見出し画像

7月22日の日記『Your Me』


 連休が始まる前に山深い地域へ行って千何百年だかの歴史ある立ち寄り湯に入ってきた。
 重い硝子と木の引き戸を開けるとよく使い込まれてつやつやした板間の玄関に桃のコンテナが山と詰まれていた。なまものは入れちゃ駄目なんですけどねと笑いながら言われて何のことかとよく見ると、一番上のコンテナに生きた猫が収まって寝ていた。毛並みが良くて肉質の柔らかそうな猫が起き上がってあくびをした。カメラを向けた途端に毛繕いに夢中になって、顔を撮らせてもらえない。
 受付でおでこを出した。肌に触れないタイプの検温機をかざされ、電子音が鳴る。ここに来るまでに随分汗だくになっていた。ほかほかした体を測られて大丈夫かなと不安になるが、36度8分の、ふだんと寸分違わない平熱だった。
 数段だけの階段を上がったり下がったりして通された更衣室の前で軽く説明を受け、中に入った。扇風機がぶうんと鳴っている。控えめなオレンジ色の灯りとカーテンのかかる窓からの光で、眩しくはないが充分に明るい更衣室にはロッカーがなく、大きくて丈夫な籐籠がいくつか重ねてあるだけだった。洗面台などはなく、窓際に巨大な木製の化粧台が置かれている。入り口から向かって右側に手洗い、左に浴場の扉があり、分厚くて清潔そうなバスマットが敷かれていた。
 どろどろの服を脱いで、それは籐籠の中に入れるのが躊躇われたので畳んで床に置いた。荷物と、鞄から出した替えの下着とTシャツを籐籠に入れてさあ湯へ、と振り返ると化粧台の鏡に全裸の自分が写る。まだ他に誰も客はいない。鏡の前で、まるで公共性の感じられない見知らぬ空間に裸で佇む自分を少し長めに見ていた。


 こじんまりとした浴場は碧いタイル張りで、ちょうどいい量の観葉植物が所々に置かれて窓から入る光を受け、緑を際立たせていた。蛇口のお湯で軽く汗を流してから湯船に入った。窓の向こうに竹垣が見える。熱くない。火照った体が、お湯に入るとじんとしてほぐれるのは不思議だ、はじめからあたたかい体なのに、それでも入浴すれば巡りが良くなると感じる。道中で打った脛がもう膨らんで青くなって、お湯の中でゆらゆらしていた。

 お湯から出て、もうひとつの浴場へ体を拭き拭き向かう。すかすかの衝立が置かれた仄暗い廊下を、申し訳程度にタオルを巻いた裸のまま突っ切ってすぐの階段を降りると源泉の湯殿がある。暖簾をくぐるとさっきまで入っていた湯船の5倍はあるような箱状の空間に湯気の出ない水が溜まっていた。そこの源泉の温度はかなり低く、プールと思ってもまだ少し冷たいくらいだ。男湯との仕切りに積まれた岩の隙間から源泉がちょろちょろと流れ込んでいる。水面に足先をつけてゆっくりと足の全体を浸していった。太腿が入るあたりで一瞬、鎖骨まわりの神経がキーンと鳴る。それが去って、でもこれ以上は入れないと思って縁に腰掛けた。揺れる水面に格子状の光が写っている。窓の向こうにセミが鳴き、その横で古い大きな換気扇がブオオオオンと回っている。
 水に浸かっていると、体内の熱が上へ上へ逃げてくるようだ。たぶん本当は、熱は冷たいほうへ向かって、わたしの熱の総量は減るのだが、残された熱い皮膚のほうの熱さが際立って感じられるので、足先から熱が上がってきて前腿のあたりに集まったと感じる。熱い腿に触れるとひたひたと吸いつくような質感がした。最近は入浴後のボディバターをやめて、蜜蝋にホホバ油とフランキンセンス精油を混ぜたクリームを薄く塗っている。乾いている時はわからなかった肌の感じの変化を見つけたのがおもしろく、手のひらをくっつけたり離したりを何度も繰り返しながら、思い出したい人のことを思い出すなどして冷たい湯船の縁に座っていた。


 湯と水を何回か往復して、水ですっかり冷やすのを最後にあがることにした。体を拭いて服を着ると体の温かさはすぐに戻るが、それでいて肌が冷たいままなのでさらさらと過ごしやすい。磨き込まれた廊下を戻ると、受付には人が増えていて、湯屋の人らしき女の人が切り立ての桃を一切れくれた。皮を剥かずに食べるのらしい。コンテナの猫はいなくなっていた。


 帰りの長い電車で『クラクラ日記』の続きを読んだ。ひとつ仕事を終えるとどこかへ出掛けて何日も帰らない安吾を迎えに、何某の宿へ三千代が向かった夜、バーの女を伴い宿に帰ってきた安吾は「女房には明日の朝、対面いたすであろう」と言って、三千代が同じ屋根の下にいる宿の一室で女と一晩を過ごす。朝になってようやく顔を突き合わせてもお互い何も言わない。そんなことが書いてあるのに、ふいに夢にかこつけて死後の安吾を想うようなくだりが挟まれていて胸がぶるっとした。
 想いたい人を想う時にはまたあの冷たい湯船に浸かりに行こうかな、などと考えながら意識が途切れて、ふと頭の後ろを車窓にガンとぶつけて目覚めたりした。クラクラ。


ランジェリーが増えます