映画『センコロール コネクト』レビュー

【黒ニーハイ眼鏡少女に引っ張られて見て行けるけど世界はまだ見えない】

 黒のニーハイから絶対領域が少しだけのぞく肢体で、なおかつ眼鏡の強気な女子が出ていて『センコロール2』が駄作であるはずがないという決めつけをして良いかというとそれは良いのだけれど、そうした目にも嬉しいキャラクターでもってしっかり引っ張っていってくれたからこそ、『センコロール2』の良く分からないけれどもきっと何かが起こっているだろうといった展開を、飽きず意識を向け続けていられたのかもしれない。

 つまりは説明がない。餅というかぬいぐるみというか、のぽぽんとした生物たちを使役する少年たちがいて戦っているのか争っているのか。テツという名の主人公らしい少年が使役している生物はセンコという名で何にでも形を変えられるようで、学校で自転車になっていたところをユキという同じ学校に通う少女に見つかって正体が露見する。

 車にも変形できたセンコとテツにユキがくっついていたところで、シュウという名のやっぱり巨大生物を1つならず2つも操る少年と遭遇して戦ったりしていた最中、ユキがセンコを操る力を得てしまったりして戦いはテツの勝利に終わって、シュウは透明になれる4本脚のものではない、大きな生物を失ってしまう、というのが1作目となる『センコロール』のだいたいのストーリー。

 そこには説明がない。どうしで戦うのか。2人はいったい何者なのか。そうしたストーリーだとか設定といった部分はビジュアルから醸し出される雰囲気だとか、ストーリーの上で仄めかされる展開から想像をして埋めるしかない。あとは、とにかくくねくねと動いて膨らんだり変形したりする巨大生物の動きの凄さ、アクションの激しさ、キャラクターの愛らしさ、背景の確かさといったものに目を向けて、これを宇木敦哉監督がひとりで描いたのか凄いなあ、といった感心をするのが、ひとりで作るアニメーションが賑わっていた時代においての『センコロール』のひとつの見方だった。

 ひとりで制作するアニメーションが並ぶ中でも突出した絵のうまさがあり、動きの凄さがあってキャラクターの可愛さも乗り、音楽の良さもあって『センコロール』はおおいに話題になった。宇木敦哉監督のキャラクターデザインのセンスは認められてあちこちに起用されるようになったけれど、『センコロール』という世界観はしばらく掘って置かれてひとつのビジュアルを、アクションを、ストーリーを、テクニックを見せるショウケース的位置づけに置かれていた。1作だけならそれでも良かったのかもしれない。

 『センコロール2』が作られ、『センコロール』と合わせて『センコロール コネクト』として同時上映されて事情は変わった。動きが凄いとか絵が素晴らしいとか音楽が格好良いといったことだけで、より長いストーリーを見てもらえるものではない。だからこその黒のニーハイの眼鏡女子だ。冒頭から登場するその存在に目を引かれ、カナメという名の少女がどんなアクションをとり、表情を見せボディラインを示し、水着にもなったりしながら動き回ってくれるか、気絶してくれるのかを見守ることで最後まで関心を維持することができた。

 というのは半分は冗談だけれど、半分は本気だ。『センコロール2』になっても説明は乏しく、巨大生物がなぜ存在してどうして少年や少女たちは操っていられるのか、それで何をしようとしているのかは明かされない。ただ、巨大生物が出てくれば、自衛隊などが動いて攻撃するくらいの社会との接続はある。ユキの同級生も巨大生物が暴れたことを知っているから、仮想世界で起こっている訳ではなさそうだ。

 そうした社会との関わりを、それでもまだまだ希薄にしているところに、世界を構築して物語を組み上げる作品というよりは、条件のある設定の中でキャラクターどうしの関係とか、動きのユニークさとかアクションの凄さとか、花澤香菜や高森奈津美の声だとかを喜ぶ映像作品、といった位置づけから大きく脱してはいない気がした。それで良いんだけれどね。楽しいから。

 ただ、同時期にいろいろとあった吉浦康裕監督の『イヴの時間』はアンドロイドと社会の関係に触れていたし、アオキタクト監督『アジールセッション』にも若者たちのエネルギーの発露といった核があった。『センコロール』はその意味ではやはり特殊な作品と言えそうで、それが大きく進化をせず、キャラの良さと絵の巧さとアクションの凄さと動きの素晴らしさでもって観客を引き寄せてしまうところにこの国の、アニメーションというものが持つ多様性めいたものが感じられる。

 とはいえやはり2作も続けばいよいよ社会性といったものも生まれてこざるを得ないだろう。新しいキャラクターも示され、カナメによってじいさんといった権力中枢にも触れられ、社会の中でセンコほか巨大生物たちが何をもって存在し得ているのかが語られなくては話が持たなくなって来た。その意味で続編に期待がかかる。

 設定が語られ社会性も盛り込まれた『センコロール3』が作られることで、まだ顔見せだった1作目と2作目も含めて物語の様相を帯びるようになり、合わせて1本の映画となって屹立する。そう思いつつたとえそうならなくでも、黒ニーハイのカナメが出てきてくれさえすればそれでOKとやはり思うのかもしれない。それもまた多様化するアニメーションをパターンによってこれはこういうものだと理解し受け入れる訓練が受け手に施された、日本らしい作品なのだから。(タニグチリウイチ)

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