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【競馬】ウマ娘だけじゃ学べない!昭和前期の名馬たち

こんにちは。
前回「花の47年組」とタイテエムについての解説記事と感謝の文言をTwitterに上げたところ、メイタイファームご本人(人?)さんからご反応を頂けてホクホクしているマツウラです。


私、普段は「ウマ娘で学ぶ競馬史」というシリーズを執筆しておりまして、それを書くにあたって、名馬の歴史は自分なりにそこそこ履修した気でいました。
そしたらタイテエムのウマ娘化依頼ツイートが流れてきて、名前こそ知ってても履修範囲外だった馬だったので「どんな馬だっけ…」と調べてみたら、想像以上にドラマのある馬と世代だったという…

将来的には記事として取り上げてた世代だったとは思うんですが、あのツイートが無かったらあそこまで入念に調べてなかったと思います。すっかりタイテエムファンです。改めて感謝。


ところで、前回の記事で紹介した内容。なんとかウマ娘とこじつけて書こうと思ったんですが、なかなか接点がありませんでした。
ウマ娘ファンの方がなんとなく知っている昔の名馬の数って限りがあります。

有名どころで言っても、レース名になっている「シンザン」や「セントライト」、登場人物のモデルになっている「トキノミノル」や「ノーザンテースト」くらいでしょうか。「シラオキ様」もかなり浸透していますね。


でもその馬がどんな馬だったかはみんな知らないんですよね。


……………おかしくない?


ということで、彼らの歴史を一緒に学んでいきましょう。競馬の知識あった方がウマ娘のシナリオは10000倍楽しめるので。(再)


とりあえず19世紀〜1963年までを顕彰馬を中心に超あっさり解説していくので、気になった箇所があった方は各自で他サイトさんや本屋さんや競馬博物館に出向いてください。そっちの方が正しい情報載ってます。

では参りましょう。

(※馬名にアンダーバーが付いてるのをタップすると生涯戦績が書いてるサイトに飛べるようになってます。知りたい方はぜひ)

〜20世紀初頭

競馬の発祥の地はイギリス🇬🇧。
凱旋門賞と並ぶ最高峰GIであり、ウマ娘でもエアシャカールとシリウスシンボリの夢女御用達コンビが出走したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスが開催される国でおなじみのイギリスです。

…あんまピンと来なかったと思うので付け加えると、Eclipse first, the rest nowhereのEclipseはイギリスの競走馬です。


イギリスから競馬文化が世界に伝わり、日本に届いたのは1860年代。イギリスの植民地だった香港🇭🇰の方が15年くらい古い歴史があります。

当時の日本はもちろんアメリカ🇺🇸と外交していたため、アメリカ人の居留地で、オーストラリア🇦🇺やアメリカの馬を持ってきて競馬をしていました。

この時代の名馬が、Twitterでちょっと話題になった「バタヴィア」。

(服装が完全にスペちゃんなのは置いといて)

そしてこの時に横浜に建てられたのが根岸競馬場。ダートGIII根岸ステークスの命名元です。ウマ娘だとハルウララの目標レースになってたはず。

居留地での競馬開催が数十年続き、その形態での末期に走ってた名馬で「ミラ」という牝馬がいます。
この馬の牝系はまだ繋がっているんですが、その話はまたの機会に。(話すと長くなる)



1900年を過ぎたあたりから国内に戦争の色が強くなり、「戦争で使える強い馬を作りたいから馬券の販売も黙認する」みたいな流れができ、日本国民に少しずつ競馬が知れ渡りはじめます。

その流れでアメリカなどから優秀な牝馬が輸入されてきます。この中にいた「星旗」という馬がゴルシの母の母の母の…(以下略)母です。

そしてなんやかんやあって1932年に日本ダービーが始まり、1936年に「日本競馬会」が発足。

正確な資料や映像が残ってるのはこのあたりからです。第一回日本ダービーの映像はYouTubeに上がってます。すごいですよね。

このあたりまででも名馬は数多く生まれていますが(ナスノ、アストラル、カブトヤマなど)全部取り上げると3回くらいに分けないといけなくなるので割愛。


1930年代〜戦後

1939年になると、主要レースもある程度出揃いました。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークスの5大クラシックと、春秋の天皇賞。
もっとも、当時はそんな分かりやすい名称じゃなく「横浜農林省賞典四歳呼馬」とか「中山四歳牝馬特別」とか「帝室御賞典」とかだったんですけど。


そしてこの年の東京優駿(日本ダービー)勝ち馬が、最古のJRA顕彰馬です。

栗毛の貴公子

クモハタ

JRA顕彰馬

栗毛・牡馬
1939年クラシック世代

父 トウルヌソル 母 星旗 半姉 クレオパトラトマス

21戦9勝

主な戦績 日本ダービー1着、天皇賞(秋)2着

1952〜57年日本リーディングサイアー
主な産駒(子供)
クインナルビー、メイヂヒカリ、ヤシマドオター、キヨフジ、ニューフォード他多数
母の父としての主な産駒
オンスロート、マーチス、タカオー他


