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人を好きになることと、その人のカケラをもらうこと

溢れる思いと自己分析と、決意のnoteを書いたその夜、私は久々に横になってすぐに眠れた。
朝方、疲れる夢を見たので、寝起きはあまり良くなかった。
どうやらストレスはそう簡単に私を解放してくれないらしい。

スッキリ起きられるはずだったのに、なんとなく良くない寝起きを迎えた私は、散歩に出ることにした。

一週間以上続いた長雨は今朝ようやく上がり、青い空に蝉の声が響いていた。

私は家の近くのコンビニでコメダ珈琲のココアを買って近くの公園へ向かった。

この公園は婚外さんが度々私を迎えに来てくれた公園だった。
冷静になった今、あの時と同じベンチに座って心の整理でもしようかと思っていたが、一週間ぶりに顔を出した太陽はやる気が凄まじくて、とてもベンチに座っていられるほど穏やかな気候ではなかった。


私は、もうひとつのお気に入りの公園を目指した。


流れる雲に太陽が遮られ、また顔を出し、また遮られ、強い風に揺られる木々から溢れる木漏れ日が、地面に美しい模様を描いては消え、また描いては消えていた。
空の青さが近くの高校の白い校舎に反射して、世界が青く輝いている。
湿度を含んだ前線の風が、私のスカートで遊んでいる。

「綺麗だね」

私はひとりごとを言った。

これを言うと、ちょっと変な人と思われるかもしれないけど、これはひとりごとというか、もう一人の自分に話しかけている。

「うん、綺麗だね」

もう一人の自分が答えた。

遊戯王かよ、とこれを書きながら一人ツッコミしているところだけど、本当にそうやってもう一人の自分が答えてくるんだから、しょうがない(笑)


木陰に座って木漏れ日や流れる雲を見ていると、自分がこの美しい景色を見られること自体がなんて幸せなことなんだろう、とだんだん元気になってきた。

帰りがけに、高い木が鬱蒼と繁る別の公園を通りかかった。
いつもは子どもたちが走り回っていて落ち着かないけれど、今日は誰もいなくて、木々が強い前線の風に揺られてざわざわとおしゃべりする声だけが響いていた。

もう少しだけ空を眺めようか、と公園のベンチに座った瞬間、ポツリ、と雨が降ってきた。

「しばらくしたら雲が過ぎるかな」と猛スピードで流れていく空を見ながら思っていたが、どうやら雨は小雨では収まらなさそうで、私は公園のベンチを立った。


雨の降り始めの匂いのことをペトリコールと言うらしい。
アスファルトと、土と、木を濡らす雨の心地よい匂いを吸い込むために私はマスクを外した。ついでに、雨粒で曇ったメガネも外した。

雨に降られるままに歩いて、だんだん雨粒が染み込んでいく服と、胸いっぱいにペトリコールを楽しみながら、過去の婚外さん達のことを思い出していた。

こんな時、あの人なら、雨以外のことにすぐに切り替えてその時間を楽しもうとするだろうな。
あの人なら、きっと落ち込むだろうな、でもきっとカフェでも行こうかって言うんだろうな。
あの人は、きっと雨に濡れて雨自体を楽しむだろうな、と。

雨ひとつにしても、いろんな人がいろんな受け止め方をして、いろんなことで予想外の事態に対応する。
そういう時に見えてくる、それぞれの生き方のポリシーみたいなものが私は好きだった。

人を好きになるって、その人の価値観を分けてもらうことだ。
その人達の小さなカケラが集まって、自分が作られていくようなイメージ。

だから時々ポケットからカケラを取り出してあの人だったらどうするかな、とか
こんな日はあの人は何をするだろう、とか
そんな風に想いを馳せる。

それは、未練というより、どちらかというとその人になりきって考えるという感覚で、
その人の好きな一面を自分に取り込もうとする作業に近い。

もう会えない人がまだ心の中に生きているような感覚で…と言うと、もうその人が死んでしまったみたいだけど(笑)、その人と過ごした時間がまだ私の中で色を失わないで生き生きとあると言うか、体に染み込んでいるというか、自分の一部になっているというか、なんというか。

好きな人と似てきちゃうってのは、きっとこういうことだと思う。
好きだから、勝手に似ようとしちゃうんだ。
そして、だんだん似てきたものは、離れてしまったあとにも残ってる。

感受性や共感力が高いことがネガティブに作用することはよくあるけど、こうやってもう今は会えない人からすら良い影響を受け続けられる自分に「ちょっとはいいとこあるじゃん」と、少し嬉しくてひとりでニコッと笑ってしまった。

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