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ラブリーピッピ・アンド・エモ

 

 おしっこを、わたしに向かってかけているのだと言い張る。言われるまで知らなかった。平静の彼も知らないだろう、酒に弱いから。酔いが覚めたらきっと忘れる。
 二杯の酒で真っ赤になる好色家の赤ちゃんは、何かのはずみですこぶるむずがる。
「あれもやだこれもやだ…。バゲットで殴るよ」とメッセージで脅せば、
「おちんちんで叩き落すわ」と言い返してくる。彼のそれを思い出してみて、
「そんなリーチないでしょう」と送ってみる。
「リーチだけが戦力の差ではないぞ」
「バゲットより硬いとでも?」
「おしっこに濡れたバゲットが強いとでも?」
 いつのまにか飛び道具【おしっこ】を装備しているのが卑劣だ。指摘すると誇らしげにするので、
「おしっこ漏らして威張るんじゃないの」と嗜めた。
「おしっこなんて恥でもなんでもないよ」
「じゃあ見せてね」
「かけたげるね」
 寒い晩だった。彼の先端から迸るあたたかい体液が自分の肩から腹にかけて小さな滝のように流れていく様を想像した。湯気が立っている。
「暖を取るのにちょうど良さそう」
「今からかけに行けばいいの?」
 その晩は自宅で仕事に追われていたので、かけに来てくれても応対はできそうになかった。
「今いるところからかけてみたら?」と提案した。
「そんな遠くからでいいならいつもかけてるよ」と彼は答えた。遠地からわたしにおしっこをかけても壁が汚れるだけではないのか。
「ちゃんと気づかせてよね」
「気付かないのが悪いのでもう直接もかけない!」
 怒る理由がわからないけど、わからないものをぶんぶん投げつけてくる様子が良い。理解させる隙もない手触りとしか言いようのないものへの恋しさが増した。もっとも、ここから見える彼の言動を意味に還元すると酷いことになるのでそのままにしている、と言うこともできる。解釈をするわけにはいかない、わたしは悋気が激しいし。妬きすぎると嘔吐するので困る、目に見えるものをとにかくよく見ていようと思う。実際の言葉、実際の態度、実際の仕草、実際のなりゆき、そして物質。つまり記録したり直接触れたりできるものだ。たとえば彼の体から出てくる様々なものに触れた。精液をかけられたことはないが口に含んだことは二回ある。わたしの「童貞」を貰ってもらう日などは、浣腸のためにひたすらトイレに篭ってくれた彼の股を事後シャワーできれいに流す時、陰毛にくっついた何かを指でこそげ取った。おそらくはちぎれて丸まったトイレットペーパーだと思うが、それが何であっても平気だった。わたしに股を流されているあいだ歯磨きをしていた彼がふいに口から泡を吐いて、白く発泡する唾液がわたしの足元に散った。
 わたしはおそらくそれなりに潔癖である。食べ物やストローをシェアする相手は選ぶ必要がある。その程度の心理的な膜はある。彼の体液や分泌物に触れるのは一切気にならないが、この感覚が何かに似ていると思ったら、大学生の時に浴びた猫の生き血だった。


 それは真夏日で、アスファルトから低く陽炎のようなものが立って視界を滲ませていた。キャンパスの敷地と敷地の間に通る二車線の細い一般道を大学に向かって歩いていると、ちょうど正門の前あたりの車道にふと踊る球のようなものが見えた。目を凝らすと、たった今轢かれたばかりと思しき黒猫が血を吐きながらのたうちまわっていた。よく見れば周囲の歩道には人だかりができていて、ぐるぐると苦しむ猫に遠巻きながら注目していた。脚がひとりでに駆けて行って、猫の躰を抱き上げるとすごく熱いのですぐに歩道の日陰に入った。暴れる猫を抱えながら動物病院とタクシー会社に電話をした。通りすがりの誰かが猫を入れる紙袋をくれ、それで猫を包んでタクシーを待った。靴の先に、猫が吐き出す血の泡で赤黒い斑点ができているのが目に入った。触れた血は熱くぬるついていた。柔らかな体毛の下にとくとくと動く内臓があった。命と呼ぶには露骨すぎる、生っぽい感じに触れる昂揚があった。
 彼の命が荒ぶる瞬間に立ち会うのが好きだ。バイオレンスを発する時、キラキラした顔をする。ぶちまける体液は本当にあたたかくて嬉しい。この人の中をついさっきまで流れていたのだとわかる。涙と血液はまだ見たことがない、血は無理でもせめて泣かせたい。