何を書いてるのか意味不明だと思うので解説します。
顕彰馬というのは、日本の競馬の発展に多大なる影響を及ぼした馬のことで、分かりやすく言うと「殿堂入り」です。で、最古の殿堂入りホースがクモハタ。

でも、戦績だけで言えばただのダービー馬
ウイニングチケットとかと似たようなものです。
あんまりピンと来ませんよね。
顕彰に値したのは、引退後の功績だったのです。


優秀な競走馬には、その馬の血を後世に繋ぎ、より強い馬を輩出する「繁殖」の義務があります。
オス馬は種牡馬、メス馬は繁殖牝馬として繁殖入りし、現在では人気種牡馬は1シーズンで200頭以上の繁殖牝馬に種付けします。(2022シーズンだとルヴァンスレーヴが該当)
それでも生まれた馬が全然走らなかったりすると用無しになります。世知辛い。


恐らくこの時期の日本競馬は海外血統が全てで、日本産の種牡馬からいい馬が生まれるなんて認識はほぼ無かったと思うんですが、クモハタが常識を変えます。

クモハタは種牡馬入りすると、GI級競走勝ち馬を14頭輩出(障害競走を含む)、天皇賞馬を7頭も輩出するという快挙を成し遂げたのです。
だいたいのウマ娘の父であり米国二冠馬のサンデーサイレンスですら天皇賞馬は8頭しか出せてないんで、いかに驚異的だったかがわかります。


こう書いてもあんまりありがたみが湧かないんでウマ娘や昨年の競馬と絡めると、昨年BCディスタフを制覇した世紀のヒロイン・マルシュロレーヌや、漫画『ウマ娘 シンデレラグレイ』がアツい我らのオグリキャップは、クモハタの代表産駒であり牝馬ながら天皇賞を制覇した名馬クインナルビーの直系子孫です。

つまり、クモハタがいなければシンデレラグレイの連載も日本馬のアメリカダートGI制覇も無かったし、第2次競馬ブームも起きてなかったし、最悪の場合ウマ娘も作られてなかったかもしれないということです。

さらに加えて言うと、クモハタの姉クレオパトラトマスは繁殖名を月城といい、これはゴルシの母の母の…(以下略)母。クモハタが活躍していなければどこかで血が途絶えていたかもしれないし、ゴルシがいなければ今のウマ娘はない。
ウマ娘を育てたのはクモハタなんです。
足向けて寝れねえな。


そんなクモハタの栄誉を称え、「クモハタ記念」という重賞が作られたのですが、ジャパンカップの創設とか色々な波に流され、1980年を最後に中止となりました。最古の顕彰馬なのに…



クモハタ様のありがたみは相当伝わったと思うので、次の顕彰馬の解説へ移ります。

初代三冠馬

セントライト

JRA顕彰馬

黒鹿毛・牡馬
1941クラシック世代

父 ダイオライト 母 フリッパンシー 半弟 トサミドリ

12戦9勝[9-2-1-0]

主な勝ち鞍(勝利レース)
クラシック三冠、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(重賞)

主な産駒 オーエンス、セントオー
母父としての主な産駒 トキノキロク


三冠路線が整って2年。初の三冠馬が現れました。
セントライトの父ダイオライトはダイオライト記念(地方GII)の由来にもなっています。種牡馬として優秀な成績を残したためですね。
(ダイオライト記念はウマ娘には出てきませんが、ウ○ポやダ○スタをやってるとよく使うレースです)

詳しくはJRA公式制作のこの動画(上げてる方は有志)を見て頂きたいです。

ダービーで8馬身差は今では考えられないこと。当時はいい馬とそうでない馬の力量差が大きかったんですね。


だいたいのGI馬や三冠馬って体重は440〜80kgくらいの引き締まった馬体なのですが、セントライトは500kg超えの雄大な馬体だったそう。

黒鹿毛で500kg超えの名馬ということで、菊花賞のキタサンブラックを想像してもらうとイメージが付きやすいかもですね。あの感じだと思います。

種牡馬として成功しきれなかったのは、戦争の影響。
戦時中の馬主さんの死や、戦後に繋養されている牧場の廃業などがあったらしく、不運な面もありました。
それでも現代まで語り継がれている名馬です。

(ちなみにスイープトウショウの牝系をすんごい遡るとセントライトに行き着きます。
スイープからセントライトの血が受け継がれてってほしいんですが、スイープちゃんの子は全然走らないので孫世代が頑張ってくれないと終わりです。頑張れ)


セントライトが菊花賞のちょっと前に勝った重賞「横浜農林省賞典四・五歳呼馬」は、1943年、横浜(根岸)競馬場の廃止に伴い、姿を消しました。最後の年は中山で代替開催でした。

そこから4年後、1947年に生まれた重賞が後の菊花賞トライアル、セントライト記念(GII)。
直接的な関わりは無いにしても、セントライト記念があることで無くなった横浜競馬場のことを思い出して欲しい、みたいな思いがあったんじゃないでしょうか。



