襟を正す
今年の小さな目標を決めた。
毎年、元旦にその年の目標を決めるのがうちの慣わしで、わたしは小学生の辺りからずっと「楽して楽しく生きる」を掲げ続けてきた。両親はいつも笑いながら(半ば呆れながら)それがわたしだと肯定してくれていた。変な子どもだと思われていることはわかっていたし、そう思われることは好きだった。
今になって改めて思い返すと、わたしは両親に自分の目標や本当の気持ちを言いたくなかったのだと思う。やると言ってできなかった時に咎められたり慰められたりするのは嫌だったし、それよりならドヤされながらのらりくらりして、最後に成果だけ上げて「あんたって子は…」と苦笑いされる方がずっといい。たぶんそんな風に考えていた。
新年初詣で、神様にだけは目標を伝える。これをできるようにするとか、どこそこに行くとか、何がしたいとか、そういう決意表明。
今年はというと(言い訳だけれど)公私共にバタバタして三が日には行けず、7日に参った。しかしその時もなんとなく“今じゃない”感じがして、目標を決められないでいた。世間の波に引っ張られて心が落ち着かなかったというのもきっとあった。(これも言い訳だけれど)
目標が定まったのは、勤務中だった。
いつも通りに子どもたちの午睡中に部屋の壁を消毒している時(今は病院内の保育室で働いている)、これだ、と気付いた。思ったというよりは、気付いたと言う方が適切な気がする。
・しゃがむ時に膝を揃えること
・正座の時に親指の腹を重ねること
これだ、これは今しなければいけないと思った。守らなくたって誰にも迷惑はかけないし、守ったところで誰かから感謝されることもない。でも、今の自分に足りないのはこれだと気付いた。
それから毎日、膝と足の親指に気持ちが向くようになった。面白いもので、ひとつ所作を気にすると連鎖のようにまたひとつふたつと気になってくる。縮こまる肩を後ろへ流したり、自転車を漕ぐ時に背筋を伸ばしたり、「はい」と「ありがとう」を伝わるように発したり。
大層な目標ではないし、こんな目標にしたよと他人に言うようなことでもない。所作のひとつが丁寧になったところでnoteが更新されるわけでもない…。
それでもこの小さな目標は、わたしの日常に細い針のように入り込んでわたしの襟を正してくれる。
あとはこれが、いつまで保つかなんだよね。
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