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「海がきこえる」強くてニューゲーム

私の好きな小説のひとつに「海がきこえる」という作品がある。1990年代の作品で、今となっては知名度が低くなってしまったが、同名のジブリアニメの原作となった作品だ。

既に大学生になった主人公が回想する高校生時代

本作品の特徴のひとつは、高校卒業とともに上京した主人公(杜崎 拓)が、高校時代を回想するという形式で物語が進行することだ。少しだけネタばらしになってしまうが「里伽子との間には本当に何もなかった」という、結果が与えられたところから話がスタートする。

この回想形式のストーリーが、ある種のほろ苦さというか切なさを読者に感じさせる。

ヒロイン(武藤 里伽子)に振り回された東京旅行も過去の思い出。友人(松野 豊)との友情や軋轢も、取り戻せない過去の出来事。これらは所詮主人公の思い出以上のものではない、そんな残酷さまで感じさせる(物語の後半で松野との友情が回復し、続編では里伽子との仲も進展していくのではあるのだが)

だが、それがいい。

ボーイからマンへ

また、本作の序盤のチョイ役(以降再登場しない)に、映画好きでオタク気質のエリという人物が登場する。彼女は西部劇が好きで、半人前のオトコ(ボーイ)が一人前(マン)になるストーリーに惹かれる、と作中で語っている。

「海がきこえる」という作品は、主人公がボーイからマンになっていくストーリー、と表現してもよいだろう。

ただ、個人的には「海がきこえる」本編は、ボーイ(主人公)が「マンの虚像である松野」を追いかけることに終始しているようにも思える。主人公が里伽子と衝突しながらも向き合い成長し、マンになるストーリーは続編である「海がきこえる2 アイがあるから」で果たされる、私はそう思う。

その理由として「海がきこえる」本編では、『その大部分が回想シーンであること』、『里伽子の人間的な成長が希薄であること』、『松野との友情に重きが置かれていること』が挙げられる。

対照的に続編は、『主人公を含めた"今"のストーリーであり』、『衝突を繰り返しながらも里伽子が成長し』、『松野は序盤のチョイ役』となっている。言い方を変えると、主人公は自分なりのマンを目指し成長したともいえる。

強くてニューゲーム

私は10代の頃に一度、本作品を(続編を含め)読んだことがある。当時は、良くも悪くも若く直情的な主人公と里伽子の話に目が行ってしまっていたが、今読み返すと、ドロドロとした家庭の問題もあるなぁ…(;^_^A、という感想を持ってしまう。

そのあたりは続編で、裏の主人公(?)である津村 知沙を中心に語られている。…が、それについては続編を読み直した後で、別途記事を設けようかなと思う。

ドラマツルギー

文庫版の巻末で、宮台 真司氏が「『海がきこえる』的なドラマツルギー」に関する解説をしている。大雑把に言ってしまえば、正しい答えが分からない、圧倒的な不完全情報下においてこそロマンチシズムが生まれる、という解釈だ。

一般的には、高校生くらいの年代(に限った話でもないかもしれないが)では、男性は女性よりも圧倒的に恋愛に関して鈍感であり、また、地方と東京の情報量の格差も大きい。そのため、

(1)地方を舞台にしていること。(2)回想語りをもとにしていること。(3)男の子の視線を使っていること。(解説 「海がきこえる」のロマンチシズム より)

ということが「海がきこえる」にロマンチシズムを与えていると評している。同時に、下記のようにも評している。

(1)東京を舞台に (2)今を生きる (3)女の子の視線を使うならば、『海がきこえる』的なドラマツルギーは、まったく成り立たなくなることが分かるでしょう。(解説 「海がきこえる」のロマンチシズム より)

仮に「『海がきこえる』的なドラマツルギー」がロマンチックを意味しているのであれば、その通りかなとも思う。

しかしながら(これが「海がきこえる」という作品の凄さとも思うが)続編では、「東京を舞台に」「今を生きる」「津村 知沙という女性」が大きな役割を果たしている。それ故になのか、続編では全般的にロマンチックさは鳴りを潜め、悩み苦しみ、懸命に生きる、というある種のリアリズムが現出する。それを含めて「海がきこえる」の良さかなと、個人的には考えている。

要するに

非常に良い作品だから、読んでくれる人が増えると良いなと。

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