時は流れ1943年。
戦禍の中、とんでもない記録を残した馬がいました。

変則三冠牝馬

クリフジ

JRA顕彰馬

栗毛・牝馬
1943年クラシック世代

父 トウルヌソル 母 賢藤
全兄 ハッピーマイト(初代天皇賞馬)

11戦無敗(日本記録)

主な勝ち鞍
ダービー、オークス、菊花賞、横浜記念(春)

主な産駒
ヤマイチ(二冠牝馬、菊花賞3着)

よく「生まれた時代を間違った馬」として挙げられるのはマルゼンスキーですが、もう一頭挙げるなら間違いなくこの馬。

牝馬らしからぬ馬体の大きさと、その走りの速さから「史上最強牝馬」と呼ばれる事も多い馬です。


デビュー2戦目でその年の桜花賞馬に大差勝ちして1番人気でダービーへ。出遅れて6馬身差レコード勝ち
オークスで桜花賞馬と再戦し10馬身差レコード勝ち
古馬混合戦で2回連続10馬身差勝ち
菊花賞で大差勝ち
無敗のまま引退。
非の打ち所がありません。


戦争で優秀な牡馬が戦地に駆り出されてたとか色々と反論はできますが、ダービーのレコードを1.5秒も縮めてる時点でもうね。

さらに評価に拍車をかけているのが、クリフジ以降半世紀以上に渡って、牝馬のダービー馬が生まれなかったこと。

ウオッカのダービーで「64年振りの夢叶う!!」という実況がありますが、その64年前がこの馬です。


そして、当たり前ですがクリフジ以降菊花賞を大差勝ちした馬はいません。いたら約80年振りの夢が叶います。
あまり知られてませんが、もっと評価されるべき怪物だと思います。



戦時中の名馬

戦時中の馬は映像資料が残ってない上に色々と“重い”ため、サクッといきます。

まずはカイソウ
1944年にダービー馬になったのですが、44年の競馬はギャンブルとしてではなく、戦争に使える馬を見極めていたため、馬券の販売も観客もおらず、軍の関係者がゴール板前で見ているだけでした。

菊花賞に至っては「長距離特殊競走」といういかにもな名前で開催され、彼はここも1位で入線。
しかし、昨年から仕様が変わっていた(コースを外回り2週だったのが今年は外回り→内回りに変更されていた)ことがうまく伝達されておらず、コースを間違えて全馬失格という悲しい展開に。


しかも母方の血にサラブレッドでない血が混ざっていたため、種牡馬入りすることすら叶わず。
最後は名古屋の陸軍将校に愛用された挙句、名古屋空襲で亡くなったという噂があります。

実は生きていて戦後の闇市で荷車を引いていたという噂もありますが、詳細は不明。いずれにせよ、ダービー馬らしからぬ悲しき最期だったことに違いありません。



そしてトキツカゼ

彼女は顕彰馬で、1946年に牝馬ながら皐月賞を制覇し、ダービーでアタマ差2着、オークスで大差勝ちというすんごい成績を挙げたのですが、時代が時代のためレース映像が残っていません。

そもそも顕彰馬になった理由はレース成績じゃなく、年度代表馬を2頭輩出したから。ますます現役時代が気になります。



そしてそしてトサミドリ
三冠馬セントライトの半弟として1948年にデビューし、連戦連勝。49年皐月賞も制覇。ダービーまでは全連対(最低着順が2着)。
三冠を有力視されていた馬でしたが、ダービーに向けてめちゃくちゃに調教し、仕上げすぎてしまいます。

スタート直後から先行策で押し上げて行く最中、他馬に詰め寄られ思いっきり掛かり、逃げを打つ形に。
当然差し切られたのですが、他にも落馬事故が発生して2番人気がコース外に逃げてしまったり散々な展開で、1着になったのは19番人気のタチカゼ。大波乱でした。
(2着も12番人気の馬。これは後ほど紹介します)


その後トサミドリは菊花賞を無事制覇。二冠馬になりました。
兄の名を冠したセントライト記念や、当時はダートだった札幌記念などを勝ち、31戦21勝2着4回レコード勝ち10回という超優秀な成績で引退します。


種牡馬としても超優秀な成績を残します。
トサミドリが引退した頃はようやく種牡馬の国外輸入が再開した頃で、シンザンの父ヒンドスタンやマルゼンスキーのライバルヒシスピードの父ライジングフレームなどが猛威を振るっていましたが、その流れに負けず優秀な馬を出し続けました。

マイルから3200m、そしてダートまで。他の種牡馬より万能な種牡馬だったんですが、やっぱ時代は海外血統。そもそもの種付け数がライジングフレームにほぼダブルスコア付けられてました。

アーニングインデックス(全競走馬が稼いだ賞金とある種牡馬の産駒が稼いだ賞金の比率を数値化したやつ)は圧倒的にトサミドリの方が優秀だったんですが、当時はそういうのを意識してなかったからか、どうしても海外種牡馬に割を食われたトサミドリ。
それでも八大競走勝ち馬を8頭輩出。母の父としても活躍しました。


