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キャンセル


 急な会議の予定が入って、明日は会えなくなった。そういうメッセージを受け取った。

 音はしないし気配もしない水が流れ込んできてみるみる部屋を満たし、わたしは水底にいた。水面に自分の臓器が浮かんでいる気がした。離れたところで細波にゆれているのを感じる。会えたら9ヶ月ぶりの再会だった。数字は今さら、どうだっていい。
 息をするのもしっくりいかない。喉を出入りする空気が重い。と思えばもっと重いのは臓器になって、しかも体内にしれっと戻ったうえでずっしりしている。水の感覚は消えていた。度を超して手足が冷たいと気づく。あの水中に似た上下のゆらめきは血の気が引いた手応えだったのだ。胸の奥がキーンとする。体のどこからも音が鳴ったわけではないのに、音が生まれた後の振動が長く響いている。

 これの前に一度、彼はわたしに会いに来ていた。その日は昏睡のような昼寝をしていて、起きたら1時間も前に彼からお茶に誘われていた。返信すると彼はもうわたしの家の近くまで来ているようだった。身支度を始めるものの、寝起きでのろのろとしていて捗らなかった。ようやく身なりが整って家を出たと連絡すると、もうタイムリミットなので帰りの電車に乗ってしまったと言う。あの人、わたしの近くまでやってきて2時間以上もひとりでポツネンとしていたんだろうか。こちらに出かける支度をさせておいて、帰る時には無言で帰るなど。さまざまな気持ちが開いたり閉じたりした。
 会おうとしてただ互いの時間を宙吊りにし合ったことを甘やかだとは思うにせよ、たとえばタイミングを司る神のようなものが間にいるのならば、そういうのはきちんと斬っておかなければならないと思った。
 あの人が仕事に励むのは好きだ。だから会議のことに文句はない。別の日に少しでも会える日はないのかと、お茶をする時間を何とかつくってもらった。

 数日後、日暮れ時の電車に乗って、その人が働いている街に向かった。ツイッターで繋がっている〈しと〉ちゃんからメッセージが届いた。彼女は時どき写真付きで服装の報告をくれる。その時はわたしも自分の装いを話す気分になって、服についてと、蛙をかたどったシルバーリングをしている旨を送った。すぐに蛙が見たいと返ってきた。ちょうど駅に着いたので、プラットフォームで手指の写真を撮って送った。またすぐに返事が来る。
「おお、うらのさんを守っている」

 少し早く着いて、彼を待つ間、本を読もうと思っていた。けれどコーヒーを飲む気にはなれず、カウンターで軽めのワインを飲める店に入ってぐずぐずしていた。必要以上に冷たいワインだった。蛙の鼻先を触って過ごした。

 連絡が来て、外に出た。花屋の前で待ち合わせをした。以前より髪を結う位置の高くなったその人が立っていた。会う直前まで浮かんでは消え浮かんでは消えしていたあらゆる「ひさしぶり」の挨拶がもうひとつも見当たらない。からっぽになった自分が何を言うのか見物していたのに、言葉が出てくることはなくただ彼を見ていて、気づくと彼のほうから話しかけられていた。髪が伸びたねとか、そっちこそとか、そのあたりのやり取りはよく覚えていない。マスクにシミがついてると指摘されて爆ぜそうになった。頻繁に洗っているのに、この日に限って覚えのない着色汚れがあった。彼のマスクは映画のキャシャーンを思い出させるようなフォルムをしていた。中で、唇が触れないような構造になっているのではないかしら。視線を上にずらすと、高く結った髪の束がぴょんぴょん跳ねていた。

 イブニングだが、アフタヌーンティーセットを頼んでシェアした。
 脂がのった秋刀魚を食べた話をされて羨ましいから、「脂ののった魚の話なんか聞きたくない」とごねた。他人がすりおろして軽く絞ってくれた大根おろしが好きだということで意見が一致した。あとはネアンデルタール人の遺伝子が云々、最近の話題だ。
 彼はたびたびあくびをしていた。あくびが始まる前のムニャムニャに時間をかけるので「助走が長い」と言うと、「男装だよ」と返してきた。その間にも彼は自分の毛束をひっぱって切れ毛を量産する。けっこうな奇行だと思う。その切れた毛先を引ったくってみた。彼は遺伝子情報を奪われることを危ぶんでいて、つまりわたしが家に帰ったらクローンをDIYすることを見越していたのだった。賢い。
 何度か意地の悪いことを言われるたびに、窓の外を見たりケーキを睨んだりした。そうすることで世界から彼を消したのだ。心が戻ってきたらまた彼を見て、認識の世界に置き直す。
 喫煙者はたいていそうなのだが、彼はいつもテーブルの上に煙草の箱を置く。銘柄が前回会った時とは変わっていた。視力がゴミで、見えない。目を凝らしてもぼやけたままの箱を手に取って席を立つ彼の、後ろの髪を視線で引っ張ってみるが効果はない。

 喫茶店を出て帰りの駅へ向かう。思っていたよりも長く居られたから、もう彼には殆ど時間が無くなっていたんじゃないかと思う。
 駅前の交差点で信号を待っていると、わたしのコートについているベルトを後ろでひとまとめにしてあるのを、彼が掴みながら何故か転びかけた。何、と見ると、あなたのベルトに引っかかって転ぶところだったと難癖をつけてきた。何それ。はずみでほどけたベルトを直すように言うと、素直にベルトを結び始めた。どういう仕組みで結ばれていたのかわからないとブツブツ言うのを背後に聞きながら、わたしは腰のあたりで擦れるベルトの質感に集中していた。実際に何をしているのかは見えないしわからない。コートと共布のベルトをくくって短くすればいいだけの話で、手間のかかる仕事じゃない。待っていた青信号が点灯して、視界の右から左から、人々が進み出す。川の真ん中に立つ杭のように、わたしたちは流れの中に留まっていた。信号を見つめる。青がまた赤になった。駅のホームはすぐそこに見えているのに喧騒は遠い。彼がわたしの背後に立つ時、万物は静かになる。
 ベルトを結び終えたのか諦めたのか知らないが、彼がわたしの横に並んだ。ばちっと目が合って、「不満です」とわたしが言った。あなたとのことは何もかもが不満だが、あらゆることが煌めいている。

ランジェリーが増えます