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イギ3


 イギからの連絡が絶えて二ヶ月ほど経っていた。ある夜ふと、もう二度と彼に言葉を送ることができなくなるのかもしれないと思い急いでメッセージ画面を開き、最も相手に伝えたいと思うことだけを手短に打ち込んだ。
「貴方は綺麗で、可愛い。」
 イギからの返信はないが既読のしるしはついていた。何を送っても既読にはなるし、頑なに返信はない。できることが何もなかった。自己断罪にもほとほと飽きて、彼のブログに書かれていたことを何となく思い浮かべる日が続いた。嫉妬材料と知りながらページを追った、数年にわたる彼の性生活に関する、嘘か本当かもよくわからないミステリアスなトーンのブログだった。
 ミッションが何のためにあるのかと言えば究極はヴィジョンのためだが、精神の集中を手繰り寄せるためのツールにもなる。絶えずミッションを持てる人は高尚なヴィジョンなどなくても方向性を失わない。自分にミッションを与えたかった。イギとの関係を続けられなくても、彼の存在をきっかけにして始まるものがあれば素敵だ。ブログの中で彼が見ていたかもしれない景色を見てみようと思いついて、わたしは「その手のバー」に通うことにした。 


 都内の店を何軒か巡り、通い慣れぬ前に萎えることを繰り返し、これが最後と思って一軒の店に行き着いた。古びた木製の扉を開ける前から犬の声が聞こえてきて怪しかった。入ったのがただの民家だったらどうしようと不安に思いながら踏み込んだ。狭くて暗い玄関スペースのカーテンをくぐると小さなバーカウンターがあってひとまずほっとした。まだ他に客はおらず、店主とやり取りをしながら出された酒を舐めていた。店主は暗がりの中で一人がけのソファに腰を落ち着け、抱き上げた犬のおでこにキスをしながら「変な子が来たねえ」と犬に言った。カウンターの上に置かれたこぶりの水槽の中で熱帯魚の赤や青の尾が翻る。そのうちに何人か入店してきた。みな常連のようだった。店には緊縛の設備が揃っていた。縄をやってみたいと、そこまで強く思ってはいないけれども口走った。とにかく行動の指針を示すのが良いだろうと思ったのだ。客のひとりを師匠として紹介され、後手縛りから始まる基本的な人体の拘束方法と吊り方を習った。
 思いのほか、その店には気負わずに通うことができた。気が乗らない時はひとりで縄の練習をしていればよかった。たまたま師匠が店にいる夜は進捗を見てもらった。間違えたらスパンキングするとしばしば脅されていたものの、実行されることはなかった。人の手もとで結ばれていく縄まわしの様子から理屈を探り出して覚え方をデザインすることは楽しく、手順はすっかり覚えた。トルソーではなく人を縛ることもあった、店主がわたしを新規の客のもてなしに駆り出すのだ。髪の長い人を縛る時は縄で毛先を巻き込まぬように髪をよせたりまとめたり握っていなければならず難儀したし、体の大きな人を縛るのは縄の継ぎ目が思いもよらない箇所にくるので調整に手間取った。縛り終えると、いつも汗をかいていた。
 吊り床のトルソーで練習していると、犬と、眼鏡をかけた男性がやってきた。犬はわたしに遊びの要求をして、男性は自前の縄で緊縛のプランニングを始めた。彼のことを仮に縄紳士と呼ぶ。たまに店に来ては、じっくりとトルソーで縄のデザインを考えている人だった。彼に足が綺麗だと感心されて驚いた。小さい頃から筋肉質で、細い足ではなかった。筋肉のない華奢な足が持て囃されていた時代、わたしの脚は十代を過ごした学校生活の中で褒められたことは一度もなかった。大人になって、いつのまにか筋肉質で太い脚から引き締まった脚へと評価が変化していたことに気づく。その脚を縛らせてほしいと頼まれ、どうぞと差し出す。何度か人に脚を貸したが、縄紳士の手は最も不快から遠かった。触ることを目的に縄を持ち出すのは卑しい、縄紳士はつねに縄を基準に人体を見ていたので心地よかった。パートナーならば物足りないのだろうが、わたしの立場では塩梅がいい。穏やかな気分の日には縄でハーネスを作る方法などを教わり、そわそわした気分の日には自慰用の縛りと称して股間に通してもらった縄を天井から吊るし、自分でそれに掴まって揺れることでクリトリスを刺激した。
 静かな夜もあり賑やかな夜もあった。若い男の子のグループが数組も入店してお祭り騒ぎになった夜、彼らと喋ったり離れたりして過ごしていたが、わたしが店に置いてある衣装に着替えると、酔った男の子が足を使ってスカートの裾をめくろうとするので引っぱたいた。コンパニオンではないということを自力で伝えなければならない。  


