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7月18日の日記『茄子で死ねない』


 痛いと思い始めてようやく指を見たらトゲが刺さっていて、茄子だと思った。旬だからと調子に乗った茄子。抜こうとしても、もう皮膚の下に沈んでいてクソと思った。爪で肉を押して出そうとすると、往路をそのまま戻ればいいものを、少し角度をつけて新たにまわりの細胞を壊しているようでさらに痛い。だいたい茄子のトゲがそんなに丈夫なの、変じゃないのか。痛い。トゲの端が出てくる気配はないまま、ただ傷つけられた皮膚から組織液が出てきて粒になる。小さい頃、トゲが刺さって抜けなければ、トゲは血液に乗って心臓まで届き心臓に穴を開けると聞いて、自分は死ぬのだと思って悲しかった。今も悲しい。茄子のトゲで死ぬのは可哀想だから。
 悲しむ間にもソースは煮詰まるしお湯は沸くのでさめざめとした気分で料理を続けた。トマトソースに炒めた玉ねぎとニンジンと肉屋のハムと、油通しした茄子と茹でたパスタを合わせてナポリタンにする。牛蒡のポタージュも適当に仕上げた。


 パスタを頬張りつつ指の腹を見ると、トゲはすっかり深くに潜っていた。まわりの皮膚をやみくもに押してみる。トゲを抜くには穴の開いた硬貨を強く押し当てろと警視庁のウェブサイトにも書いてある。細胞がみりみりと潰れるような嫌な痛みを我慢するも癪だし、針で穴を広げるか皮膚を切開したほうが早そう、と、痛い想像で血の気が引く、食事に集中できない。トゲが悪い。悪い気持ちが集まって増える。
 茄子を噛むとオリーブ油の香りがした。油通しした茄子の中はほぼ油だから油通しをするなら香りの薄い菜種油でやるべきだ、と思ったところで、あれ、だけど、ラタトゥイユを作るときはオリーブ油でやるのにオリーブ臭くはならない。謎。得意な料理は何かと聞かれたら、ラタトゥイユと答えようと思う。理由はめちゃくちゃ美味しいのと、誰かに乞われてレシピをどれだけ仔細に教えても、わたしのラタトゥイユに近いものができたという報告を受けたことがないからだ。わたしのラタトゥイユ。夏場、きんきんに冷やして焼いた薄切りバゲットに載せて食べる。

 祈るように野菜を切ったりする。野菜の厚みが揃うのは几帳面だからではなく(わたしは本当に几帳面ではない)、祈りだからだ。

物が濡れた状態が嫌いで、浴室に物を多く置きたくないし、皿も鍋も洗いっぱなしにしないですっかり拭き上げて乾かしたい。茶道では、5月〜10月までの風炉(ふろ)の季節には客人に水を近づける意図で塗り物に露を打つというけど、お点前なら自分がぎょっとしないのかどうか、ちょっと興味がある
お点前とか作法とか儀式とかを丁寧にやる理由は丁寧さが善だからということではなくて、そういうのはぜんぶ祈りだから、と言っているお茶の先生が神楽坂かどこかにいるらしくて、良いなと思った

 暑い日に好きな男と過ごすなら、塗り物を敢えて濡らすかどうかはさておき、バルコニーに打ち水をするだろうな。そして団扇で煽ぐともなく煽いでゆるゆるとした風を送る。それらは確かに祈りで、そういう祈りが型の中に込められたものが作法なのだろうと思う。
 それで、伝わらなかった心はどこへ行くのかと思うことがあってそのたびに少し冷える。届かぬことで相手を恨むことはないけれど、発生した祈りが宙に残って床の近くに沈殿しやしないか。わたしはあーあと思うだけでも、祈りのほうは自分が死んだことにも気づかずに幽霊のように漂うのかと思えば悲しい。
 そういえば茄子のトゲが刺さって死ぬのは情けなくて可哀想なのではなく、心臓に小さな穴が開いて死ぬのはきっとすごく苦しいから嫌だ。


 死ぬことと言えば、以前、何となく、自分が存在してる感じがどうしても気持ち悪くて許せなかった時があって、けれども自分を愛したくないから自殺はできないと思っていた。自分であれ他人であれ、その生死に関わろうとすることは大きな愛だ。その裏返しの憎でもこのさい変わらない。時が経って、貴方が貴方を甘やかす方法として死があるならそれでもいいよと自分に言えるようになった。わたしがそうだからとて人に当てはめることはできないけれど、ただ、死という選択がせめてその人にとっての救済であったら、自身への甘やかしであったら良い。キンキーブーツの舞台は文字通りもう決して観ることはできない。観ればよかった。安らかに。


ランジェリーが増えます