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どうしようもなく、好きで、好きで

心臓がバクバクいっていた。
3ヶ月ぶりに会うはずなのに、もう何年も会ってないんじゃないかと思うほど、私は緊張していた。
だって、きっと今日が終わったら、もう私たちは連絡も取らない。きっと会うこともない。
だからただ、今日はあの人にありがとうだけ伝えようと思って来た。

あったかいものでも飲みながらイチョウを見ようよ、と昔に口約束をしていた。
そんな口約束を、私が引っ張り出して呼び出した。彼はあまり乗り気ではなかった。

駅直結の50メートルほどのイチョウ並木。
きっとそれを往復して、すぐに帰るんだろうな、時間がないな、どのタイミングでありがとうを伝えればいいかな、そんなことをぼんやり考えながら、駅の改札から霧雨の降るイチョウ並木を眺めていた。

「よう」

と手を挙げて現れた彼は、いつもと変わらないテンションだった。
私も、よっ、と手を挙げてこの前会ったばかりのように挨拶した。

「げ、雨かよ」
彼はそう言ったあと間を置いて
「…飯食った?」
と尋ねてきた。
「え、食べてないけど…???」
と私は驚いて答えた。
あまり遅くまでいられない、と言っていた彼から、いきなりご飯に誘われるとは予想外のことだった。

「この辺はカフェか居酒屋くらいしかないかも…ご飯屋さん的なのは大戸屋くらいしか…」
と私がもにょもにょと言うと、

「居酒屋でよくね?」

と彼が言った。

「ええ!?い、居酒屋!?いいいいいんですか!?」
私は声を大きくしてちょっと挙動不審になったと思う。
だって、居酒屋って、お酒を飲むところで、ゆっくり話をするようなところで、この人と話したいって思わない限り行かない場所だ。

「なんでだよ。飲もうぜ。」
と彼が笑った。

目の前に彼がいるのが嬉しくて嬉しくて、感動して、涙がうるっときてしまったのをメニューで隠した。ずっと会いたかったあの人が、今、目の前にいる。この人と居酒屋に来る日が来るなんて、少しも想像していなかった。
緊急事態宣言下に出会い、毎回夜の公園で乾杯していた私たちは、今、明るい居酒屋で生ビールを頼んでいる。

当たり前の日常、当たり前の日本が戻ってきて、今、毎日会いたいと願っていた人が目の前にいる。
夢が叶ったようだった。

最近仕事どうしてたとか、そんな当たり障りのない話をしばらくしていた。ふと、話題がコロナのことになった時に彼が言った。

「オミクロン株?とかやばそうなのが出てきたよなー。旦那さん、予定通り2月に日本に来れんの??」

夫とは、離婚を視野に入れた別居中だ。

「いやぁ…たぶん、もう旦那は来ないと思う」
目を伏せながら言った。
本当は、もっと早く彼に伝えたかったことだった。でもなかなか彼にだけは言えなかった。

そのまま酒の勢いに任せて話した。旦那との別居の話、離婚を考えていること、向こうにいる間辛かったこと、今でも離婚すべきか悩んでいること、辛い中、週に1度彼と電話にどれだけ助けられていたかということ、全部全部、お酒に任せて話せた。やっと話せた。ずっと話したかった。相談に乗って欲しかった。彼は真剣に聞いてくれた。彼なりの意見もくれた。

そう、私、ずっとこれをしたかったの。やっと、彼に頼れた。私の問題だから、私の重荷を彼にまで背負わせたくない、暗い話題で空気を重くしたくない、めんどくさいって思われたくないって思って、辛いの隠して何事もないかのように振舞ってた。でも、私の話を聞く彼の眼差しは真剣だった。それが、とても嬉しかった。

そうだ、私の話をするくらいでこの人に重荷を背負わせるわけなかったんだ。


「そろそろ行くかー」
私がトイレに行っている間に会計を済ませた彼が言う。

「え、払うよ」
と私が言うと、
「じゃあコーヒー代お願いしゃす」
と彼はぶっきらぼうに言った。
「あったかいもの飲みながらイチョウ見るんだろ?」
ちゃんと彼は約束を覚えていた。

「コンビニあるかなー」
と彼はスタスタとコンビニに入って、さっさとレジに行き、
「レギュラー2つで」
と勝手に注文した。
もともとコーヒーをあまり飲まない私は、コンビニでコーヒーを頼んだことがなく、あたふたと百円玉2枚を出しているうちに、彼は
「ご馳走様でーす」
とカップを持ってコーヒーを入れに行った。

結局、今日は彼にほぼ奢られてしまった。

「あったかいね」
とコーヒーを片手に雨上がりのイチョウ並木に向かった。

駅を抜けるとすぐに、街灯に照らされたイチョウ並木が広がっていた。
彼の隣を歩いているだけで嬉しくて嬉しくて、奇跡のようで、「イチョウの匂いがするね」なんて言うと、「だなー、いいよな」と答える彼の少し篭った声が直接鼓膜に響く感覚にすら感動した。1万一千キロ先にいた彼が、今、私の50センチ隣を歩いている。同じ空気を吸って、同じ景色を見ている。

「綺麗な葉っぱないかなぁ」
と私が地面の落ち葉を拾っていると
「そんなん木から取りゃいいだろ」
と葉っぱを1枚取ってくれた。少し、指が触れた。触れただけだった。

ああ、きっとこのイチョウの葉はどんな宝石より価値のある宝物になる。

私はイチョウの葉っぱを街灯にかざして
「あー、来れて良かった」
と呟いた。

そのまま木の下の手すりに腰掛けて、しばらく黙ってイチョウを見上げていた。なんだか名残惜しい、そんな空気が流れていた。

「よし行くか」

と先に腰を上げたのは、いつものように彼だった。
いつもなら駄々を捏ねる私も、今日は
「うん、行こう」
と答えた。

行きと同じように並んでイチョウ並木を歩いた。

あと少し、もう少しだけ、このイチョウ並木が長ければいいのに。

会いたかった、ずっとあなたの名前を呼んでいた、会いたくてしょうがなかった、好きで、好きで、好きで、どうしようもなく好きでごめん、
そういうことは少しも言えなくて、涙が少し溢れて、年の瀬の道路工事の光すらキラキラと輝いて美しく見えた。

「あんまり遅くまでいられないんだけど」と、前置きしていたくせに、すっかり夜も更けたいつもの改札口。

「またな」
と彼は手を振り、
「またね」
と私はイチョウの葉を握りしめて反対ホームへと降りていった。

どうしようもなく、好きで、好きで、好きだから、触れない方がいいこともきっとある。

家に帰るまで手の中でイチョウの葉をくるくると踊らせ、そして彼と読んだお気に入りの本に挟んで閉じた。

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