 今秋は台風が発生しやすい気象条件が揃っていると言われ、いくつかの台風が通過した本州にはちらほらと目立った被害が出ていた。荒れては凪ぎを繰り返す情緒の定まらない秋のある晴れた午後、わたしは前日に吐いたせいですっかり虚脱状態になり、他にできることもないからと、出張先で買った栗を黙々と剥いていた。
 剥きやすくなるよう水に浸した栗の尻に包丁を入れ一息に鬼皮を剥がす。簡単な作業なのでそこまではすぐに終わった。グラッセにしようか渋皮煮にしようか決めていなかったので、ひとまずは栗ご飯に使う分だけ渋皮まで剥くことにした。鬼皮剥きでは傷つかなかった親指の腹に、わずかながら包丁の刃が入る。何個も剥いていくうちに血が滲むようになった。射し込む陽が暖かい。作業をしている食卓の木目の上をバルコニーの鉢植えの影が伸びて揺れた。よく選別された上等の栗だったので、指の腹が痛むこと以外は順調だった。視界の隅にふと光が浮かんだ。そばに置いていたスマホの画面にポップアップが出て、イギからのメッセージが表示されていた。わたしはあたりに積み上げてしまった栗の鬼皮を散らさぬよう静かに包丁を置いた。それは半年ぶりに見る光景だった。指の腹に滲んだ血を拭ってスマホを取り、メッセージを開いた。「このあいだ○○町で飲んでたのってうらのさん?」
 六ヶ月の沈黙に一切悪びれた様子のない口ぶりがまさしく彼であると思った。「それはうらのさんじゃないわよ」とメッセージを返す心は穏やかだった、というより敢えて昂らないようにしていた。逃したくない動物と対峙する時のように、興味を持ちすぎたりはしゃいだりしてはいけない。道端で出会った猫やカラスを愛でたい時にはなるべくそっぽを向きながら近づくものだ。淡々とリズミカルに返信を続けていると暇を疑われた。
「失礼ね。いま栗剥いてた」
「秋だ」
「秋だから散歩欲が」
「野山を駆け巡るうらのさん」
「それを散歩と呼ぶなら人じゃなくて犬」
「犬だと思ってたよ、半分くらい」と、応酬が続いた。とっくに栗は剥き終わっていて、会話はその後もゆるやかに続いた。 


