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イギ あとがき



 悪戯、クリエーション、…ラブレターでもあったと思う。悪戯だと思えば必ず気づいて反応して欲しいと思え、クリエーションだと思えば本人の目は関係ないのだと思え、ラブレターだと思えば届かないと決めつけるのがしっくりときた。
 書こうとすれば多くのことをつぶさに思い出せるのかと、ちょっとした好奇心で記憶の藪に分け入ってみた。まさかまさかと思いながら足取りに注意して、風景を追いかけた。思った以上にこまやかに追えるのでどぎまぎした。シナリオに感心した。経験のすみずみまで愛おしいと思ったし、記憶はわたしのものだとも思った。


 書くとなればひたすら運動の描写に徹した。運動というのは映像や音のことで、自分の胸のうちの言葉はどうでもよかった。あくまでも芸でありたかったのだ。ただし、映像は必ずわたしの目を介しているからわたしの意識なしにはかたちを取れない。カット割りがチグハグに思われて悪目立ちするのを避けたい時には、自分の心理描写も潤滑剤として入れた。印象の強弱の再現、つまりカメラの解像度の上げ下げは綿密にしていた。
 むかし読んだロラン・バルトの『明るい部屋』に、「デッサンとは翻訳である」というようなことが書かれていたように薄ぼんやりと記憶していて、釘を打たれているような気持ちがどこかにあり、書き手の罪の所在をつどつど確かめながら書いていた。


 初めてイギに会った時、直感的に「この人はわたしに亀裂を与える人だ」と思ったのだが、それの出所はバルトだったのかなと今になって思う。手元に彼の著書がないので、バルトを手引きにジャコメッリの写真について論じる辺見庸の文章を代わりに添える。

ジャコメッリの映像はプンクトゥムに満ちている。かれの映像は見る者の無意識と身体に、しばしば予想をこえるつよさで「作用」してくる。つまり、映像によって心にあるいは躰の奥に〈刺青〉が彫られるような不思議な感覚をおぼえるのである。それは感動などというクリシェではおおいつくせはしない特別の感覚である。
辺見庸『わたしとマリオ・ジャコメッリ』

 唯一、時間を忘れて見入った絵がある。仄かなピンクに色付けられた空間に、細く均一な線でぐちゃぐちゃの毛玉のようなものが描かれていて、その毛玉はよく見れば人の横顔なのだ。何年も前、青山の喫茶店の壁にかけられていた。わたしはその絵の真向かいのカウンターに座りコーヒーが冷めるのもかまわず見続けていた。その絵が良いものなのか悪いものなのかもわからなかった。マスターに画家の名前を教えてもらい、「平」の字が入っていたように思う。好きとも嫌いとも言い表せなかった、絵の意向に関わらず、繋がってしまったと思った。
 その絵の存在はイギに似ていて、彼はそこに立っているだけでわたしの中に入ってきて手も汚さずにわたしを傷つけズタズタにした。いくら彼がわたしに肉体的な苦しみを与えたがる人であろうが、そのことは彼の印象に影響しない(そもそもわたしは彼が純正のサディストであるかどうかには疑いを抱いている)。そういった話題とは関係のない位相でわたしの躰には裂開が与えられていて、消える気配がない。


 バイオレンスについての補足。これまで多くの彼による暴力を記述してきたが、彼がわたしを殴ることと、彼がわたしに殴られていたかもしれない並行世界はわたしにとって殆ど違いがない。彼に殴られたり首を絞められたりする時、彼がある衝動をわたしの体を介して表出させていること自体にわたしは注目するのであり、殴るや絞めるといった行為の一般的情報価値・イメージには関心がないし、そういう色合いで彼を認識することはなかった。だからその核心が失われず、彼やわたしが互いのあらゆる搾取から自由である限り、わたしたちのあいだに何が起こっても良かった。


 書き上がっても、本人に予告や報告をすることはなかった。その頃わたしたちにはそのような交流が途絶えていたので。投稿をきっかけにすべての歯車がたまたま悪い方向に動いて、関係が完全に終わる未来だってあると思うから、胸のうちで「さよなら」と「いってらっしゃい」を同時に言ってnoteの公開ボタンを押した。心が死ぬことを可能性の視野に含まなければ、真に遊ぶことはできない気がした。半日から一日、せいぜいそれくらいの時を置いて、投稿に、そっと彼からの反応がついた。
 読んだんだ、とだけ思って、自分のどこかがじわじわとするのを静かに体感していた。noteがきっかけとは思わないが、その後わたしはイギとの再会を果たした。

「こんな地獄があると思う」とどちらかが言った。
『イギ2』
 それぞれが相手の姿を認識したらしいわたしたちはとくに大きなリアクションをすることもなく互いに近づいた。こんばんはと、おそらくわたしから声をかけた。
『イギ3』

