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プエブラ以降2


 ベレニスと別れた後、宿に戻り、中庭と呼ぶのかフロントと呼ぶのかガレージと呼ぶのか、宿泊客のスペースと宿の持ち主たちの住まうスペースとのちょうど間くらいの半屋外の空間(小机のようなフロントデスクもある)に佇んでいると、宿番の中でもひときわおっとりした女性がブスカンド・アルゴ?と話しかけてきた。何か探してたの? わたしは何も探してはいなかったが、無目的に立っていたのでは不気味だろうと思ってとっさにフリーダと答えた。宿で飼われている老いた雌犬の名前だ。彼女に導かれてフリーダを見つけ撫でていると、奥の厨房が垣間見え、誰かの手元で角切りにされた白っぽい半透明の食材が炒められるところだった。それは何と尋ねた。声が届く気はしなかったが、ノパレス、と回答が返ってきた。あとで調べるとウチワサボテンのことだった。
 同じ宿でケンジ君に出会った。旅先で見かける日本人には近づかない作法を通していたが、ケンジ君とは不思議と気が合い、彼がこれからチアパス州のサン・クリストバル・デ・ラス・カサスという山奥にある街に行こうとしていること、その街の教会で珍しいミサが行われることを聞き、ついて行くことにした。

 山中でライフルを持った軍人のような人たちに囲まれた記憶があるが前後関係はわからない。パスポートを見せてそこを通過しただけなのだと思う。山道を抜けてラス・カサスの街に到り、ケンジ君とわたしは近くを散策しているうち、延々と登った階段の先にある小高く開けた場所に出た。そこからはラス・カサスを囲む山並みが一望できた。とんびは日本でもメキシコでも同じ鳴き声で鳴く。ケンジ君は日本に戻ったら就職先の漬物会社で営業として働くのだという。麓に降りて教会へ向かった。
 教会の敷地に入ると物乞いの子どもたちが群がってきて、買っておいたパンが全部なくなった。質素な造りをした教会に入ると、薄暗い屋内は青臭い霞で充満していた。床に松の葉が敷き詰めてあるのだ。四方の壁に沿って並べられた卓の上には所狭しと蝋燭が立って燃えていた。空気が白みがかっているのは火があるからか、しかし煙よりは蒸気に近い感触があった。いくつかのグループが入れ替わり立ち替わりお祈りをして帰るのを見ていた。彼らは松葉をどかして小さなスペースを確保すると、壁際の蝋燭を持ってきて蝋を床に垂らしそこに蝋燭を立てて祈るのだ。ひと組の家族らしきグループがやってきて、そのうちの一人は真っ白な雄鶏を抱えていた。それはごくふつうに生きていたが、彼らはその雄鶏の足首を持って蝋燭の揺れる炎にかざしながらぐるぐると円を描き、小さく低い声で祈りの文句を唱えた。逆さにされた雄鶏がしきりに首をかくかくと動かした。ひとしきり祈ると、雄鶏の足首を持ったまま頭部を掴みきゅっとひねって殺してしまった。
 ケンジ君とはその教会を出たところで握手をして別れた。わたしは三日間ラス・カサスに滞在した後、ふと海が見たくなって沿岸の都市プエルト・エスコンディードを目指した。

 プエルト・エスコンディードに到着した午後、とある真っ白なカフェに綺麗な女主人がいた。下心で数時間そのカフェに留まった。追加注文した脳が痺れるほど甘いタルトを食べながら彼女が接客するところを見ていた。初老の恰幅のいい白人男が数人、馴染み客のような雰囲気で彼女のまわりに集まっていた。街には似たような白人男がたくさんいた。海沿いの街には比較的裕福で恰幅のいい旅行者が集まる。カフェの女主人のことは諦めて浜辺に向かった。砂の上に並ぶ真っ白なボートの間からまた恰幅のいい初老の白人男性が現れた。何か探しているのか。彼はわたしに話しかけた。宿を探しています、なるべく安く泊まれる所。わたしが訴え、白人男は即答した、この街に安い宿などないよ。わたしが渋い顔をしていると彼は続けた。一軒だけ思い当たるホテルがある。

