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あの子の背中、私の帽子


中学生の頃、とても気の合う友達と出会った。
ちょっとやんちゃでコミュ力が高くてかわいい子だった。
対して私は部活も生徒会もやっている優等生だったから、
「なんであの子と仲がいいの?」とよく聞かれた。

好きな音楽も、放課後の過ごし方も
全然違う私たちには共通点があった。
それは、自分に自信がなくて、
小さなことですぐに心が揺らぎ、傷ついてしまうところ。
タイプが違うのに分かり合える人がいると知ったのは、
彼女と出会ったからだ。

別々の高校に入ってからも、よく彼女の家に行った。
恋愛で深い傷を負った彼女が急に不安になって、
S O Sの電話をかけてくると、
自転車に乗って彼女の家に向かった。
そうして泣きじゃくる彼女をなだめて、
最後はゲラゲラ笑って。
もちろん、私の不安を彼女が癒してくれたことも
数えきれないほどあった。

高校を卒業後、夜の世界と昼の世界を
行き来していた彼女との友情は、
大人になってからも続いていた。
私が仕事でパワハラにあった時、
「今すぐ辞めなさい」と
言ってくれたのは彼女だった。

けれど、いつしか、
彼女とは道が分かれてしまった。
自分の力で社会の中に
居場所を作ろうともがく私と、
女は男に守ってもらうものだという彼女。

喧嘩別れをした覚えはないけれど、
出会った時は同じ道を歩いていた彼女と私は、
気づくと別々の道を歩き出していて、
その距離はどんどん遠くなっていた。
そして、会えなくなってしまった。

あの時、もう少し、
あの子の声が聞こえる距離を保っていれば、
また彼女に会えたのではないか。
何度もそう思った。
そう思いつつ、私はわかっていた。

彼女には彼女の人生があるように、
私には私の人生がある。
「誰かのために」という綺麗事を言って、
自分が歩くべき道を変えることは
できないということを。

人生の課題は人それぞれで、
他人から見ればネガティブなことも、
その人にとっては
経験すべきことなのかもしれない。
それでも時々、
彼女にもう会えない事実に、
やるせない気持ちになった。

そんな痛みにも慣れた頃、
あの子たちに出会った。
アイドル=異性の理想を体現する存在、
と勝手に思っていた私は、
アイドルなのにアイドルらしくない、
そして自分らしくあろうと
するかのような彼女たちに惹かれた。

中でも、ちょっとやんちゃで、コミュ力が高くて、
でも傷つきやすそうなあの子を推すようになった。

けれど、世間はやっぱり
アイドルに「理想」を求めるらしい。
アイドルの枠からはみ出てしまう行動で
叩かれているのがわかった。
それはどんどんひどくなっていき、
T Lに流れてくるひどい
アイコラを目にして心をえぐられた。

自分のことではないのに、
会ったこともないのに、
彼女が叩かれ、他の子まで批判されるたびに、
心がえぐられた。

私はきっと、かつての傷つきやすかった、
実際、傷ばかりのあの頃の私たちを
投影していたのだと思う。

私が青春を過ごした時代、
日本は今より大らかだったし、
誰かのプライバシーを一般人がこんなに
簡単に暴露できるような手段もなかった。

優等生タイプの私でさえ
馬鹿なことはたくさんしたし、
仲間とぶつかり合って言い合いもした。

同世代の友達と昔を振り返ると必ず、
「あの頃SNSがあったら、
私たちの人生詰んでたよね」
という結論になる。

一人ひとりが発信できる今の時代は、
昔よりずっといい時代だ。
その一方で誰かを簡単に貶め、傷つけ、
消えないしるしを
デジタルの世界に残すこともできる。

あまりにも強いスポットライトを浴びながら、
彼女(たち)がどんな状況の中、
何を抱え、どんな気持ちで過ごしていたか、
ファンにわかることなんてほとんどない。
きっとこれからもわからないだろう。

誰かが意図を持って流した情報をもとに
「自業自得だから」という言葉を盾に、
言葉の矢がビュンビュン飛ばされる。
その中で、何気なく生きていくには
相当な根性がいるような気がする。

けれど、新しい道を行くあの子は、
前より少し、呼吸しやすそうにも見えた。
その後もあの子は、
いろんな選択をしていった。

そのうち、私もあの子の動向を
追わなくなっていった。
そして最近また、あの子の動向を知った。

あの子を見ていると、
私の心にこんな風景が浮かぶ。

渓流に佇んでいると、
風がお気に入りの帽子を奪い去っていく。
帽子は川面に吸い寄せられ、
そしてあっという間に流されていく。
どうすることもできない私は、
ただ遠ざかっていくその姿を見送っている。

そして、こう願うのだ。

どうか、あの帽子が望む場所へ
辿り着けますように、と。



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