 事実だと思えるくらい確実な記憶を抽出し、捨てたくない曖昧な箇所は曖昧さを白状して、それでもまだテキストに歪みはあっただろうと思う。素敵なのは、読んだはずの彼がまるで答え合わせをしてこないことだった(ただ本人が起こったことの殆どを忘れているだけかもしれない)。半年ぶりに会う湿った夜に、どのような文脈かは忘れたけれど「俺、クロワッサン隠されたのまだ恨んでるからさ」と言って彼はふふんと笑って見せた。

食後、部屋に戻る途中にも、彼はクロワッサンの買い置きがあることを思い出していて不穏だった。わたしは夜中に物を食べてはいけないと彼を諭し、眠る時にクロワッサンをどこに隠そうか考えた。
『イギ2』

 実際はクロワッサンを隠そうとは考えたものの隠さずに終わったのだ。過去の事実の擦り合わせを遊戯にしたことはない、あなたは今その時に、何を口ずさんで戯れることができるかだけ、それが専売特許とでも言うように。


「このまま放置を続けたら、思いの丈が募って続編を書いてくれるんじゃないかと思って待ってたけど、もう貴方は置いた筆を執らないみたいだったから、放置するのやめちゃった」
 これはnoteを読んだことに関して彼が初めて明確に言及した一言である。そういう可愛さは解釈の「正解度」とは無関係であるのだなと思った。わたしという人間の読解に恐れや遠慮や屈託がなくて清々しい。


 
 届かないと思っていたラブレターが届き、いざ届くと分かれば調子に乗った。禁止していた心の言語をふんだんに使った番外編も書いた。なぜこれが『イギ3』ではないのかと人に問われて、何と答えたのかは忘れたけれど、今なら言語の違いと答える。わたしとしては明確に手法を変えて書いたのだけれど、読む人にとっては小さなことだったかな。おしっこから始まるのが気に入っている。

 おしっこを、わたしに向かってかけているのだと言い張る。言われるまで知らなかった。平静の彼も知らないだろう、酒に弱いから。酔いが覚めたらきっと忘れる。
『ラブリーピッピ・アンド・エモ』

 本人に「続きを楽しみにしている」と言われたり「文章良いよね」と褒められたりして本当に調子に乗っていた。けれどそれらは、実はラブレターとして届いていたのではなかったのかもしれない。


「僕の行動をあなたの推測した行動原理から測るから無理があると思うし、僕はそれを「僕をコンテンツとして取り扱っている事」の証左だと感じているよ。悔しいことにあなたのアウトプットはコンテンツとして面白いんだけどね。」
 ちょっとしたいざこざで彼を詰ったわたしに送られてきた文面である。解釈と応答とを慎重に分けていた自分にこういう言葉が送られてくる算段はなく、狼狽し、エクスキューズを並べ立てた冗長な文章を返したことを覚えている、そのとき手指から体温が消えていたことも。


 蝉がわんわん鳴いて、遅れた夏が取り戻される。街路樹から街路樹へ歩けば、わんわんが遠のいては近づき、遠のいては近づき、三半規管を喰う。歩いているだけで酔いそう。彼が感じたらしき「しこり」のテクスチャを想像してみた。「しこり」が発生しないようずっと気をつけていたのだけど、もう発生済みであるのならいっそその不快感に浸ったらいいのにと思う。


 冷静に考えればおまいう案件の色を放つし、言い逃げは癪に障る。クソ。クソ。でも蒸し返さない。けちなフェアネスは要らない。圧倒的にぶっ殺せなければ嫌で、青山の喫茶店の絵画のような現象をわたしから与えたいのだ。
 そういえば『イギ』を書き始める時に、万が一にも本人が読んで、それで少しでも面白い体験と感じたら満点だと決めたのだった。「悔しいことに」だなんてずいぶん気障な物言いをする、そこから曲がりなりにも「面白い」と続けたのだからわたしは満点、満開の満点だ。


 最初に投稿した二篇のイメージカラーは、大磯に行く日に彼が履いていたボトムスの色に寄せた。わたしはオレンジの亜種と思い、彼はピンクだと言った。俺ピンク好きだもん。
 とくべつ意味を込めて毎回の色を選んでいたわけではないが、外側の世界の描写よりも「わたし」が強いと感じる文章には淡い色を充てたり、すべての色の並びを俯瞰して紫の要素が足りないから紫系を見繕ったり、無意識だけれど、後から思い返せば一応その時々で働く理屈はあったように思う。今回はミッドナイトブルーで、おやすみの代わり、ここにある言葉はすべてゆりかごだ。

ある心情を示す言葉ではここにある心情が訳しきれない時、または語義の効力が充分でないか持続しない時に、物語の「時間」が必要だった
(ツイート)

ランジェリーが増えます