 一泊200ペソ。これまでに泊まり歩いてきたユースホステルは一泊100〜150ペソだったので、沿岸部の宿泊相場がそれ以外の3、4倍と考えれば破格だった。部屋に荷物を置いて白い浜辺に出た。観光客は多くはなく、地元の漁師のような男たちがうろうろしていた。両手に大きなゼリーを吊るし持ったおじさんが歩いていて、よく見るとそれはまっぷたつに身を割られた小ぶりのエイだった。
 にわかに地元のおじさんたちが一か所に集まって行った。沖から戻ったボートを人力で浜にあげようとしているらしかった。もっと人出が欲しいという様子なのでわたしも何食わぬ顔で参加した。ウノ、ドス、トレス!の掛け声でボートを砂浜に押し上げる。周りのおじさんたちは日本人の、しかも小娘が混ざっているぞと面白がったが、わたしは黙々とボートを押した。無事にボートを浜にあげ、持ち主のおじさんがわたしに声をかけた。別のボートでまた沖に出るが乗ってみるか?と、おおよそそのようなことを言われた。わたしは適当にグラシアスとお礼を言ったが、沖に行きたくはなかった。この海にはエイが泳いでいるのかもしれない。エイは何となく苦手だった。ひらひら飛んだり泳いだりする大きなものが怖い。

 ホステルに戻りリビングダイニングでスケッチブックを広げ、壁にかけられたお面を描き写した。土着の悪魔か聖霊か、鬼か、何かわからない生き物の顔だった。北欧系のハンサムな男の子が通りかかってわたしの手もとを覗き込んだ。ワーオ…、ユアアンアーティスト。近くにいたスペイン人の女性、アメリカ人の女の子、イタリア人の男も会話に混ざってきた。みなここで出会った人同士らしかった。スペイン人の女性はソラ、アメリカ人の女の子はレベッカ、イタリア男はマッテオといった。北欧系のハンサムの名前はよく聞き取れなかった。北欧人の英語はたいてい聞き取れない。デンマーク人の赤毛の女の子の名前も忘れたし、ハワイ生まれのタトゥ男の名前は聞きそびれた。旅に疲れ始めていたわたしはそれまでのように単身で街を巡ることをやめ、彼らとホステルの中で料理をしたり音楽をかけたり浜辺を散歩して過ごすことに決めた。翌日の昼にはみんなでパスタを作った。いちばん大きなパスタ鍋をどこからか探し出してお湯を用意した。マッテオが沸かしたお湯の加減をレベッカが確認しようと蓋を取った。ンンン〜、ソーナイス、イタリアンボイルドウォーター。わたしは膝から力が抜けて床に転がるほど笑った。誰かがつられて笑う、ヘイシーイズダイイング。
 夜は近所のクラブに踊りに行った。ブラジャーをつけない、素肌に薄いTシャツを纏っただけの背中に誰かの手のひらが添えられた。振り向くとマッテオがいた。わたしをダンスでエスコートしたいらしかった。わたしは彼の意図をやんわりとかわして踊り続けた。一息ついたところで困惑顔のマッテオが話しかけてきた。君は男が嫌いなの、と。そういうわけじゃないと答えた。たとえばベレニスの小さな手の感触。人と人が一瞬通じたような感じ。そういうものは尊く愛おしく、場合によっては性愛に繋がることもあるだろう。北欧のハンサムがわたしと連れ立って歩いていた時に、打ち寄せる波で手を濡らして金髪のソフトモヒカンを整えた。スィーイズベストヘアスタイリング、イッツマイシークレットと言いながらAを潰したような発音でハハと笑った。それを美しい風景だと感じる心はある。男だからマッテオを避けたいわけじゃない。女のロールのほうがわたしから分離して、上手くくっつかなくなっている。マッテオはわたしのつたない英語に根気強く耳を傾けていた。
 プエルトエスコンディードの面々と別れ、デンマーク人の女の子とマッテオと三人でオアハカに戻り二日ほど過ごした。そろそろ帰りのフライトが迫っていた。オアハカのテルミナルまでマッテオが送ってくれた。本国のガールフレンドがどれだけ嫉妬深いかという話をしていた。女ってのは面倒なものだ、とマッテオは苦笑いして大袈裟に呟いた。彼はわたしを男同士の話題に引き入れることにしたようだった。それが彼なりの落とし所なのだろうと思った。いろいろな人間がいろいろな方法でわたしを取り扱おうとする。おのおのが互いに付き合いを工夫する。フレンドリーなハグをしてマッテオと別れ、わたしはメキシコを去った。

