すきな小説

恋愛小説はあまり読まないけど、これらはすき。

忠誠!とトニオ・クレーガーは思った。僕は忠誠を貫きたい、そして君を愛したいんだ、インゲボルク、生きている限り!トニオにはそこまでの善意があった。それでも、心のなかでは、かすかな恐れと悲しみが、こうささやきかけるのだった。お前は毎日のように顔を合わせるハンス・ハンゼンのことだって、すっかり忘れてしまったではないか、と。そして、醜く惨めなことに、結局はこのかすかな、少しばかり悪意ある声の言うとおりになった。時は過ぎ、トニオ・クレーガーは、もはやかつてのように、朗らかなインゲのためなら死んでもいいとまで決然と言い切ることはできなくなったのだ。
(…)それでもトニオは、純粋で繊れのない愛の炎が燃えさかる生戦の祭壇の周りを足音を殺して歩き、その前にひざまずいて、あらゆる方法でその炎をかきたて、育んだ。忠誠を貫きたかったからだ。だが、いつの間にか気づかぬうちに、人目も引かず、音も立てずに、その炎は消えていたのだった。
それでもトニオ・クレーガーはしばらく、忠誠を貫くことがこの地上では不可能であることに大きな驚きと失望を感じながら、冷たくなった祭壇の前に立ち尽くしていた。それから肩をすくめると、己の道を行ったのだった。

トーマス・マン『トニオ・クレーガー』

僕も柿緒も、一生を思い出だけで過ごすには元気過ぎる。でも僕は、そういうことを知っていても、それでも誓う。僕の柿緒に対するこの時の愛情のために、僕は誓う。僕は僕に次にやってくる愛情を罪としてしまう。その時の僕をあらかじめ罰してしまう。僕は枯緒だけを愛して一生を終えるべきなのだ。本当に。絶対に。柿緒が最期に長い息を吐くとき、柿緒がその息を吐き終える前に、僕は自分の命を素早く絶って柿緒とともに逝くべきなのだ。それをせずに生き延びる僕は、しかし正しい。けれどもその正しさを罰する為に、僕はここで間違えて、誓う。僕を罰するために、正しい言葉を言う。本当に僕は柿緒と一緒に死ぬべきなのだ。正しさが並列に並び、それぞれが同時に間違いでもあるこのとき、僕はとにかくひたすら僕を罰することにする。
ああ、僕はこのとてつもなく大きな愛情にかられてもう既にたくさんの間違いを重ねてきたのだ。だからもう一つ、極めつけのバカをやったって構わない。僕は誓う。もう絶対に柿緒以外の女の子を、柿緒みたいに深く、強くは愛さない・・・・・・。

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』


愛が、たった1人だけを愛して終われないことに、誠実に絶望する人がすきだ。

小説と自分とどっちが大事なのかと柿緒は僕に何度か訊いたことがある(...)僕は「比べられないよ」と言うべきかとちょっと迷ったけれど、はっきり言った。「柿緒だよ。当たり前じゃん」
それが本当の本心だった。彼氏だからそう言ったんじゃない。同情してそう言ったんじゃない。愛情から言ったのですらない。
(...)小説のことも好きだ。ひょっとしたら小説と柿緒と、やっぱり本来は比べられないのかもしれない。でも僕は柿緒と何かを比べて迷いたくなんてなかったし「比べられない」とか言いたくなかったのだ。そしてそうしたくないというだけで、僕は小説よりも柿緒の方がずっと好きで大切で大事だと言う根拠に充分だったのだ。

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

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