  台風十九号、アジア名「ハギビス」がマリアナ沖で発生した翌日、わたしはイギに呼び出された。家の近くまで行くので外に出ておいでと言う。時刻は二十二時を回っていて、わたしは夜の散歩がてら彼が近所に到着する想定時刻より早く家を出た。川にかかる橋を渡り飲み屋街に入る。電飾を見上げ、ぐるりと回ってみた。夜空が一回転した。寿司屋や焼肉屋などは店じまいを始めていた。バーはまだ賑やかしい。一杯飲みながらイギを待とうかと思うけれど、そろそろ近くまで来ているのではと思うと気もそぞろでなかなか店に入れない。歩くのに飽きて道端の花壇に腰掛けた。一連のメッセージが本当に本人から送られたという確信がない、狐に化かされているような心地だった。人を待つ時間は世界から切り離されている。わたしは自分の手足の感覚に意識を向けた、途方に暮れている自分の体が「ここにある感じ」に浸る遊びだ。ふと集中が途切れてイギにメッセージを入れた。すぐに返信が来た。写真を撮りながらふらふら歩いて来ているらしかった。迷ったかもしれない、とも送ってきて困った。
 彼が迷い込みそうな路地、現れそうな交差点を、頭の中の地図に照らして推測した。肌寒かったが、どの瞬間に鉢合わせても恥ずかしくないように背筋を伸ばして彼を探した。広めの道路に出た。夜も更けて車はまばらだ。長く伸びるその道の、いくつもの信号機を五基分ほども見通して、各々色が変わるタイミングがずれるから青と黄色の配色が綺麗だった。あたりの建物の陰に一通り、念のために目を凝らした。誰もいない。もう一度、道路を見た。最寄りの信号機を背にして立つ人影があった。髪の毛の先まで逆光に浮かび上がって獅子のような風体をしていた。半年前とは様子が違うが彼だとわかった。
 それぞれが相手の姿を認識したらしいわたしたちはとくに大きなリアクションをすることもなく互いに近づいた。こんばんはと、おそらくわたしから声をかけた。微笑む彼からは獰猛な気配がした。多かれ少なかれこれまで猫を被っていたのだと思った。猫が剥がれて獅子が出るなど趣向が凝っている。腹具合を尋ねられ、夕餉はもう済ませた体なので、と伝えた。イギは笑みを含みながら「じゃあ、俺が餃子食べてるとこ見る?」と言ってわたしを促した。 


 遅い時刻までやっている中華料理屋に入り、餃子と野菜炒めを注文した。向かい合って座るのが気恥ずかしいので雑に頬杖をつく。半年ぶりの再会に見合う、過不足のない量の言葉を交わした。何を話したのかはあまり覚えていない。なぜなら彼は、たとえば互いの指先を触れ合わせるような会話の仕方をする。意味内容ではなく手触りでやり取りが進むのだ、少なくともわたしの前ではそのように話す印象がある。情報の交換は殆ど起こっていないように思う。夢と大差がない。ひとつ覚えているのは湯呑みのことだ。わたしが贈った唐津焼の作家物を、彼の会社の人が誤って割った。その破片と箱とを捨てずに保管してあると言う。バラバラに砕けた陶器など修理に出しても費用がかかるだけだ。そんなもの鉢植えの土に混ぜて水捌け良くするのにでも使いなさい、と答えた。そんなことするくらいなら金継ぎに出す、と彼は低くうめくように言った。
 店を出て少し歩き、煙草を咥えたイギが「じゃあお疲れ」と言った。わたしは自分の表情の印象を彼に残さないよう颯爽と歩き出し、振り返らずに家に帰った。肌寒かったが、数日経てば気圧の変化で生ぬるくなるだろう。観測史上最速でハリケーンカテゴリー5に達したとワシントンポストが報じた、ハギビスの上陸が迫っていた。

