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映画『ウルフウォーカー』レビュー

【絵本のような絵を動かしてしっかりだなんて】

 『ブレンダとケルズの秘密』も『ソング・オブ・ザ・シー 海の歌』も『ブレッドウィナー』も、カートゥーン・サルーンが手がけた作品は、アカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされながらも受賞には至らなかったところに、ヨーロッパのアニメーションと、アメリカ的でディズニー的でピクサー的なアニメーションとの壁が、やはり存在していているのかもしれない。

 もっとも、それらのどれとも違うアニメーションアニメを長く見てきながら、それらのどちらも見られる環境に育った日本の観客の目には、どちらも素晴らしくて面白いアニメーションに映る。その意味で、日本というに生まれ育ったことを喜ばしく思ったりしながら、ヒューマントラスト有楽町で吹替版の『ウルフウォーカー』を見た。

 1650年だから日本だと江戸時代の慶安3年、由井正雪の乱が起こる1年前にあたる時代のアイルランドは、歴史の上ではクロムウェルによる侵略の途上にあったはず。映画でもイングランドからアイルランドへとやって来た護国卿が統治する街があって、そこを拠点に近隣の開拓が進められ、森の木の伐採も進んでいた。

 そこに現れたのが狼たちの一群。襲われ追い返される木こりたちの中に傷を負ったものも出たが、群れの奥から現れた少女とそして母親らしい女性によって傷がふさがれ癒やされた。彼女たちはウルフウォーカー。狼たちと共に暮らし狼の言葉を介して自ら狼にもなったりするという、伝説の存在だった。

 もっとも、ウルフウォーカーを信じるアイルランドに旧来から住む人たちとは違って、イングランドから来た護国卿は王命に従い森を開いて農地を作り収穫を増やそうとしていた。ついてきたハンターのビルも狼を狩って護国卿につくそうとしていて、ビルの娘のロビンもそんな父親に憧れていて、子供ながらも森へと出かけていっては狼を狩ろうとしいた。

 そこに現れた本物の狼におびえて逃げ回っていたところを、罠にかかってつり下げられてしまう。そこを襲おうとしたのか助けようとしたのか、いじりはじめた狼が誤ってロビンを噛んでしまったことで不思議な自体が起こり、森に暮らすウルフウォーカーのメーヴとロビンとの交流が始まる。一方で護国卿は、狼を排除し森を広げようと意欲を見せ、ビルにも命令を下す中で人間と狼の対立が深まっていく。そして一気呵成に森を焼き払おうと率いて森へと向かった護国卿の前に狼たちが立ちふさがる。

 そんな展開の中で、最初は狼を怖がっていたロビンがメーヴと知り合い、狼への理解を深めつつ、自分のことを信じてくれない父親との間に距離もできてしまう。異文化との交流の難しさや、世代間の断絶などを感じさせつつ、親子の愛なり仲間への場といったものを感じさせる。

 その結末は、メーヴたちウルフウォーカーにとってはひとまず良好なものだった気もするが、人間としての利益を求めた信心深い護国卿の側からみると、ちょっとかわいそうな展開だった気がしないでもない。彼は彼で国王に従い神に祈り己の信念を通していたに過ぎない訳だから。あの時代のあの立場で森や自然に畏怖を覚え、開拓を断念することはあり得ない。

 それは宮崎駿監督の『もののけ姫』に登場するエボシ御前といっしょの立場。彼女も森を開こうとして獣たちと争っていた。もっとも、エボシ御前のように女たちに立場を与えてタタラ場を仕切らせ、病人や老人といった弱者を救済しつつ朝廷とも決してなれ合わないような態度を見せ、集団としての独立性を保とうとしていたところに好感も湧いた。護国卿がもう少し人間への優しさを見せていたら……。そこが海外と日本のアニメが描く"悪役”の差なのだろう。

 だったらロビンはアシタカで、メーヴがサンかというとそこは自分の居場所を森とタタラ場の間に置いたアシタカとは違って、ロビンは向こう側に大きく惹かれている感じ。母親を失い父親と2人、遠いアイルランドで暮らす寂しさを埋めるには仲間が必要だったのかもしれない。

 その選択もまた一時の幸福ではあるものの、いずれ人間は自然を御して狼たちをさらに奥へと追いやっていく。そうした歴史の必然への視点も感じさせつつ、今の時代にだったらどうすべきなのかを問うようなメッセージを込めても良かったかもしれない。それもまた『もののけ姫』的過ぎるか。

 『ブレンダとケルズの秘密』以降、手がけるアニメーションでカートゥーン・サルーンは絵本のような絵柄のキャラクターを本当によくうごかす。デフォルメされていながらも仕草や表情や仕草がしっかりとわかり、キャラクターの感情が伝わってく。アクションになれば狼は狼として、人間は人間としての動きの中で走り回ったり戦ったりする。

 観察によってエッセンスを抽出しつつ、設定上のキャラクターに重ねるアニメーターの腕前は、果たして日本のアニメーターでも同等の、同種のものを示せるのだろうか。そこに少し不安も浮かぶ。昔だったら多彩な絵でもちゃんと動いていた『まんが日本昔ばなし』のようなアニメーションがあって、そこでクリエイターがそれぞれに独自の絵を空を動かそうと挑んでいた。

 今は、そういった機会はインディペンデントの短編アニメーションくらいしかなさそう。そうした作品を長編として動かしてのけては、アカデミー賞にノミネートさせるカートゥーン・サルーンの技術力やストーリー構築力を日本はどう受け止めるべきか。悩むところだ。(タニグチリウイチ)

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