 耳が誰かの歌を捉えて目覚めた。部屋の中に人がいるのかと疑うほど近くから声は聞こえていた。カラオケの設備のある部屋があるのだろうか、一組の男女が律儀に一曲ずつ交代で歌っている。眠って起きたわたしには朝だが、彼らにとっては夜の延長で、残余の体力を使い切ってやろうというような威勢があった。ベッドを抜け出してコーヒーを淹れ、カップを持って布団に戻った。眠っていたイギがむにゃむにゃと声を発した。部屋に誰かいると言っているようだった。煙草もらっていい、と、彼を完全にはこちら側に連れ出さないような声量を保って尋ねると、目を閉じたままコクリと頷いた。わたしの声よりどこかから響いてくる歌声のほうが大きい。イギの耳に手のひらをあてて塞いでみた。彼が眠りに戻ると煙草を取って、一本をゆっくりと吸いながらコーヒーを口に含んだ。苦いばかりで味がしないので一口で飲むのをやめ、煙草の残りを吸った。布団に腰から下だけ入れてヘッドボードに寄りかかっていたわたしの太ももにイギが抱きついてきた。さっきのむにゃむにゃよりはいくらかはっきりした口調で「コーヒーは」と問われる。「冷めた」「もう歌わないの」彼の髪を撫でた。いつのまにか歌が止んでいた。「…あれはわたしじゃないよ」

 イギが起きたので、わたしは彼の体で遊び始めた。そこに新しい快楽の回路をつくる余地を探すのだが、怠惰なので、もっとも饒舌な末端器官をすぐにどうにかしたくなる。鞄から、サイズが合わなくて新品のまま取って置いたポール&ジョーのボクサーパンツを取り出した。嫌がるかもしれないと思いながらイギの足に通した。何履かせてんの、と彼は訝しがるが、拒まないのでそのまま最後まで履かせた。布の上から触るのが好きなので、と、問いとずらした回答をする。この布が何であるのか、どうせ興味を持たないでしょう。布ごしにそれを食んでみたかったのは本当だ。卸したてのコットンの香りを嗅ぎながら存分に膨らみをさすったり甘噛みしたりした。ふと窮屈ではないかしらと気になり始め、パンツを半分ずり下げた。続きをしているうちにローションが欲しくなり、彼の先端に垂らした。パンツをぐしょぐしょに濡らすのも趣があっていいと考えていたのに、股間をどうこうしているうちに彼が脚を開きたがって、いよいよパンツが邪魔に感じるので全部脱がせた。ぬるついた亀頭を手のひらで包むような形にしたまま上下にかぽかぽと揺するとイギの声が切なそうに大きくなった。回転をかけると声の上がり方が盛んになる気がした。ローションが完全に乾いてしまうと先端が痛みそうに思えたので、手のひらに引く糸がとろみをなくしてねっちりと肌がかすかに引っ張られるような感触になったらローションを追加するようにした。亀頭の刺激の他にも場所やこすり方や強さ速さを変えてみる。しごくのは右手だけで、乾いたままの左手でイギの腹や鼠蹊部や太ももを撫でた。彼のものがひときわ張り詰めると舐めたくなって、先っぽに口をつけるが潤滑剤の味が強くてあまり大胆には舐められない。諦めて口を離す。代わりに尻の谷間に指を忍ばせ穴を撫でた。くぼみを少しこねようとして、そのまま指を挿れてしまう。腹のコンディションを本人に確かめていないけれど、不快な顔をしないので中の指を動かして腸壁をこすった。あちこち刺激しているうちにイギが背をのけ反らせて震えた。悶える声は湿っぽくわたしの耳をじんじんさせた。しばらく続けるとやがて彼は自ら腰を振り始めた。先端に手を伸ばすので、その手を導いて自身でしごかせた。腰振りは激しくなり、喉からは声が漏れっぱなしだ。性感に喘ぐ姿は千切れる寸前の布みたいで、好きな景色だと思った。
 散々喚ばわっていたくせに、射精を告げる彼の声は低く絞り出すようだった。目を凝らしていたはずなのに精液が飛び出す瞬間は視界が滲んだ。イギの末端に添えたままのわたしの手もとに、気づけばゆるい体液があふれる。まだ精を吐いている先端に口をつけて吸った。冷やし固める前のギモーヴのような質感は、口の中で頬の裏側の肉や舌の輪郭と混ざりわたしと精液との境界を曖昧にした。甘いのか苦いのか、あるいは味がしないのかわからない。乳脂肪を思わせる風味、喉をくだる質感はねっとりと重たい。
 イギが息を吸ったり吐いたりして人心地をつけている間にタオルを濡らし、べとべとになった彼の股間を拭いた。ああ気持ちよかった自分だけ、と、呼吸を整え終えたらしい彼は笑いを含みながら言った。セックスをしていたつもりだったけれど、彼にとっては自慰を手伝われた感覚だろうか。
 テレビを点けて朝が始まる。眼鏡をかけたイギがわたしに改まっておはようございますと言い、わたしも同じ言葉を返した。
 身支度をするのに鏡を見ると、皮膚の薄い頬やまぶたなどに赤い細かな星が散らばっていた。首絞めの名残がそのように現れるのは初めてだった。加減しなさいよ…と呆れつつ、これはまた助平なそばかすだと思った。

ランジェリーが増えます