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バイ菌①

0.はじめに

ゆる言語学ラジオから派生した企画、ゆる学徒ハウス。
「知的おもしろトーク」のスピーカーを募集する企画で、最終選考はテラスハウス形式のリアリティショーになるという。ずいぶんと攻めた企画である。
もともとゆる言語学ラジオが好きで、自分もあんなふうに話してみたいという願望はあった(それができるかどうかはともかくとして)。
そこで、つい出来心で応募してしまい、なんとありがたいことに一次選考を通過したのが先日の話。

このたびその動画が公開されたので、noteの場でいくつか補足をしていきたい。
題して「ゆる医学用語学ノート」である。

1.「バイ菌」は俗語?

さて、医学用語学と冠していながら、しょっぱなに選んだテーマが「バイ菌」。
とても医学用語には見えない言葉だ。
実際に国語辞典をひもといてみても、以下のように書いてある。

ばい-きん【黴菌】
かびや細菌などの有害な微生物の俗称。「——が入る」
②転じて、有害なもの。「社会の——」

広辞苑 第六版

他の辞典も概ね同様で、どれを見ても「有害な微生物の俗称」という旨が書いてある。(他の辞書の記述については、上記動画内に引用あり)
そう、「バイ菌」という言葉は俗語なのだ。
実際にこの言葉が使われる場面を想定してみても、例えば親が子供に「バイ菌がいるから手を洗おうね」と言ったり、汚れたものに対して「バイ菌がついてそうだな」と言ったり、生活の中で使われることが多く、あらたまった場面で使われるケースというのはほとんどないように思える。(医師が患者に病状を説明する際、イメージしやすい言葉としてあえて「バイ菌」と言うことはあるかもしれない)
何なら、バイ菌という言葉にはちょっと子供っぽいイメージすらついているような気さえする。
しかし、そんなバイ菌、子供も用いる俗語のくせに妙に漢字が難しい。
黴菌。
スマホの画面では文字がつぶれてどう書いてあるのかわからなくなるような字だ。
日本漢字能力検定協会発行の『漢検 漢字辞典』によれば、この「黴」という字は、なんと漢字検定1級の配当である。
そんな激ムズ漢字熟語が俗語として使われているというのは、なんとも不思議な状況だ。
今回は、この不思議さについて迫ってみたい。

2.「黴菌」は学術用語?

さて、いきなりだが以下のような書物がある。

北里柴三郎著『黴菌学研究』
新紙幣の肖像画にも選ばれた近代日本の偉大な科学者、北里柴三郎の著書である。
なんと「黴菌」に「学」をつけて「黴菌学」である。
そうなのだ。北里柴三郎が活躍した明治時代には、「黴菌」は学者の使う言葉だったのだ。もともと学者の使う言葉だったとすれば、漢字が妙に難しいのも納得である。
1892年に発行された『日本大辞書』にはこう書いてある。(太字は筆者)

【黴菌】
漢語。學術語トシテこんまばくてりあノ譯。細カイ黴ノヤウナ菌。

日本大辞書

そう。「黴菌」はもともとbacteriaの訳語として主に学者の間で用いられていた言葉なのだ。
しかし、明治から現代に時代が移りゆき、いつの間にか俗語に変遷してしまった。
この過程には2つの要素がある。「①学者が『黴菌』という語を使わなくなった」「②一般人が『バイ菌』という語を使うようになった」という、それぞれ別の現象が並行して起こったために、言葉の使われ方が変化したのだ。
以下では、どうしてこのような変化が起きていったのかを見ていきたい。

3.捨てられた「黴菌」

「黴菌」という言葉は徐々に学者から使われなくなってしまった。
ここで1919年に発行された『大日本国語辞典』を見てみよう。(太字は筆者)

【黴菌】
植物學上の用語。細菌類及び下等の菌類、即ち俗に黴と稱するものを總稱せる名なれども、學術上殆どこれを用ふるものなし。此の類は何れも單細胞又は小なる多細胞の植物にして、地球上到る處に瀰漫し、腐敗・発酵又は人畜・作物の病因を爲すもの等あり。人生との關係決して浅からず。

大日本国語辞典

大正時代にはすでに「學術上殆どこれを用ふるものなし」と書かれている。
なぜ「黴菌」という語は学者に用いられなくなってしまったのだろう?
ここで、黴菌の「黴」という字を見てみよう。
この字を訓読みすると「かび」になる。
カビと細菌。一見すると非常に近しいものに思える。
実際、幼児に大人気の国民的アニメでは、ばいきんまんとかびるんるんが徒党を組んでいるし、農学部を舞台にした漫画では、カビも細菌も同じようにデフォルメされたキャラクターとして描かれる。
しかし生物学的に見ると、この二者、つまりカビと細菌はまったくの別物である。
それはもう、これでもかというくらいに別物で、「カビと人間は実質同じだよね」というレベルで生物を広く一括りにしてみても、カビと細菌を同じカテゴリーに入れることはできないほどに別物である。(参考:ドメイン(分類学) - Wikipedia
明治・大正の時代は、ちょうど細菌や真菌といった微生物の分類が確立されていった時代である。
そのようなわけだから、bacteria(細菌)の訳語として「黴菌」という言葉を用いるのは学術的には不適切と考えられるようになっていったのだ。
ここで1939年に出された『戸田新細菌學』の目次を見てみよう。

目次
・ 第1篇 緒論/1
・ 第2篇 形態學/10
・ 第3篇 生物學と生化學/25
・ 第4篇 細菌學的檢査法の一般/73
・ 第5篇 感染と傳染病/132
・ 第6篇 免疫學/146
・ 第7篇 細菌學各論/224
・ 第8篇 濾過性病原體/502
・ 第9篇 菌學(黴菌學)/533
・ 第10篇 原蟲學/548

戸田新細菌學

この本では、タイトルが「細菌學」となっていることから分かるとおり、bacteriaの訳語としてもはや「黴菌」を用いていない。現代と同じ「細菌」という語を使っている。
しかし、ここで「第9篇」に注目してみると、「菌學(黴菌學)」と書いてある。
実はこの「菌學(黴菌學)」で取り扱われているのが、カビである。
bacteria(細菌)と黴菌を厳密に使い分けようという考えが、こうして章のタイトルに反映されているのだ。
また、bacteriaの訳語として不適切と考えられた「黴菌」だが、カビ類(真菌類)の呼称として細々と受け入れられていた様子もここから読み取れる。
しかし、この項は1950年の改訂で「菌學」となり「(黴菌學)」の表記が消え、1957年の改訂では「真菌学」に改められている。残念ながらカビ類を表す語としても「黴菌」は使われなくなっていったようだ。

4.拾われた「バイ菌」

では、そうして忘れられるはずだった「黴菌」という言葉が、なぜ一般の人々の間で定着していったのか。
上記の動画では尺が足りず、この話ができなかった。(フェルマーメソッド
なので、noteの場でその補足をしていこうと思う。(→次記事


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