「今度、湯呑みの破片を持っておいで」とイギに送った。返信があった。「継いでくれるのね、手に馴染んでいたものだったから嬉しい」
 本当は破片を取っておいてあると言われて嬉しかった。態度でそれを表現する機を逸したのであとは行動で示すしかない。金継ぎなどやったことがなかった。自分の体質が漆に敏感である危険はあるし、道具も揃える必要があるが、後戻りはできない。
 目についた中でひときわ金継ぎについて詳しく書かれているブログを参考に、福井県に実店舗を構える漆工店の通販で材料を揃えた。接着やパテ埋めの段階で使う生漆、仕上げに使う透漆、生漆に混ぜてパテ埋め材をつくるための砥粉と木粉、荒さの異なる二種類のサンドペーパー、漆に色をつけるための弁柄を三色、仕上げに蒔く金属粉。唐津焼のおとなしい風合いに合わせて、金と銀はどちらも消し粉と呼ばれる、粒子が扁平で光の反射率の低いものを選んだ。真鍮の粉も合わせて購入した。それから金属粉を蒔くための真綿。真綿と書くが絹のことをいうのだと初めて知った。それとは別にコンビニで竹箸を買った。
 準備を進めているうちに台風上陸の夜がやってきた。バルコニーの鉢植えをすべて室内に入れたわたしは、窓の外の風の音が怪獣の慟哭に近くなっていくのを聴きながら、買っておいた竹箸を削っていた。漆を練ったり塗り付けたりするためのヘラは売り物の規格では大きすぎて使いにくいとの評判を知って、自作することにした。窓硝子が揺れていた。怪獣の鳴き声に並行して電車の音が聴こえた。こんな日に電車が走っているはずがないと気づいて作業の手が止まる。そもそも音が聴こえた方角に線路など無い。経験したことのない風速なのだとわかった。住んでいる街をこれだけの風が抜ける時、あるはずのない線路と怪獣が現れるのだ。窓が割れると大変らしい。風圧で何がどうなるのかわからない。何人かの友人と安否確認のやり取りを続けていた。イギのことを考えた。彼が死ぬことを想像すると腹が立った。


 連絡を受けて待ち合わせた月末、イギに連れられて入ったのは親鳥の「焼肉」が食べられる店だった。チュートリアルとして店の人が一通り肉を焼いて見せた後、イギがトングを取って焼く作業を引き継いだのでわたしはその様子を動画に撮った。イギの姿を映像として記録できた時、後ろ暗い高揚感がある。万引きが成功してしまったような気持ちだ。苦手だと主張しながら彼はわたしのマッコリに手を伸ばして一口飲み、変な顔をした。君と夏の終わり、将来の夢、大きな希望を忘れない、十年後の八月また出会えると信じて。流れている曲がイギの風貌に似合っていないし音量の大きいのがやけに照れ臭かった。わたしはキョロキョロとして壁に貼ってあるメニューを読んだ。卵のプリンがあったのでにこりとした。
 アルミトレイに盛られたチーズを頼んで焼き網に載せ、溶けたチーズを鶏肉でディップして食べる。トレイにこびりついてカリカリに焼けたチーズがオツだ。ステンレスの箸でがりがりやっていると作業を取り上げられた。自分の皿にあるものを食べて待っていろと言う。やがてスナック状になったチーズがわたしの取皿に載せられた。食べている間にイギが食後の水と、わたしにプリンを頼んだ。


 卸したての肌触りの良いタイツを履いていたのでスカートをめくられても触られても脱がされても最強だと思っていたけれど、そのようにはならなかった。ふたりでホームに立つのは二回目だった。カメラをイギに向けた。彼はすかさずわたしの二の腕を掴んで力を入れた。写真が撮れない。みりみりみり、と細胞が潰れる音が聞こえてホームに電車が入ってきた。ほら、と腕から手を離した彼がうつろな様子で言った。ほら乗ろうのほらではない。ほら飛びなよのほらだった。
 同じ電車に乗るのに浮かれて話しかけようとすると、それを遮って彼は一駅で降りた。ホームでエレベータを待つ彼の後ろ姿を車内から見ていた。頭が動いてこちらを向きかけた気がしたが、はっきりする前に電車はその駅を過ぎた。
 真に受けて道具を揃えてしまったと、電車の揺れに身を任せてぼんやりとした。情けない気持ちになるが、それでも自分で課したミッションだからやり遂げなければならない。
 帰宅して服を脱いだ。彼に握り潰された二の腕にはくっきりと赤く親指の痕が残っていて、翌日には静脈色に染まっていた。出会った当初は、殴り合ったらわたしに負けるだろうと嘯いていたイギだった。親指ひとつで痣を作るだけの握力があるなど知らなかった。



ランジェリーが増えます