 まだ出逢ったばかりの頃、彼が何を好むのかがわからず、出血や欠損にこだわる様子をたよりに「お風呂で剃毛していたら腿のあたりを少し切ってしまいました」と送って気を惹こうとしたことがある。当時はまだ彼も可愛らしくふるまっていて、律儀に同じ湿度の言葉を返してきた。わたし自身は迷走神経反射を起こすので血を見ることにロマンスを感じる余裕はない。鑑賞するか倒れるか、丁半の賭けでしかない。
「賭けに勝ったって気分です」
 初めて対面して食事をした夜、彼はわたしと知り合ったことについてそのように呟いてはにかんだ。神とでも賭けていたの。覚えていないと言いそうだ。
 神といえば、彼から初めて送られてきたメッセージの中に「無償の愛を信じていない」という主旨の一文が紛れていたことを思い出す。おやと思った。こだわりを伝えたかったのか共感が欲しかったのか、それとも釘を刺しておきたかったのか、何の意図があるにせよそれを書くにはまだ「早い」のではないのかという気がした。そもそも愛というのは神だけが持つ仕組みだとどこかで読んだ。小さい頃に夕陽の射す部屋で尻を百叩きされたことがあると呟いていた彼は、ある夜わたしを捕まえて延々とわたしの尻を叩いた。引っ叩くのとフェザータッチを繰り返すやり方が、数年前にどこかの女王様に聞かされた手法と同じで腑に落ちた。痛みに逆立った産毛の根元を撫でられていたのか、意識は否応なしに尻の毛穴に及ぶ。次の手がやってくるまでの間合いにいまかいまかとじりじりする体が勝手に動いて股が濡れた。愛とか神とか何であれ、彼の行為の純度、少なくとも見かけの純度の高さに敬意を持っているので好きにしたらいい。無償の愛に関してはとくに問いただしたことがないので、そのキーワードはただ珍しい石みたいな形でわたしの腹の底に転がっている。


 花見の約束は今、人気の少なくなった繁華街や新型ウイルスのための患者でひしめく病院のベッドとひとつづきの空に気まずく浮かんでいる。一緒に花を見たいと呑気に考えていた時とは異なる世界にいるようだ。別に「今年の」花とは言わなかったし、と屁理屈を唱えながらわたしは生活を続けている。とりわけ桜が好きなわけではなくて、怖いもの見たさに近い。畏怖があるのだ。どうも生き死にのイメージを請け負いやすい桜と、わたしにとっては歩いてるだけで熱い生命をぶちまけているような彼との取り合わせに興味を惹かれる。季節の行事を共にしてみたかったというのもある。花わさびを混ぜ込んだ酢飯のいなり寿司でも作って持って行こう少しのお酒と…などと考えていたのが数週間前、今や素手で拵えた食べ物など人に食べさせる気にならない。事態はどんどん変化していく。
 自身の死因を想像して互いに口にしたことがある。会話としては一瞬で終わった、風が頬をひと撫でしたみたいな言葉の交わし合いだった。


 ある朝トイレに行こうとする彼を制して風呂場で用を足すように促したら、素直に浴室に入って行った。服を脱いで追いかけると、仁王立ちで放尿する彼がいてわたしは笑いこけた。色づいた滝に少し触れて、人肌に近い温度の水流は心地よかった。彼の髪を洗い交代で洗髪してもらう。それが済んでから湯船に浸かるわたしのほうへと、彼が体を向けて考え事をするので何かと問えば、「もう少し出せそう…」と言って湯船に少量のおしっこを放った。


 彼はクンニリングスをしない。指を入れたりもしない。出会ったばかりの頃はわたしの写真を撮りたいと言っていたが一度も撮られたことはない。わたしの首を絞め、髪の毛を掴み、腹を殴り、尻を叩き、わたしの髪を洗う。なぜか必ず同じホテルに行く。むやみやたらと褒めることはしないが細かく認識をしていて、わたしの靴下の柄など、よく見ている。わたしの胸の小ささを話題にすると反応がやや頑なになる。
 おしっこは良い。意志を感じられる。それが彼の、わたしへ向けた明確な表現なのではないかと思うことができる。現実がそうじゃなかったとしてもだ。
 おしっこに気づかないと言って彼は怒っていた。きっと何にも気づいていないから、ぷりぷりしながら気づかせてほしい。互いの体の弱いところ、あるいは新たに肺炎か、はたまた地震で去る前に。

ランジェリーが増えます