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知らない世界

昨日、初めてnoteを記した。
私なぞの記事に♡を押してくださる方がいる。
とても嬉しいと同時に、気恥ずかしさもある。
読んでくださる方に恥じないものを書けるようにしていきたい。

写真は金木犀だが、私は北海道在住のため実物を見たことがない。
コロナ禍の前は本州に旅することもあったが、見たことはなかった。
30余年生きているが、知らない物事は多いのだと思い知る。


先日、意思決定支援の研修を受けた。
患者本人がどのような治療を望むか、あるいは望まないか、
メリット・デメリットの情報提供を密に行うことは必須であろう。
正確な情報を知り、その上で本人の希望に添えるよう調整をする。
回復の見込みが薄くても、患者が治療を希望する場合には
医療従事者はできる限りの手を尽くすことが多いのではなかろうか。

私は個人的に、穏やかな最期を迎えてほしいという気持ちがある。
無論、厳しい状態であれば治療を諦めればよいとは微塵も思っていない。
しかし、
毎日末梢静脈ルートを取るために何度も穿刺される全身浮腫の強い患者。
最期までカテコラミンでサポートをし、家族が到着するまでCPRを受ける患者。
本当にそのような終末を望んでいたのだろうか、とふと思う。
患者や家族が治療を諦められず、かえって苦痛を伴う状況になっている時がある。
医師からその旨を説明して緩和に切り替えたいところだが、
そもそも医師が緩和ケアへの移行を渋ることがある。
私はこれまで、渋る理由がわからなかった。
失礼な話だが「なんとしてでも助けてみせる」と驕りでもあるのではないかと感じることもあった。
カンファレンスなど話し合いをすることはあっても、どこか意識の違いを感じることはあった。

この意識の違いの出所に、意思決定支援の研修で気づくことになる。
医師は教育の段階で「ヒポクラテスの誓い」を立てる。
自身のできる限り、患者にとって善と思うことを成せ、というものだ。
対して、看護基礎教育ではしつこいくらいに「患者に寄り添え」と言われる。
治療をしたくないと患者が言った場合、まず傾聴し、その言葉の真意を読み取ろうとする。
治療継続をゴリ押しする看護師はあまり多くないのではないか。
このように、そもそも医療者としての意識を確立させる教育段階で教え方が違うのである。
その教育を受けて育った者達の意識に差があるのはむしろ当然であろう。
なんとしても良くしたいという気持ちを持つ医師ばかり、というわけではない。
彼・彼女らは「医師とはそうあるべき」と6年間教わった人たちなのだ。

研修でこのことを知り、目から鱗であった。
看護師として、後輩育成には力を入れたいところである。
毎年、新人・学生の傾向を知り、
彼・彼女らにどのような人生背景があり、
何を思って今この場にいるのか、
看護師である以前に、人として、
スタッフのことも個別性をもって理解したいと思っている。
しかし、医師に対してはできていなかった。
相互理解の基本を深めるもなにも、医師の個性だと思い込んでいた。
そのようなバイアスがかかった状況では、相互理解は難しい。

私はせいぜい、30年ほど生きてきただけだ。
ごく普通に小学校・中学校・高校・看護専門学校を経て看護師になった。
バイト程度ならともかく、ほかの仕事はしたことがない。
世界には、私には想像のつかない考えが溢れている。

最近、看護師と医師とのコンフリクトが多いと悩んでいた。
しかし、看護師と医師とでは、careとcureで役割が異なっている。
(もちろん、重なる部分もあるが)
互いの役割を認識し、どのような思いをもっているのかを知るところから相互理解は始まる。
医療提供の質を向上させるために、スタッフ間の相互理解は不可欠である。

多職種連携において、それぞれの役割や視点を尊重し合うことが重要である。
看護師としてスタッフの意見を汲みつつ、他の職種の方とも相互理解を深めたい。
そうすることで、医療サービスの向上と、風通しの良い職場をつくりたいものである。

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