぐにそこが即席の草野球場になったものである)。今も少しだけ記憶に残っているあの建物の印象は、その当時に中に入ってみたときに、中庭状の広場から周りの家をグルッと眺めてみた際に見えたものがベースとなっている。その当時でさえも、何だかそこにいると大昔にタイムスリップしたような気分にさせられた。同じ大きさの木の枠の窓がグルッと周囲を取り囲むように家屋の前面に並んでいて、所々に磨りガラスをはめた玄関の引き戸が幾つも同じようにあって、それらの連なりによってそれが何軒かの同じ形の家々からなっている建物であることがわかった。少しくすんだり錆びたりしている青いトタンの色と黒ずんで濃い茶色になった木の枠の窓の印象が強く残っている。コの字型になった長屋と正面の入口の門の建物はつながっていたように思うのだが、ちょっと記憶は定かではない。形としては、門になっている入口の部分が通りに面した側の一辺を形成しているロの字型の長屋であったと言うことになるであろうか。ぼくが小学生であった時点で、それはもうかなり古い建物であった。古くなったトタンは見るからにガタガタで、強い風が吹けば端の方がめくれ上がってペコペコとけたたましく音を立てそうであった。中庭の部分の土の表面は乾いていて、砂利が敷いてあったのかどこか埃っぽく、そこで感じられた風はどこか違う時代から吹いてきているような匂いがした。明治時代になる前のもっと古い時代の空気までが、その不思議な感じのする空間には閉じ込められたままになっているような気がしたのである。
なぜ、あのような古い長屋が、あの場所にあったのであろうか。集合住宅としての形態も少し変わったものであった。このあたりの古い長屋というと、小さな平屋建ての家が何軒かずつ軒を連ねて建っていて、それが敷地の中に幾列かに別れて建ち並んでいるのが、普通の形態であるからだ。表側に中の建物とつながった門のようなものを構えている長屋などは、この付近では他に見たことがない。微かな記憶を辿ってゆくと、あの長屋はどこかの会社の社宅として使われていたような気もするが、よく思い出せない。当時の人々の会話の中では「(○○の)社宅」というような感じで登場してたような気もするのだが。厳密に見て確認したわけではないが、たぶんどの住宅にも当時はほとんど人が住んでいたのではなかろうか。とても古い長屋であったが、どの住宅も玄関あたりには履物が置いてあったり三輪車や自転車が停めてあったりして生活感がとても強くにじみ出してはいた。
今から考えてみると、あの青いトタンの長屋は、かつての保健所があった場所にそれ以前にあったらしい盲学校と何らかの関係があったのではないかと思えてきたりもするのである。明治41年に元町の養寿院の境内に創設された私立の慈善盲学校は、大正5年に埼玉県が管轄する県立の盲学校となった。おそらく、この明治の終わりから大正初期頃までに宮元町(かつて新河岸川・赤間川の北側の畔に広がる郷分であった、まだほとんど人の手が入っていない野原)に学校が移ってきていたのではなかろうか。そして、たぶん戦後の昭和27年位までは、あの場所にもうすでに学校はあったようだ。当時、県立盲学校は県内では最大規模の盲学校であり、多くの生徒たちが勉学に励み職業訓練などを受けていたという。おそらく県内各地の少し遠方から通わなくてはならない生徒のために、寮や寄宿舎のような施設も学校には備わっていたのではなかろうか。そして、そのような盲学校に付属する施設として、あの長屋風の建物が使用されていた可能性は少なからずあるように思える。当時の建物らしい感じを匂わせていた古さからいっても、時代的に近くに県立盲学校があった頃にすでにあの場所にあったとしても何らおかしくはないであろう。そして、盲学校が移転してしまった後も、あの場所で長屋や社宅として長らく再利用されていたということなのではなかろうか。目の不自由な人のための住宅ということもあり、しっかりと門を構えた全戸が中庭に面した様式の、ゴチャゴチャと建物が入り組んだ感じになっていない造りとなっていたのかもしれない。表の門をくぐれば、すぐに真っ直ぐに、それぞれの家の玄関に歩いてゆくことができるのだ。また、門から出て学校の敷地までは、ほんの五十メートルもないくらいである。今は押しボタン式の信号がある県道を渡らなくてはならないが、盲学校があった明治から大正・昭和初期にかけては、まだそれほど車両の行き来も激しくはなかったに違いない。そんな道路を渡ることは、目の不自由な人にとっても通学時に特に支障を来すようなことにはならなかったであろう。学校の目と鼻の先にある集合住宅であるのだから、何か学校関係の寮や寄宿舎であったとしても、全くおかしくはないと思うのだが(生徒の寄宿舎ではなくとも、学校の教職員用の寮ということも十二分に考えられる)。はたしてどうなのであろうか。だが、そう思っても、なかなか調べる手だてがない。いつか、それを詳らかに知ることのできる史料や資料にばったりと出くわすことを願うばかりである。
かつて保健所があった敷地のすぐ脇の道を歩いていると、フェンスのすぐ近くの雑草だらけの野原の端の土にちょっとした窪みができているところに、チラッと半ば土に埋もれた白い陶器のようなものが露顕しているのを見ることができる場所がある。あの白い陶製のものは、形状や質感や独特の彎曲具合からいって、おそらくかつては便器であったようにしか見えないものである。保健所の建物を取り壊したときに出た廃棄物は、そこで使用されていた便器などの破片なども含めて業者によって処分されたはずであるから、あそこに見えている白い陶製のものは保健所ができる以前の県立盲学校時代の遺物ではないかと思えてきたりもしてしまうのである。その昔(昭和20年代頃)に盲学校が移転して校舎などが取り壊された際に出た、陶製の便器の破片などの再利用や焼却処分ができないゴミは、仕方なく地中に埋められていたのではなかろうか。それが、平成の世になって保健所が取り壊された際に、地中の基礎部分を取り除いたりするために地面が掘り返されたり建造物の周りの樹木を取り除いて地均しを行なったことで、再び地表近くまで出てきてしまったのかもしれない。そこに白い陶製のものがあるというだけで、それがかつてどこでどのように使われていたのかまでを特定することは非常に難しいことではあるのだろうけれど、何かそこにみえているものをかつて学校があったことを証しするものだと考えずにいられない部分があったりすることだけは確かなのである。今から百年ほど前、あれはあの場所にあった県立盲学校の一部であったのではなかろうか。そう思わずにはいられない。

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