ただ、隣にいてくれるだけの夜に救われることがある
その日、私は箱根発17:46の小田急ロマンスカーに乗って新宿に向かっていた。
日本に戻って半年ほど、がむしゃらに働いて、やっと自分の仕事も形になってきた。
本来ならこの1ヶ月は夫のいる国に短期で戻るために空けていたが、結局戻らないことになり、私は同じく仕事で忙殺されていた友達を誘って箱根に慰安旅行に来ていた。
赤く掻きむしった蕁麻疹が広がった肌に箱根の湯は染みた。
料理は美味しく、湯も景色も最高で、マッサージを楽しみ、私たちは完璧な独身貴族のような無計画箱根旅行を楽しみきった。
そんな箱根旅行からその足で、男友達との飲みに私は新宿に向かっていた。
彼とはひょんなことから知り合い、何度か客として私の商売に通ってくれていたが、今では2週に1回くらいのペースで会う飲み友になっていた。
その日もその日とて、いつものように酒が回り、他に誰もいない店内に流れる懐メロに合わせて鼻声を歌ったり、ど下ネタで話が盛り上がり、なぜか彼が持っていた北京五輪の選手村のコンドームを堂々と机に広げたり、やりたい放題していた。
同い年なのに未だにお互いに敬語が抜けない彼が聞いてきた。
「旦那さんとはどうなってるんですか」
「別れようと思って連絡したんだけど…気持ちが引き戻されてしまってね…やっぱりあの人が好きだよ。…日本に一緒に住めないか提案してるところです」
下ネタの合間合間にそんな話もしていた。
閉店時間の間際、LINEが1通届いた。
「旦那さんじゃないですか?」
と彼がニヤリと笑う。
「えっ……ほんとに旦那じゃん!!どうしよう…開けられないですよ…!」
「とりあえず閉店時間だ。出ましょう」
平日だというのに地上に上がると街には酔っぱらいが溢れていた。
地下鉄の駅はすぐそこだった。
「じゃあ、また」
と、彼は私を新宿三丁目の駅に置いてさっさと信号を渡っていってしまった。
(もうちょっとLINEの内容気にしたり名残惜しそう感じとかないのかよ…)
と、ボリボリと頭をかいて、私は千鳥足で地下鉄の階段を降りた。
階段を降りたところでまた旦那からのメッセージの通知が画面の端に写った。
呼吸が荒くなった。
気がついたらさっきまで一緒にいた彼に「。」と、意味不明なメッセージを送っていた。
「どうした?笑」
「ちょっと帰れないかもです」
「戻るよ。さっきのとこだよね」
「はい」
「待ってなさい」
5分後くらいだっただろうか、石のように固まった私の肩がうしろから叩かれた。ゆっくりと振り返ると、彼が立っていた。
ヘラヘラと笑いながら私は言った。
「別れよ、って言われちゃった」
「…そっちか…酔っ払って帰れないのかと思った…」
と彼は少し困った顔をして、それから続けた。
「とりあえずどうする?どっか泊まる?ウチくる?」
「家に行く…」
と答えるしかできなかった。
彼に支えられながら歩く新宿の景色はあまりにも美しかった。
そうだよ、私は東京の景色が忘れられなくて、戻ってきたくてしょうがなくて、この景色を見るために頑張ってきたんじゃないか、違うのか、お前が望んだ離婚だろ、違うのか、とか思っているうちに、新宿の夜景と、夫との穏やかな海外暮らしと、笑顔と、別れる直前まで夫と繋いでいた手、別れを告げる手紙を読んだ時の夫の絶望した表情、それらがすごいスピードでフラッシュバックして、涙で夜景がボヤけて、倒れそうになるほどに声を押し殺して、両手でスカートをギュッと握りしめながら夜の街を歩いた。断固として彼の体には触れなかった。
無言で隣を歩く彼に、鼻をぐしゅぐしゅにさせながら
「花粉症でずがら゛」とダミ声で言い訳を零し
「これだけ湿度があるのに花粉症ですか」
と彼は笑った。
最寄りの駅から彼の家までのタクシーでも、彼は私に触れることもなく、家に着くとすぐに
「シャワーを浴びない人はウチには泊めません」
と私を風呂場に押し込んだ。
シャワーから上がると、彼はベッドの脇にエアマットを膨らましていた。
「私がそっちに寝ますよ」と言っても頑なに彼は自分がエアマットに寝ると言って聞かず、そのまま私が彼のベッドを占領させてもらうことになった。
翌朝、どちらともなく目を覚まし、彼がコーヒーを入れてくれた。
飲みの時とは打って変わってテンションの低い私との重い空気に耐えかねてか、彼は昨日話題に上がっていた名探偵コナンの映画をつけた。
「俺、牛丼食べたいんで松屋でテイクアウトしてきます」
と出かけた彼は牛丼3杯とお子様用のカレーを1つ持って帰ってきた。
早朝にも関わらずそのまま彼は牛丼2杯を飲み物のように吸い込み、私はお子様用のカレーをなんとか胃袋に押し込んだ。