大波乱の日本ダービーに話を戻します。
トサミドリが沈んだ中、2着に飛び込んだ馬は、なんと牝馬でした。

その馬の名は…

偉大なる母

シラオキ

ゼッケン7番がシラオキ

栗毛・牝馬
1949クラシック世代

父 プリメロ 母 第弐スターカップ

48戦9勝[9-9-10-20]

主な戦績 日本ダービー2着、函館記念1着

主な産駒
コダマ、シンツバメ

主な牝系子孫
スペシャルウィーク ウオッカ マチカネフクキタル
シヨノロマン ヒデハヤテ テイエムドラゴン 
シスタートウショウ シーイズトウショウ
ヴェルテックス


お待たせしました。シラオキ様の登場です。
ウマ娘ファンには「マチカネフクキタルのご先祖さま」という情報しか伝わってないと思うので、ここから解像度を上げていきます。


戦後間もなくして生まれたシラオキ。
母は第二スターカップ。その血筋を4代辿るとフロリースカップという馬に辿り着きます。
フロリースカップは戦前に小岩井農場が輸入した日本馬を代表する「基礎牝馬」で、日本馬の在来血統の一部は、今なお母方の血にこの基礎牝馬たちの血が流れています。最近のGI馬でいうとレイパパレなんかがそうですね。


シラオキ自身は皐月賞5着、日本ダービー2着、オークス3着と、堅実な成績を挙げながらも勝ち切れず。
函館記念を制覇しましたが、この当時はオープン特別(現在でいうリステッド)競走。
強いけど重賞を勝てず…言うなればカレンブーケドールみたいな感じでターフを去りました。


しかしそこからが凄かったのがシラオキ様。
出産2頭目で二冠馬コダマ、3頭目で皐月賞馬シンツバメを産みます。自分が勝てなかったダービーを生きてる間に子世代で勝ちに行く強さ。

その後は伸び悩んだものの、5頭目のワカシラオキが繁殖牝馬として大成功。前回の「花の47年組」回にて紹介したヒデハヤテを産み、シラオキの血が重宝されるようになります。

シラオキがこの世を去っても、彼女の血を引く血統から重賞勝ち馬がコンスタントに登場し続けます。
中山大障害勝ち馬ダイカツストーム
桜花賞2着、オークス5着、エリ女2着とシラオキに似て勝ち切れなかったシヨノロマン。(ちなみに鞍上は武豊)

90〜00年代に入ると、海外種牡馬の血との相乗効果か、名馬が続々誕生します。
90年代の桜花賞を唯一1分33秒台で走り抜いた稀代の快速牝馬シスタートウショウ
凄い末脚でサイレンススズカを差し切ったマチカネフクキタル
今なお日本の血統図に大きな足跡を残しているスペシャルウィーク

そして…
クリフジから64年振り、シラオキから実に58年の時を越え無念を晴らした、今世紀最初の牝馬ダービー馬、ウオッカ

血のドラマがありすぎてもうね。
しかも勝ち方がシラオキの時のダービーと同じく大波乱。運命的な何かを感じます。


シラオキのドラマはまだ続いています。
ついこの間の地方GII名古屋グランプリで、横山武史騎手を鞍上に1着になったヴェルテックス。

彼も実はシラオキ牝系。シラオキ様の御加護を受けているのです。GII2勝桜花賞2着のシーイズトウショウの孫で、ちゃんと毛色もシラオキ様と同じ栗毛。
80年弱経っても消えない影響力。
ヴェルテックスはJpnI川崎記念でも3着になり、ダイオライト記念でも1番人気の予感。これからも活躍して欲しいですね。
そして、まだまだシラオキ系の重賞勝ち馬が現れることを心待ちにしております。


1950年代〜63年

先の大戦の傷跡も徐々に癒えてきた51年。
日本競馬躍進の旗を掲げたのは、無敵に最も近付いた馬でした。

幻の馬

トキノミノル

JRA顕彰馬

鹿毛・牡馬
1951クラシック世代

父 セフト 母 第二タイランツクヰーン

10戦無敗レコード勝ち7回

主な勝ち鞍 クラシック無敗二冠、朝日杯


お待たせしました(再)。史上最強馬の呼び声高いあのお方です。

トキノミノルという名前こそ登場しませんが、ウマ娘でも…出てきたり…出てこなかったりしますよね。
育成ストーリースキップしてたら夏間際に突然出てきて💁こんなことしてニコッと微笑むあの人…キタサンSSR出るまでは1人で環境を欲しいままにしてたあの人…育成のアドバイスが全く役に立たないあの人…レース行く前のあそこでやけに帽子を気にしてるあの人…たづ…たづたづしてきた…

たづなんとかさんがトキノミノルと言われているのには理由があります。まずはこちらをご覧下さい。

強すぎて気が狂う。

あらすじは動画で分かったと思うんで解説を加えていきます。
デビュー前はさほど期待されてなく、適当にパーフェクトと名付けられたその馬は、デビュー戦を日本レコードで勝利

