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7月14日の日記 『Ego Emo Ero』


 色か恋かの文脈も定まらないうちからあれこれと心尽くしをしてくれた人がいたのだが、その後の連絡を送るのがふいにどうしても怠くなって、嫌いになったわけではない(好きになったわけでもない)が、先方には拒否と受け取られたようだった。
 景気づけにプリンを作ろうと思い、φ26cmくらいのでっかいココットを洗い直して蒸し器の所在を確認して、良い卵と牛乳を買った。これからグラニュー糖と少しの水を入れた鍋を火にかけてカラメルを作る。水よりグラニュー糖を先に鍋に入れると、水分と混ざりきらないうちにグラニュー糖に熱が伝わってそこから焦げることがある。だから水はグラニュー糖より先に入れる。グラニュー糖ではなく白砂糖でもいいが、粗糖や黒砂糖では始めから茶色いのでカラメル化する瞬間を見極めにくいし、ミネラル分がカラメル化の邪魔をするので白いものを使うようにする。加熱の途中でかき混ぜたりすると白く結晶化して均一なカラメルにならないのでなるべく触らない。


 『チェンソーマン』を読んだ。今週号はとくにエモが重かった。雪玉の描写を一瞬だけ挟み込むセンス、本当に何なの。
 登場人物のうち誰ひとりとして善人ではないが、とりたてて露悪的でもなく、おのおのがおのおのの都合や事情や生理感覚に従って生きたり殺したりうっかり死んだりする。奇人も変人もいるが賑やかしのために描かれているのではなく、等しく行動理念を持って動いている。それらが当然のように絡まり合って自然と発火したり閃いたり滲み出たりする種々のエモにたたみかけられる。雑に言えばそのような漫画だ。エモとはエゴの火花だから、善人の在り方はエモと相反している。だから善人の出てくるお話はシナリオの流れではなく人為的な演出でエモらしきものを支えるが、そういったものは肌馴染みがすこぶる悪い。
 色恋においてはエモなるシーンを生きられる人間でありたいと思う。最低限の倫理と研ぎ澄ませた生理感覚とともに、純度の高いエゴを抱いていたい。恋が単なるエゴのぶつけあいであるとは考えない。あなたの世界がありわたしの世界があり、それだけならばエゴで戦争するしかないが、そこには他にあなたとわたしの第三の世界がある。第三の世界に互いのエゴを持ち寄って触れ合わせた反応の無限のヴァリエーションで遊ぶ。エゴで殴るだけではその世界はすぐに枯れるが、エゴを欠いてはエモではないし、エモでないならエロくもならない。好きな人のためにエゴが少し形を変えながら反応を起こす、それがエモくてエロいのだと思う。


 役者仲間が七夕の日に子どもを産んだらしい。そういう知らせを受け取るたびに、近ごろは変な気持ちになる。自分に兄がいたならこの人だろうと思う人が三十代半ばにさしかかった時にふとこぼしていた。最近よく死ぬことを考える、希死念慮じゃなくて、死ぬということが前より鮮明に感じるようになった、それで、不思議なんだけど、子どもがいたらいいなと思うようになった。と。
 秋山あゆみ『虫けら様』のフユシャクの項、目覚めたフユシャクの成虫が土から出てくるとそこは雪の世界で、口がない。雌だから翅もなくて、世界は終わったのだと思う。そこに雄がやってきて出逢う。すると、子どもというイマジネーションが兆して、どこかに世界の続きがあるように思えた。とあって、そっくりだった。
 わたしは南インドの象のことを考える。一ヶ月か二ヶ月か前に、人間が仕込んだ爆発物入りの果実を食べて死んだ若い雌の象で、妊娠していた。即死ではなく、負傷した口と内臓の衝撃で動けなくなって、森の水辺に立ち尽くしたまま数時間かけて衰弱して死んでいったのだという。死ぬまでの間、何を見ていたんだろう。


 プリン液を作って濾して、底にカラメルを流したココットに注ぎ入れる。すが入らないようにとろ火で蒸し上げ、鍋に入れたまま冷ます。それから冷蔵庫でしっかりと冷やす。
 冷蔵庫を開けると明るい。わたしの冷蔵庫はいつもほどよく物が並んでいて、なおかつ充分な光量があって優雅だ。好きな人に見せたい。象のことをたびたび想う。いつか子どもを産んでみたい。いろいろな気持ちがバラバラで、魂がちぎれそうになる。早く冷えてプリン、子宮が疎ましい。

ランジェリーが増えます