バースデイ

夕方、近所の集合住宅に住む母子に会った。数年前まで田んぼだったところにできた二階建ての集合住宅に新しく越してきた若い家族のお母さんと息子さんである。昼間に託児所に預けていたお子さんを引き取って、夕方の買い物を済ませて帰ってくるところに、今年の春先頃からよく出くわすようになった。こちらは、夕方の犬の散歩でただ近所をふらふらしているだけである。おんぶ紐でお母さんの体の前に抱っこされている赤ちゃんが犬に興味津々らしく、何度か立ち止まって頭や体を触らせてあげているうちに、なんとなく顔見知りになった。お子さんもばったり出会うとものすごい笑顔で喜んでくれる。最近はよちよち歩きから段々としっかり歩けるようになってきていて、お母さんと一緒の帰り道で犬を見つけると真っ直ぐにこちらへ向かってまだ覚束ない足取りで頑張って歩いてきてくれたりする。


今日もお母さんと一緒に歩いているところで犬を見つけたらしく、満面の笑顔でこちらにとことこと歩いてきてくれた。近くまで来て犬の毛に触りたさそうに手を出しているが、犬もあまりじっとしておらず子供の足元までいって少し匂いを嗅いだら、すぐにふらっとお母さんの方に近寄っていってしまったりする。「会えてよかったねえ、嬉しいねえ」と手をつないだ小さな息子にお母さんが声をかける。「さっきから今日はわんちゃんに会えないのかなって言ってたんだよね、いたね、よかったね」。小さい少年は犬の動きをじっと見つめ、少し手を伸ばして犬の頭(顔付近)に触ろうとしている。もうお母さんの声はほとんど聞こえていないようだ。散歩中の犬に夢中になっている小さな息子を見ながら、嬉しそうな笑顔でお母さんが言う。「今日、二歳のお誕生日なんです」。だから、この小さな男の子を犬に会わせてあげたくて、帰りの道すがらずっと探してくれていたのだろう。お母さんも小さな少年も、今日も犬に会えたことをとても喜んでくれたようだった。ただの年老いた一匹の小さな犬が、特別な日を迎えた二人を満面の笑顔にしている。今日、散歩の途中で会えたことが、誕生日の少年にとってよいプレゼントになってくれたのならよいが。まあ、こちらは犬を連れてふらふらと歩いていただけなので、それをプレゼントなどと称してしまうのは非常におこがましいことであるようにも思えるのだけれど。


のんびり歩く老犬がぐるっと近所を回って散歩してきて、かなり薄暗くなってきた頃に通り沿いの道を歩いていると、少し離れた所にあるお菓子屋さんの店先から、先ほどの若いお母さんがおんぶ紐でお子さんを抱っこしたままの姿で歩道に出てくるところが見えた。そのままその通り沿いの道を向こう側に向かって歩き出したので、こちらからは夕方の薄暗くなった道を歩く後ろ姿だけが見えていた。その右手の先には、先ほどまでは持っていなかった透明なビニール袋に入れられた小さな茶色っぽい箱が見えた。歩道の脇の通りを行き来している自動車のライトに照らされて、透明なビニール袋の一部がキラキラ光って見える。お菓子屋さんで買い物してきたということは、小さな箱の中身は小さな少年の二歳の誕生日をお祝いするバースデイ・ケーキなのであろう。レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」のように、前もって注文していたものをお店まで取りにきたのだろうか。小さい子供をもったことがないので、そのあたりの仕組みがどうなっているのかよくわからないが、箱の感じからいってきっとあれは誕生日のケーキだと思われる。右手にお祝いの品物が入ったビニール袋を提げて、小さい子供を抱っこしたまま歩くお母さんの足取りも何となく軽やかである。こちらからは小さな後ろ姿しか見えなかったが、親子でうきうきと家路を急いでいるようにも見えた。家に帰ったら、家族で小さな少年の二歳の誕生日祝いをするのであろう。今夜の夕飯は少年の好きなものがいっぱい並ぶごちそうで、デザートにお誕生日のケーキを食べるのだろうか。きっとお父さんとお母さんが真心を込めた最高のお祝いをしてくれることであろう。人生に二度とない二歳のお誕生日だから、特別な日にしてあげたいと誰もが考えるに違いない。


少年は、この二歳の誕生日のことをいつまでも記憶していてくれるであろうか。散歩中の大好きな犬に会い、両親に祝福され、おいしい誕生日のケーキを食べ、周囲の人々を笑顔にし幸福な気分にさせた一日のことを。そして、自分も自分の二歳の誕生日のことを何とか思い出そうと試みてみた。だが、もはや何の記憶の断片も頭の中には残ってはいない。その日、母親はうきうきした軽やかな足取りで誕生日祝いのケーキを買いにいってくれたのだろうか。自分は一生に一度しかない二歳の誕生日を両親に祝福されて迎えることができたのだろうか。二歳になったばかりの自分は、周囲の人を笑顔にしたり幸福な気分にさせることができていたであろうか。あの少年も大人になったときには今日のことはもう何も思い出すことはできなくなってしまっているのかも知れない。だがきっといつか、お母さんに手を引かれた二歳ぐらいのかわいい男の子を見かけたときに、自分にもあんな無条件にかわいい頃があったのだろうかと思う日がくるのだろう。人間は一番覚えておきたいと思うことを、呆気なく跡形もなく忘れ去ってしまう。誰もが二歳の誕生日のことをずっと覚えていられたならば、この世界は今よりももっともっと笑顔と幸福にあふれた場所になるであろう。ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー。

(2014年9月4日、犬と私に幸せをお裾分けしてくれた二人に)

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