ただ、馬主はパーフェクトを所有したことすら覚えておらず、調教師が電話で勝利報告すると「なんだそれは」と返したとか。マジでミリも覚えてなさそう。

しかし諸々を理解した馬主さんは数日後厩舎に訪れ、「君たちのおかげでダービーが取れるんだよ〜♪」とめちゃくちゃ上機嫌だったそう。

当時は2歳の内なら馬名の改名が可能だったため、馬主さんの冠名「トキノ」と、「今まで競馬に賭けてきたものが実るように」という期待から「ミノル」で「トキノミノル」と命名されました。(もちろん勝負服は緑です)


その後、ミノルは2戦目を勝利し、3戦目で大差レコード勝ち、4戦目で6馬身差レコード勝ち、5戦目で4馬身差レコード勝ちと、他馬ではなく歴代の名馬の走破タイムとの戦いを続け、迎えた朝日杯を4馬身差圧勝。馬名パーフェクトのままの方が良かったんじゃ…と思うくらい完璧なレースを見せていたのです。

しかし年明けるか明けないかくらいから膝の状態が徐々に徐々に怪しくなってきており、不安視されながらも年明け初戦をレコード勝ち。2戦目、初めての左回り東京競馬場も快勝し、本番へ挑みます。


皐月賞。「とんでもない馬がいる」ということはメディアでも報道されており、普段は競馬を見ない人まで競馬場に足を運びました。
朝日杯以降何度もミノルの2着になり続けているイッセイが2番人気、朝日杯4着、直前のレースで9馬身差レコード勝ちを収め前途洋々のミツハタが3番人気でスタート。

余裕の走りで突き放すも、イッセイ、ミツハタも懸命に追いすがります。
着差は2馬身差。2:03.0。芝2000m日本レコード皐月賞のレコードを6秒短縮する大激走。
イッセイは2馬身差、ミツハタはイッセイとハナ差でゴールしましたが、4着以下はそこから8馬身離れていたらしいです。3頭とも化け物すぎる。

しかし、激走の代償か、蹄が裂けてしまいます。
今でこそ蹄が炎症起こしてても経過見ながらレースに出せるだけの技術は確立しましたが(オークス以降のラヴズオンリーユーがそう)、この当時じゃかなり厳しかったはず。
それでも陣営はダービーへの出走を諦めませんでした。

なんとか体調も脚もギリギリ出せるくらいには持ち直したので、ダービーに出走。以降は上の動画の通りです。


馬主さんはダービーの賞金をつぎ込んで懸命の治療を施しましたが、結果はご覧の通り。
けれど、司法解剖から得られたデータは次世代の競走馬の治療に役立ちました。死は決して無駄ではありませんでした。

現実味のない走りを続け、夢のようなままで天に召されてしまった馬。
今なおその神話は語り継がれており、死を追悼して『幻の馬』という映画が制作され、東京競馬場にはトキノミノル像が、そしてGIII共同通信杯には「トキノミノル記念」という副題が付いています。
 (ちなみにイッセイも化け物で、32戦走って3着1回、6着1回、あとは全部1着か2着という驚異的な成績を残しましたが、あまり評価されるには至ってません)


ウマ娘のたづなんとかさんサポカのイベントでは、走ってタイキシャトルに追い付くシーンと、映画『幻のウマ娘』を見に行くシーン、医療器具が届かない状態を理事長に猛抗議するシーンが印象的ですね。
幻のウマ娘…幻の馬…



トキノミノルと同世代で、今なおレース名になっている競走馬がもう1頭います。
キヨフジ
彼女は地方競馬の川崎競馬場で育つと、南関東競馬において一度も掲示板(5着以内)を外すことのないまま中央へ移籍。分かりやすく言うとオグリキャップみたいな感じですね。

トキノミノル、セントライト、クモハタでおなじみの超名門、田中和一郎厩舎に入厩すると、移籍後のオープン戦をいきなり勝利。
桜花賞で初めての6着を経験するも、当時は秋開催だったオークスに向けて調教を重ねると、みるみる内に本格化。2番人気でオークスを迎え、勝利。
地方競馬出身の馬がオークスを勝利するのは、もちろん初めてのことでした。

以降キヨフジは川崎競馬に凱旋。JpnI川崎記念の元になったレースを勝つなど活躍を続けました。


その功績から、引退してすぐに「キヨフジ記念」と名の付いた牝馬限定重賞が創設。今日でも地方GII「エンプレス杯(キヨフジ記念)」としてその名を残しています。
2021年は中央ダート牝馬代表マルシュロレーヌと地方ダート牝馬代表サルサディオーネの壮絶なマッチレースとなりましたし、22年も名馬たちの競演でした。キヨフジのような名馬が未だにこのレースから生まれているのが感慨深いですね。



名牝世代

どう考えても文字数超過なので、ここから先は駆け足でいきます。
牝馬最強世代といえばウオダス世代、そしてグラン、クロノ、ラヴズ世代が記憶に新しいですが、今から70年前、1952世代も牝馬最強世代とされていました。

