忘却と弔い
恋人との別れは良くも悪くも劇的で忘れることができない、でも友人との別れはとても緩やかで気がついた時にはその輪郭を忘れてしまっている、だからよっぽど悲しいのだという話をした、いつかの夜中、午前3時。
「だから僕は、友人であり続けるための、忘れられないための努力をする」と彼は言った。
清い心だ、まっしろの心。
忘却はいつも緩やかにおこるし、すでにおきたのだし、いまもおきている。
寺山修司はいう、
「思い出さないで欲しいのです。 思い出されるためには忘れられなければならないのがいやなのです」 。
千種創一は、
「忘れるというのは、 ある人、物、 出来事があたかもなかったことになる/する行為で、それはとても不誠実な気がしてしまって、自分が不誠実な存在になること、そして自分が不誠実な存在であることを認識できない状態になることが、 僕は途轍もなく怖い」と語る。
わたしたちの人生には忘れてしまったことがたくさんある。忘れてしまったことにも気がつかない透明な記憶たち、友人たち、言葉たち。
時折、私がひどくさみしいのは、彼らの透明な復讐なのかもしれない。私の不誠実へのひそかな抗い。
そういった意味において、私のこの孤独も寂寞も彼らへの弔いをはらんでいる。
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