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プエブラ以降1


 長距離バスを降り、テルミナルから市街地行きらしきローカルバスの見当をつけ適当に乗り込んだはいいものの、大型車両の揺れにほぐれた全身は重みを増したように座席に沈み込んだ。体も頭もそれ以上は動きそうになかった。グアダラハラ、サカテカス、グアナファト、レオン、ケレタロ、サン・ミゲル・デ・アジェンデを経て長距離バスでプエブラに行き着いた。街に慣れないよう、ひとつの街に三日以上は滞在しないことがいつのまにかルールになっていた。スマホもガイドブックも持たずプランも立てずに飛行機に乗ったので、行き先はそのつど出会った人々の情報から決めることにしていた。
 バックパッカーが好んで使うドミトリーのある安宿は、たいてい教会のある中央広場=ソカロの周辺に集まっていることが多い。ケレタロに到着した日に乗ったローカルバスで、バスの運転手とバックミラー越しに目があったことを思い出していた。汗と埃が体に染み付いたような逞しく美しい初老のメキシコ男だった。運転席に施されたポルノじみたステッカーやポップな髑髏の人形やロザリオなどの装飾を眺めているうち、鏡を通して鋭い視線が自分に向けられていることに気づいた。茶色の肌に白目だけが目立つのだ。その目を見ながら数秒ぼんやりとして、ふと彼がわたしに「おまえが降りたいのはこのあたりじゃないのか?」と伝えようとしているのだと思い至り、窓の向こうに教会の尖塔が見えて慌てて降車を知らせるブザーを押した。グラシアス、と降り際に言うと、強面の顔にバチっとウインクをされた。
 暮れなずむプエブラの街を他人事のように眺めながら、今乗っているバスの運転手もあの時の彼のように小粋な人物であったらいいと考えていた。慣れない言語、知らない街。目指すべき方向を当てずっぽうでも決定するだけの気力は尽きていた。乗客にこのバスはソカロを通るかと確認しても、どのソカロに行きたいのかと聞き返されて疲労が増した。ひとり降り、ふたり降り、やがてすべての乗客が降り、古びた床板の軋む車内にはわたしと運転手だけが残された。若い太った運転手はようやくわたしがそこにいることを認識したようだった。バスはテルミナルに向かいつつあるようだ。出発地点と同じテルミナルなのかがもうわからなかった。鏡餅みたいな風貌の若い運転手はわたしが宿を探していることを知るとわたしをテルミナルで降ろして自分も降り、売店で買ったコーラとサンドイッチをわたしに与えた。何も入っていない胃にコーラが弾けながら染みていった。
 運転手は仕事上がりのようで、お勧めの宿まで送ると言って自分の車にわたしを乗せて走り出した。途中どこかの路地で車を停め、待つように言い残して彼はどこかへ消えた。知らない車のシートは冷たく固い。小さなクラブのようなものが何軒か連なる通りで、それぞれの店の前に若い男女が屯していた。日はすっかり落ちて、風景が胡散臭かった。ここで逃げようかとも考えた。ただ自分の座標がまったく分からなかったし、自力で宿を探す体力はコーラとサンドイッチ程度では戻らなかった。行動に出る前に運転手が戻ってきた。再び走り出した車が辿り着いたのは広い道路沿いのモーテルだった。車から荷物を下ろすのは帰る時でいいと言う運転手に抗ってすぐに荷物を降ろしてもらった。部屋に入り、当然のように彼も入ってきてベッドに体を投げ出した。わたしにそばに来るように言うが、わたしは寄らなかった。天井近くに備えられた11インチほどの小さなモニターに、浜辺で絡み合うラテン系の裸の男女が映っていた。運転手はそれを示して「セクソ、セクソ」と繰り返しわたしに言った。わたしが首を振ると彼は微笑を浮かべてわたしを捉え、後ろ首ににゅるりと唇をつけた。その瞬間に身体中を怒りが満たして、目方ならば自分の三倍はあろう巨漢に対して絶対に体を開くものかという烈しい気持ちがこみ上げた。自分で自分を抱きしめた卵のような形になって、彼がわたしの手足をこじ開けようとするのをひたすら拒み続けた。しばらくその形のままベッドを転がされたりのし掛かられたりしたが、やがて彼は体を離し、ため息をついて部屋を出る素振りを見せた。去り際に何か言うが、聞き取れなかった。早くひとりになりたくてどうにか彼を追い返し、すぐにシャワーを浴びた。なめくじを押し付けられたような首の感触が消えるまでずっと水を流し続けた。浴室を出てベッドで眠るが、二時間後にはドアをノックする音で起こされた。運転手が戻ってきたのかとおそるおそるドアを開ければ、モーテルの受付にいた女の人が立っていた。彼女が伝えに来た内容は、部屋は三時間パックで取ってあるから追加料金を払わないならば今すぐに出て行けということらしかった。追加料金は、わたしが相場として見積もっている宿泊費の三晩分くらいの金額だった。わたしは荷物をまとめてモーテルを出た。