まずは史上初の二冠牝馬の座を手にしたスウヰイスー。当時は三冠目の秋華賞(ex.エリザベス女王杯a.k.a.ビクトリアカップ)が無かったため、ほぼ三冠みたいな感じです。
桜花賞(レコード勝ち)→安田賞(安田記念)→オークスを立て続けに制覇し、菊花賞でも半馬身差2着と善戦。翌年も安田賞を連覇して、さらに翌年は地方競馬に電撃移籍。無敵の強さを誇ったまま引退しました。
ちなみに、安田記念を3歳で制した馬はスウヰイスーとリアルインパクト(2011)のみ。どれだけの快挙がお分かり頂けるでしょうか。

ちなみに父はトキノミノルと同じセフト。名前の読みはすうぃーすーです。スウヰトスー(スウィートスー)にする予定が聞き間違いでこうなっちゃったそう。逆にいい味出てるかもですね。


お次はタカハタ。父がクモハタ様なんで高畑じゃなくて高旗だと思います。
牝馬ながら朝日杯を制覇し、こんなんクラシックはもらったやろ!と思いきや牝馬ながら皐月賞に出走。クビ差2着という超惜しい結果に。
それでもめげずにダービーへ行き、またしても同じ馬にクビ差2着。
その後は安田賞で3着、オークスで2着、カブトヤマ記念で2着、毎日王冠で2着…呪われてんのかってくらい重賞で勝てなくなります。(オープン戦では勝率8割くらいはあった)

翌年は天皇賞(春)を諦め、他の重賞を狙い撃ちしていく形にした途端に急に覚醒。ダイヤモンドステークス、目黒記念(春)、日経賞を制覇し、怒涛の7連勝で春シーズンを終えます。
そして天皇賞を見据えた秋シーズンが始まりますが、復帰初戦で不良馬場に出くわし、思いっきり調子を崩します。以降は目黒記念(秋)3着、天皇賞(秋)3着、毎日王冠3着、金杯(不良馬場)8着、東京杯(東京新聞杯)2着で引退です。
当時で880万稼いでいたので、今の価値に直すとGI未勝利で8〜9億稼いでた計算になるんじゃないでしょうか。女ナイスネイチャですね。


そしてレダ。デビューから7連勝を飾るも、重賞ではどうも勝ち切れず。桜花賞も惜しくも2着と敗れてしまいます。
最初に勝った重賞が天皇賞(春)。もうそれだけで化け物なのがご理解できるでしょうか。牝馬で天皇賞を勝った馬はそこそこいるものの、ほぼ全てが天皇賞(秋)。1984年以降の、2000mになった天皇賞(秋)がほとんどです。(プリティキャストは規格外です)
京都3200はスタミナ使うし、後半で位置取りを押し上げながらも最後の直線で持続力のある末脚を使える馬が勝つため、牝馬が勝つことはまずないのです。
レダは史上唯一天皇賞(春)を制した牝馬なのです。

最近になって阪神3200っていう京都の比じゃないハードコースで3着に食いこんだカレンブーケドールという化け物が現れましたが、彼女は令和のタカハタなので勝てませんでした。今後も牝馬の天皇賞(春)制覇は厳しいでしょう。ちっこくないメロディーレーンの妹が生まれたらワンチャン。

レダは天皇賞後も中京記念、京都記念(秋)を制しましたが、タカハタと一緒に出走した毎日王冠で転倒してしまい、予後不良。生きていれば子孫が今も走っていたに違いないので、悔やまれる死ですね。


そしてそしてクインナルビー
先程もお伝えしました通り、クモハタの子で、オグリキャップ、オグリローマン、キョウエイマーチ、マルシュロレーヌのGI馬4頭の先祖です。
サクラバクシンオー、チヨノオーなどの調教師だった境勝太郎さんが騎手を務め、牝馬ながらダービーと菊花賞で3着になり、年の瀬の鳴尾記念(秋)で重賞初制覇。才覚を現します。
翌年の天皇賞(春)で惜しくも2着。ちなみに1着はレダ。これが史上唯一の牝馬で天皇賞1着2着の瞬間でした。
その後鳴尾記念(春)でレダと再戦し無事勝利。日経賞ではタカハタに敗れるも、天皇賞(秋)に挑みます。
ここで1番人気のタカハタ相手に5馬身以上の差を付けてレコード勝ち。
無事天皇賞馬になり、その後も善戦。一度も5着以下になることなく引退。
そして2021年のBCフィリー&メアターフ、2022年のサウジカップに至ります。

人間でもそうですが、身体能力は基本的に母方の血の遺伝が大きいです。その点で、シラオキやクインナルビーの血はサラブレッドの結晶なのかもしれないですね。

この馬たちがみんな同年代でした。すごい。


53年も二冠馬ボストニアンが現れたり、ラスト一冠を奪取したハクリョウが春の天皇賞も制覇し、生涯全レース3着以内、複勝回収率100%というビワハヤヒデみたいな戦績で引退、第1回啓衆社賞(後のJRA賞)年度代表馬に選ばれたりと色々ありました。