そうこうしているうちに、コナンの映画は盛大な爆発音と共に終わり、無音を避けるかのように彼は、秒速で次のコナンの映画を流し始め、自分は隣の部屋に行ってYouTubeを見始めた。
とりあえず椅子に座っていたが、話の内容が全く頭に入ってこない。
心臓がバクバクする。
昨日地下鉄の駅でフリーズしていたように、テレビの前で石のように固まったまま1時間半が過ぎ、無事犯人は逮捕されて映画は幕を閉じた。
隣の部屋から彼の寝息が聞こえる。
除くと、彼はベッドの上に大の字になって寝ていた。
私は、ベッドに背中をつけるように床で丸くなり、バスタオルを被って目を閉じた。
誰でもいいから、そばにいて欲しかった。
でも、この人に手を出してはいけないと理性も本能もそう言っていた。
気がついたら、私には毛布がかけられていて、彼は隣の部屋で残りの牛丼を吸い込みながらパソコンを叩いていた。
私は床をモゾモゾと這ってパソコンを触る彼の姿を床から覗いていた。
人がそばにいる、それだけで安心できた。
夫と別れ話が決まったその日に男の家に転がり込んでいる自分のどうしようもなさにうんざりする。夫の笑顔を思い出してまた涙が出てくる。
ベッドに上がって抱き枕を抱きしめ、涙やら鼻水やらを遠慮なく垂れ流してらまたいつの間にか眠ってしまった。
彼が布団をかけてくれたので目が覚めた。
「ありがとう…優しい…」
「眠れた?」
「うん」
彼が床に座った。
「言ってた通りほんと物が多いね、あなたの家は」
「今年中には捨てるよ、来年には引っ越すし」
「そう、同棲することになったのね」
最近できた遠距離彼女と彼は来年から2人で暮らす。
私が彼と知り合った頃にはもう付き合う寸前だった。
彼は結婚願望が強かった。
彼がベッドの脇に座った。
「旦那さんからのメッセージ、読み直した?」
と彼が聞いてきた。
「まだ。ちゃんと読む勇気がない」
「……結婚って、難しいね」
と、私が零すと彼は苦笑いした。
「眠いな、寝るか」
と、彼がベッドに上がった。
並んで横になり、すぐに彼が寝息を立て始めたのを聞いて、私も眠りに落ちた。
彼が動いたので目を覚ました。
彼が抱き枕を抱いて私に背を向けた。
その抱き枕をよこせと上から私が引っ張ると、ガシッ脇で挟むように腕を抑え込まれ、私が彼をバックハグする状態になってしまった。
バタバタ腕を動かそうとしても、彼の太い腕にガッチリホールドされてしまって動けない。
「ずるいぞ!」
と、バタバタしているうちに、彼の脇に私の手が触れた。ビクッとかれが硬直した。抑え込まれていないほうの手でさらに彼の脇を触ってみる。モゾっと彼は身をよじらせた。
これは…と脇の下の当たりを触り続けた。
「ずるい」
と少し可愛い声を出した彼にゾクッとした。
「ずるくないよ」
と、背中に首に脇に指を滑らせる。
鍛え上げられた立派な体をした男が私の前で身を捩らせている。
彼がさっきより甘えた声で「ずるい」と言ったかと思うと、ゴロンと寝返りを打って私の上に被さってきた。
が、本当に寝技をかけられたように全く動けない。80キロの筋肉マンに全身押さえつけられて思わず「ぐえ〜〜」と可愛げのない声が出てしまった。バタバタしても身動きが取れない。
ふふふ、と勝ち誇ったように笑って彼はゴロリと私の上から降りた。
そうやってくすぐったり、上から押さえつけられたり、小学生みたいにじゃれているうちに、10分くらい経っただろうか。ふと、彼の頭が私の胸の中に収まる形になった。彼の髪からシャンプーのいい匂いがした。
つい目の前にある彼の髪に指を通し、頭を撫でた。幸せな気持ちになった。
ああ、いつぶりだろう、セックスのためではなく男の人とベッドにいるのは。セックスではない形でベッドの上で満たされるのは、一体何年ぶりだろうか。
大切な友達、あなたは、あなたには、幸せになって欲しい。
私のような悪い女に捕まることなく、今の彼女とこのまま結婚して、子供を持って、夢のマイホームで平凡な幸せを掴んでほしい。
あなたには不倫なんて知って欲しくない。
ブーブーと彼のスマホがバイブした。
彼はしばらく無視して頭を撫でられていたが、何度も鳴るので
「鳴ってるよ?」
と私が言うと彼はスマホを確認した。
「もう3時半か…そろそろ活動するか!」
と彼が起き上がって、シャワーを浴びに行った。
良かった、これ以上抱き合っていたら、お互いに何か変な気を起こしてしまっていたかもしれない。
私も起き上がって、服を着替えた。
夕方の街を私たちは駅まで歩いた。
そのまま、「じゃっ」と、なんの名残惜しさもなく駅前で別れて、私は電車に乗り込んだ。
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