見出し画像

香りの手紙

その香りは初めて会った時に彼がプレゼントしてくれたものだった。

コロナ渦でみんながマスクをつけるようになり始めた頃
「エタノールでできてるからマスクの消毒に使ってね。お守りだよ。」
と、くれたアロマ消毒液は初夏にぴったりな爽やかな香りだった。

もらった時は「わぁいい香り!」くらいにしか思わなかったが、実はそれは彼が自分で作ったものだと明かされて、後日、使ったハーブを教えてくれた。
何気なくそのハーブの効能を見てみると、使われたハーブは全て弱った心に元気を与える効果のあるものだった。

当時、心身ともに弱っていた私のために彼が特別にブレンドしてくれたものだと知って、私は秘密のラブレターを貰ったような気持ちになった。

それから私はそのハーブを枕元に置いて、寝る前と起きた時、それから辛い時、寂しい時、不安な時、蓋を少しだけ開けて嗅いでは元に戻した。もちろん外出時もマスクにシュッと吹きかけて。
その香りを身につけている間はとても気持ちが安らいだ。
アロマのおかげか、彼自身のおかげか、私は「笑顔が明るくなったね」と友達に言われるほど元気を取り戻していった。

そして、アロマが無くなるたびに彼は新しいものを作ってきてくれた。


私が日本を離れる2日前、できたてのアロマを私に手渡しながら彼が言った。
「レシピ教えようか?向こうでも作れるように」
私は
「ううん、いい。また作ってもらうから」
と言って断った。

そして私たちは遠く一万一千キロの距離に離れ離れになった。


9ヶ月ぶりに戻った我が家はまるで牢獄のようだった。
彼も、友達も、親も、仕事も全部置いて来た孤独と奮闘する毎日が始まった。

日々が忙しく充実している彼には、そんな私の寂しさは到底理解できなかったようで、寂しさを拗らせていく私に対して、忙しい彼からの連絡は次第にまばらになっていった。

疎遠になっていく関係に私のストレスは益々溜まっていき、遂にそれは爆発した。
私は彼を責め立て、それでも無言を貫く彼に自分から終わりを告げた。
そして、彼は何も言わないまま、私たちは終わった。


自分で決めたことなのに、黙って去ってしまった彼の事を思っては悲しくて、残念で、虚しい気持ちでいっぱいになった。
私達はそれなりに好き合っていたはずなのに、彼は最後の挨拶もくれないような人だったのかと、それとも私はそんなに彼を深く傷つけてしまったのかと。


それから一ヶ月後、ツイートも何もかもが消された彼のTwitterのbioに突然何かの暗号のようなものが書き込まれた。私はそれがあの元気をくれるアロマのレシピだということにすぐに気がついた。

もうとっくに彼と繋がっていたアカウントは消していたのに、まるで私がちょくちょく彼のアカウントを覗きに行っているのを分かっているかのように、彼はレシピを書き込んだ。私だけが分かる秘密の暗号のように。

元気をくれる香りのレシピはまるで

「自分はもうこの香りを作ってあげられないけど、どうか元気で」

と言っているようにも思えた。
私ならそう読み取るだろうと分かっていて彼はレシピを書き込んだのかもれない。

都合のいい解釈かな。

でもいつもそういう回りくどい伝え方をして私を泣かせる人だった。
1ヶ月ぶりに届いた彼からの微かなメッセージに、私はスマホを抱きしめた。

これでようやく私達は終われた。

モヤモヤしていたものがサーっと晴れていくような感覚だった。
彼が作ってくれたお守りも、たくさんの愛情も、過ごした時間も全部抱きしめて前に進めそうだ。
短かったけど私は良い人と時間を過ごせた。


「どうか、元気で。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?