そして54年。今後の馬産業界の根幹を揺るがす出来事が起こりました。渦中にいたのはこの馬。

褐色の弾丸列車

ダイナナホウシュウ

鹿毛・牡馬
1954クラシック世代

父 シーマー 母 白玲

29戦23勝[29-2-2-2]

主な勝ち鞍 二冠(皐月賞、菊花賞)、天皇賞(秋)

馬主は強い持ち馬にホウシュウ、ダイニホウシュウみたいな感じでナンバリング命名しており、それの7頭目だったのがダイナナくん。

推定380kgくらいとされた超小柄体型ながら二冠馬に輝き、古馬になっても京都記念(秋)、天皇賞(秋)、阪神大賞典と重賞を3勝。
重賞5勝GI級競走3勝。これは当時としては破格の成績で、間違いなく顕彰馬レベルです。しかし彼は選考で弾かれました。年度代表馬にすら選ばれていません。

何故か。「小柄すぎる馬体がサラブレッドとしての品格に欠ける」とされたからです。


年度代表馬に弾かれた理由は分かるんです。天皇賞に勝った馬の方が当時は格上ですし、戦後間もないから馬産の常識も変わっていない。軍馬になれないような華奢な馬体ではサラブレッド代表の資格はない、と考えるおじさんもいることでしょう。
しかし顕彰馬選考は1984年の出来事です。
理解に苦しみますよね。

一説では馬主が選考員に嫌われてたからという噂も。だからって馬に罪はないし、今からでも表彰して欲しいところです。

ただ、彼があまり評価されなかったおかげで「それおかしくない?」って風潮が広まり、後のシンザンやディープインパクト、オルフェーヴルなど、馬体が小さい名馬が正当に評価される下地も作ったとも言えます。


ダイナナは脚部不安に悩まされ、第1回中山グランプリ(後の有馬記念)をブービー負けで引退するのですが、そこで勝利した初代グランプリホースがこの馬。

日本刀の切れ味

メイヂヒカリ

JRA顕彰馬

牡馬・鹿毛
1955クラシック世代

父 クモハタ 母 シラハタ 母父 プリメロ

21戦16勝[16-2-1-2]

主な勝ち鞍 中山GP、天皇賞(春)、菊花賞、朝日杯


朝日杯を抜けばマンハッタンカフェとなんら変わらない勝ち鞍(それでもすごいけど)。しかし蓋を開けてみると、彼の「幻の三冠馬っぷり」がわかります。

デビューからスプリングSまで無敗6連勝だったんですが、ここで5着となった後、脚部に故障判明。競争能力を喪失しててもおかしくないくらいに重篤なやつだったらしく、懸命の治療に励みます。
本馬を管理していた藤本冨良調教師の人脈で知り合いの温泉に馬房を構え、3ヶ月間みっちり療養。当時は温泉治療なんてノウハウが全く無かったのですが、藤本師の好判断のおかげでメイヂヒカリの脚部は良化。
9月の復帰戦でレコード勝ちするくらいには調子を戻します。


相当すごい方だったんじゃ…と思い調べてみると顕彰調教師だった模様。次回紹介するヒカルタカイも藤本師が管理されています。
メイヂヒカリの温泉療養から数年後、馬のリハビリセンターに温泉が設置されるように。今でもデアリングタクトなどが温泉を使用しています。藤本師は間接的に数々の名馬を救ってきたんですね。この偉業だけで凄いのに、ダービー3勝、天皇賞4勝、クラシック全制覇しちゃってるみたいなのでとんでもないです。


話を馬に戻すと、メイヂヒカリはオールカマーで皐月賞馬、菊花賞でダービー馬を破り見事世代最強に。
有馬の元になった中山特別というレースで敗れてしまいますが、戦績を見た感じ、あまり中山が得意ではない馬だったっぽいので仕方ない感じもします。
負けてるレースが全て、中山か、故障か、60kg以上のハンデ(斤量)を背負ってます。

つまり他では無敵。年が明け1956年は天皇賞を勝利し、秋にはオールカマーへ。(当時は宝塚記念がなかったため)中山、重馬場、62kgという超ハードな環境でクビ差2着(1着とは4kg差)。

負けて強しの競馬を見せた後、オープン戦を勝利。中山グランプリの人気投票に12票差2位で選ばれ、単勝1.7倍の圧倒的1番人気に。

7.7倍2番人気のダイナナホウシュウはいつ故障してもおかしくないくらいボロボロの状況。投票1位、単勝3番人気の今年の菊花賞馬キタノオーとの頂上決戦になり…3馬身半突き放して勝利しました。

向かうところ敵無し。4歳で引退。
ダイナナと同時に引退したから余計にこっちの印象が強かったのかもしれないですね。



そんな中山グランプリで5着だった馬が、競馬史に残る偉業を打ち立てたのはまた別の話。

日本競馬を変えた国際派

ハクチカラ

JRA顕彰馬

牡馬・栗毛
1956クラシック世代

父 トビサクラ 母 昇城 母父 ダイオライト

日本・32戦20勝 海外・17戦1勝

主な勝ち鞍
🇺🇸ワシントンBH、ダービー、有馬記念、天皇賞(秋)