 真夜中のメキシコ、屋外にひとり。コンビニの明かりが見えてくるまでは死を覚悟して歩道を歩いた。コンビニの窓際にはカウンター席があり、そこで夜を明かせそうだった。若い女の人がひとりで働いていた。他に客はなく、彼女は粛々と休憩したり在庫表らしき紙を眺めたりしていた。バスの運転手もそうだが、彼女もまた英語は通じそうになかった。夜明けまでスペイン語の簡単な会話帳を眺めて時間を潰した。その間、目の前の広い道路を、車の一台も通らなかったように思う。あたりが白み、日の出があった。朝日は疲れを癒した。荷物をまとめ、商品棚から水のボトルを一本レジに持っていった。「太陽が出ました。わたしはもう行くね、ありがとう」そのような意味のスペイン語を、会話帳で覚えた単語を組み合わせて彼女に言った。「お金は要らない、その水はわたしからあなたへ」と彼女は返した。コンビニを出てしばらく歩いた。方角は適当だった。記憶の中ではその道は朝焼けの中でただただ広く、道の両側には何もない土地が続き、少し遠くにビルの陰がうっすらと見えていた。散歩中らしい中年女性に声をかけた。この道を行けばバスのテルミナルに着けますか。問うと女性はハッとして、わたしの手を引いて車道の真ん中にずんずん進んで行った。彼女は手を挙げて一台のワゴン車を停めこの子をテルミナルへ、と運転手に言った。わたしは女性に礼を言い、ワゴンに乗り込んだ。
 車内には数名の人影が座っていた。射し込む朝日が鋭さを増して、向かいに座る学校の指定ジャージのような服を着た女の子の、薄暗い車内でもかろうじて相貌を確認できていた姿をやがて完全なシルエットに変えた。ワゴン車が停まるたびに車内の人影が厳かに移動し、新しい人影と交代していった。眠いわけではなかったが、静謐な空間に意識が浮かんでいた。絶対的他人。親しむ隙間などないのに安心感があった。ふと男性の声が耳に入ってきた。わたしに呼びかけていた。「あなたはここで降りるのではないですか?」小柄な男性が片頬に蜜色の光を受けながらこちらをまっすぐに見てそう言っていた。車窓の外を見るとすっかり賑々しくなった景色の向こうにTERMINALという文字が読めた。わたしはそこで、プエブラ州よりさらに南東に位置するオアハカへ向かうため、長距離バスチケットを買った。

 オアハカのソカロには絶えず木琴の音が流れていた印象がある。人出の多い陽気な街だった。木琴を奏でているのは麦わら帽子をかぶり浅黒い肌にポロシャツを着たいかにもメキシコ人然といった中年男性のグループだった。ソカロには他に多くの白人の観光客が休み、その間を布売りのこどもがうろうろとしていた。わたしはスケッチブックを腿の上に広げてその様子を眺めていた。当時はカメラを持っていなかったので、映像の記録手段は絵を描くことだった。絵を描いていれば道路に陣取っていても誰も文句を言わないし、人々が寄ってきて勝手にコミュニケーションが成り立つので便利だった。オアハカのソカロには描きたいものが見当たらなかった。宿に戻ろうと立ち上がりかけた時、ひとりの布売りの少女が近づいてくるのに気付いた。ノ・キエロ・パニョ、とわたしは言った。布は要らない。少女は首を横に振りわたしの隣に腰かけた。絵が見たい。彼女はそう言ってわたしのスケッチブックを指さした。そこに書き込んだスペイン語はせいぜい地名くらいしかなく、メモは英語か日本語でびっしりと書いていたので彼女が飽きるのではないかと心配になったが、少女はすべてのページにじっくりと目を通してからわたしに返した。次は何を書くの。問われたわたしは形式的にソカロを見渡してから少女の顔に視線を戻した。あなたを描く。それまで大人っぽい表情で澄ましていた少女の顔に照れ笑いが浮かんだ、と思うとすぐにそれを引き締めて、彼女はモデルとしての意志を見せた。わたしは少女を描いて彼女に見せた。絵を眺めている彼女に名前を訊ねると、彼女はわたしのペンを握った。ペンの持ち方を習ったばかりというような手つきで少女はその絵の横に文字を書き付けた。Bereniceと書いてあった。ポケットに飴が入っていたのを思い出してベレニスにその飴をあげた。飴を受け取ったベレニスは布地を詰め込んだ籠を持って立ち上がり、翻って、わたしにハイタッチをしていなくなった。小さな手のひらの感触が残った。

