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鬼塚



 肉は臭く、キムチは包装がやかましかった。濃縮カルピスの紙パックにはうっすらと埃が載り、柑橘類は皮に無数のシワができていた。線路沿いに広がる宵の商店街を無目的に出歩いて、店々を冷やかして回るけれど、そもそも所持金を確認しないまま外に出ていて買い物の意欲があったわけではなかった。大学生で、慢性的に金欠だった。
 線路脇のガードレールに尻を持たせて踏切を眺めた。褪せた警告色のバールが下がり電車が通り抜け、花粉くさい風が舞い、やがて地面に落ちかけた塵を人々や車の往来がまたかき回す。同じ営みを三ターンほど見送ってから、わたしは鬼塚のアパートに戻った。

 鬼塚はパイプベッドの上で携帯を開いていた。余暇のほとんどを携帯大喜利に費やす男だった。振るわない成績を顧みることなく医学部への移籍を考えていて、夢は芸人だと言っていた。おまえは別に明るくもないし面白くもないのになんで芸人なんって言うやつ周りにおるけど、お笑い芸人のほとんどは素が明るいわけじゃないからね。わかっとらんよね、ほんと。ふだん通りの青白い顔と真っ赤な唇を省エネルギーで動かして、聞いてもいないことをぽつぽつと喋る。九州の出身だという鬼塚の喋り方はおそらく上京に合わせて彼なりのアップデートを施されていて、雪国生まれのわたしにはまるで分別不可能な様相をしていた。
 キッチンに置いてある鍋を見ると、カレーがなくなっていた。今朝炊いた蜆の炊き込みご飯もなかった。自分の機嫌が明確に悪くなっていくのがわかった。食べ物を食い尽くされたからではない。蜆ご飯は蜆ご飯、カレーはカレーで完結するように味を整えてあるのに、鬼塚はきっとそのふたつを混ぜて食べたに違いないからだった。本人にいきさつを確認し、想像通りの返答があり、わたしはいくらかの怒りを彼にぶつけ、同時にそれが彼の心を改めさせるはずもないと知っていて、煙草を吸ってから鬼塚のベッドで眠った。

 夜中に一度だけ目が覚めた。暗闇の中に、ノートパソコンの電源の青い光が浮かび、なぜか昼間は聞こえないかすかな電子音が夜行性の生き物のように部屋中にテリトリーを広げていた。時おりそこに鬼塚の寝息も加わった。

 朝、目覚めても起き上がる気がしなかった。隣で寝ていた鬼塚もいつの間にか起きていて、テレビをつけたいのか、四方に腕を伸ばすがリモコンは手の届かない場所にあってやがて諦めた。
 救急車のサイレンが遠くに聞こえた。鬼塚が端末をいじる気配を背後に感じていた。寝返りを打ってたじろいだ。鬼塚の顔が近い。元来、肌の質には恵まれた男だから、その近さで見ていても不快ではなかったが、その距離感にはすでに意味が生まれていた。寝床としては悪くないと思っていたのに、ついに面倒がやってきたのかとがっかりした。鬼塚は、とわたしは記憶をたどった。確か、童貞だと言っていたはずだ。
 鬼塚が無遠慮にわたしの股間をまさぐり、やみくもに尻を揉み始めた。施錠された扉をこじあけようとするような手つきだった。未経験者が人の尻を揉んでどうするのだろう、どうせゴムもローションも持っていない。露骨に勃起しているのを押し付けられてもわたしは煙草が吸いたいとばかり考えていた。起き上がるのが怠い。

 鬼塚ががばりと立ち上がって浴室に消えた。すぐに戻って来た彼の手にはアクアブルーのチューブがあった。それはシェービングジェルだ、とわたしは抗議した。鬼塚はわたしの身体をうつ伏せにさせて寝巻き用に貸してくれたジャージの下だけを抜き取り、わたしの尻の谷間にジェルを塗りたくった。薄荷のせいで飛び上がるほど冷たかった。冷感に震えていると鬼塚が覆いかぶさってきて、その時にはすでに尻を埋められていた。ゴムをつける素ぶりは見ていない。
 鬼塚はがむしゃらに腰を振った。わたしは何ひとつ快感を得られないうえ、ピストンの衝撃が脳天を揺らして鼻血が出そうだった。枕に押し当てた片頬がしんどくなったが、ふしぎと気分は悪くなかった。
 鬼塚は好き勝手に射精して、申し訳程度にわたしの尻を拭いてからせわしなく風呂場に入って行った。シャワーの蛇口を早急にひねる音が聞こえた。洗え洗え、とわたしは心の中で囃し立てた。

 わたしはのそのそと起き上がるとバルコニーに出て、煙草に火を点けた。午後から出なければならない授業のことを考えた。準備もしていないわたしの尻穴で童貞を捨てた男の行く末など、少しも案じてはいなかった。

ランジェリーが増えます