シンザン、ルドルフ、ディープインパクト。
歴史的記録を打ち立てた馬は数多くいれど、ここまで根幹から日本競馬を揺るがした馬はいないと思います。

これを読めばわかりやすいはず。

要するに、それ以前の日本競馬は乗馬みたいに尻を馬に乗せて動かしていたのが、保田騎手がモンキー乗りを学んだ事により今の騎乗スタイルに変わったということです。
これにより日本競馬のレベルが格段に上がります。

そしてハクチカラ自身も日本馬初の海外重賞制覇。当時のワシントンバースデーハンデキャップはGI級の大レースだったそうで、相当な快挙でした。

ちなみに、ハクチカラの次にアメリカで重賞を勝った日本馬は、2005年のシーザリオです。それだけ高い壁であり、簡単に挑戦できる舞台ではなかったということですね。



そして1957年。
ミスオンワードという馬が名伯楽武田文吾調教師に導かれ、8連勝で史上初の無敗牝馬二冠を達成します。

2020年にデアリングタクトが無敗牝馬三冠を達成しましたが、無敗で桜花賞とオークスを制覇したこと自体がミスオンワード以来の快挙だったそう。

そもそも無敗のままオークスを制した馬がクリフジ(1943)、ミツマサ(46)、そしてミスオンワード(57)、カワカミプリンセス(06)、ラヴズオンリーユー(19)、デアリングタクト(20)しかいないらしいです。

そう考えるとオークスと秋華賞で無敗二冠のカワカミプリンセスってすごかったんですね。



ミスオンワードはオンワード牧場で生まれました。
オンワードの馬主は有名オーナーブリーダーでした。メジロとかと似たような感じですね。

ミスオンワードと同時期に、幼名を「ニッポンイチ」と名付けるほど期待された馬がいました。
オンワードゼアとして走り始めたその馬は、クラシック期は散々だったものの、古馬になって急に本格化。いや、本格化とかいうレベルではなく、天皇賞(春)を鞭1つ入れず完勝するレベルの馬になってしまいました。まさに日本一。
もちろん有馬も勝利し、ハクチカラの後を追いアメリカへ。しかしここで故障し、思うような結果を出せず引退しました。

余りにも内国産種牡馬の需要がないため地方で走ったりもしましたが、後にオンワードガイを輩出。ガイはタイテエムの1つ上の世代で、朝日杯を勝ったものの、その後は中々勝てない名脇役に留まりました。
なんかサリオスと重なるな…



58世代はガーネットという牝馬が大活躍を見せました。
この馬はオープン戦では快勝、重賞になると全く勝てないという困った馬だったのですが、古馬になり長距離を使い出すと徐々に本格化。
4歳秋で天皇賞を制覇し、その勢いで不良馬場の有馬記念を4馬身突き放して勝利しました。
牝馬で秋古馬二冠馬です。

その血は今でも受け継がれていて、クラシック二冠&天皇賞春秋連覇のメイショウサムソンはこの馬の子孫です。



件の大波乱のダービーから数年。シラオキは繁殖入りしたのですが、不受胎と流産を繰り返し、53年に産んだ初仔以降、3年間産駒が産まれませんでした。

このままじゃいけないと牧場を移し、57年に種付けしたら普通に第2子が産まれました。
その馬がこちらです。

夢の超特急

コダマ

JRA顕彰馬

栗毛・牡馬
1961クラシック世代

父 ブッフラー 母 シラオキ

17戦12勝[12-2-1-2]

主な勝ち鞍
二冠(皐月、ダービー)、宝塚記念、阪神3歳S

主な産駒 ヒデコトブキ(桜花賞馬)


いきなり顕彰馬です。まさかの。

新幹線の種別「こだま」からその名が付けられたこの馬は、デビューから皐月賞までの最低着差が2馬身
常に他馬を置き去りにするスピードで、常に逃げ先行で競馬をして勝ちきっていきました。
そしてダービーもレコード勝ち。見事に無敗二冠馬になりました。

しかしダービーの仕上げの反動か、脚部にガタが来て以降は大崩れ。
なんとか4歳時は復調し、大阪杯と宝塚記念を勝利。二冠馬の意地を見せ付け引退しました。
そのスピードと身軽さは「カミソリの切れ味」と称され、競馬ファン以外からも人気を博しました。
競馬ブームの火付け役となったのがコダマでした。

この馬が人気になったからこそシラオキの血がこれほど強く現代に残っているのかもしれません。


武田文吾厩舎はミスオンワードと共に無敗二冠馬を2頭輩出。
そして64年。日本の競馬史上に永遠に残るあの名馬がようやくターフに名を刻むのですが、それはまた次回。


まとめ

以上が昭和前期の名馬でした。
書き出しから中盤までは1月に書いたものだったんで、バタヴィアのくだりとか伝わらなかったらどうしようと思いながら後半書いてました。

次回は昭和後期の名馬の予定です。もしかしたら昭和末期編もやるかも。

皐月賞までには出します。それでは。
(追記:出ました)

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