 十年と少し経った。わたしは黒いシャツを羽織った下に白く透けたブラレットを身につけ、お揃いのTバックと、太腿にリズ・シャルメルのレッグガーターをつけてイギの上に跨っていた。リズ・シャルメル、ひときわ上等なレースを使うフランスのランジェリーメーカーだ。
 イギはわたしの腰を掴んで前後にスライドさせるように揺らした。わたしの体と彼の体がこすれ合うようにして中の粘膜が刺激された。体ごと擦り合わせる形になるとわたしは殆どオートマティックに興奮する。泣き出す瞬間のような切羽詰まった声が出た。シャツを脱ごうとする手を止められた。「シャツはいい、そのまま…」彼から装いの希望を言われるのが初めてのことだったように思う。言う通りシャツを脱がずに騎乗位で腰を揺すっていると、腹をめがけて握りこぶしが飛んできた。腰の揺れに合わせて何度か殴られたが、殴打のたびに眉をしかめるのはわたしではなく彼のほうだった。いたそ…と呟く様子が可笑しい、殴っているのはまさに彼であるのに。
 わたしの周囲に、リズ・シャルメルのレッグガーターを身につけるようなことを挙げて、女に戻れて良かったなどと言う人がいないのは幸いだ。性は衣服のように被ったり剥がしたりすればいいのだと気づいてから、「女のように」装うことを愉快な遊びと思い始めた。対比される男としての存在がイギでなかったら、わたしはこの遊びに没頭することはできなかっただろう。会社で働くと多かれ少なかれ雄のロールを要求されることになるのでと前置きをして、髭を生やすことを「男装」と呼ぶような人だ。性に人格や生き方の本質を見出す人があってもいいが、たまたまそういう外装で生まれたとする感覚もまた存在していて、彼はそれを一切侵犯してこない。わたしもまた、自分が女のように装えば男である彼は喜ぶはずだし好いてくれるだろうなどとは思っていないし、意図せず構図として押し付けることにならないよう慎重を重ねていた。わたしの拘りはわたしの拘りとして完結させる。
 イギが体勢を松葉崩しのかたちに変えた。少し曲がった先端がわたしの臓器を内側からえぐる。穴が、とわたしは声を出した。揺さぶられるのでうまく喋れない。あな、穴が、開きそ、穴開いちゃう。イギの手がわたしの頭部を捉えて枕に押しつけた。良かったじゃん、穴が開いて。イギの声が近くからか遠くからかわからないが聞こえた。良くはない、赤ちゃんができなくなる。子宮癌検診ではいたって健康であるし形状にも問題は見られないと診断された。わたしの体は人を産むことができるらしい。不思議なことだ。鼻と口とを塞がれた。我慢できるでしょ、と声が落ちてきた。息ができないので彼の手を剥がそうとすると彼は少し苛ついた声でこらとかほらとか唸り、わたしの顔面を押さえていた手を首へ移して絞めあげた。深く眉を顰める顔が綺麗だ。わたしが記憶している加減よりも首を絞める力が強く、脳みそが熱膨張を起こすような感覚があった。彼がわたしを好きでないのなら、よくもこれだけ他人の生殺与奪に関わることができるものだ。俺がいくまで待って。苦しさから逃れようと彼の手に指をかけるわたしをイギが制する。苦しくてかなわないから希望に添えないのだが、最中にいろいろと言われることに昂って端的に言えば幸福だった。イギは間もなく射精した。彼の体が離れても、腹の底がじくじく発酵しているような感覚に手足をもぞもぞさせ、傍らに移動して横たわった彼に胸を触られながら、あ、ああ、あああー……と声を漏らし続けた。あてのない体を持て余して心細く、彼がそばを離れずにいてくれて良かった。そんなわたしに、彼は空気に声を載せるようにして「変態」と小さく言った。


ランジェリーが増えます