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看護学生のインタビューレポートから:白保の豊年祭

*写真は1987年7月26日の白保豊年祭(撮影:具志堅邦子)

石垣島白保の豊年祭の昔と今

語り手 女性 70代 石垣島出身 M氏 祖母

テーマ設定の理由 
私の両親が、石垣島出身ということもあり、私は小さい頃から毎年夏休みには石垣島へ行き、豊年祭を見ており、興味を持っていました。しかしその石垣島の白保の豊年祭について、あまり知識がなかったので、今回祖母に改めて聞いて知識を深めるとともに、昔の豊年祭と今の豊年祭の変化について知りたいと思い、このテーマを設定しました。

Q. 昔の豊年祭と今の豊年祭はどう違う?
A.戦後間も無くの白保の豊年祭は、もちろん今と同じように五穀豊穣の祈願はあった。しかし、今のように盛大には行われてはおらず、質素な祭りとしてあった。そこから今のような盛大なお祭りとなったのは、白保村出身で、政治家として沖縄で働いていたある方が白保に里帰りをしたときに、豊年祭のその部落の役員たちとお話をしたりして、豊年祭で稲の一生を表現しようと考案したりすることで、今の形の豊年祭となっている。

Q.稲の一生とはなに?
A.稲の一生っていうのは、そのままの意味で、稲って植えてからすぐできて、食べれるわけではくて、大変な労働が必要なわけさ。まず水を張ったり、水の中で土を掘り起こしたりして、空気を入れて、雑草を取ったりして、田んぼの整地をしなくちゃいけないさーね。そして整地をした後に稲を一つ一つ植えていくさ。それは今は機械で行われているところもあるけど、昔は全部手作業さーね。そして、土を掘り起こしたりするのは水牛を使った。その一連の流れや労働の重要さをかたちとして豊年祭で表現されているわけさ。だから、今の豊年祭では脱穀する道具とか水牛とかが出てくるでしょ。

Q.そもそも豊年祭は何をするの?
A.豊年祭は、これからの五穀豊穣を祈願するお祭りさ。今の豊年祭は最後に祭りをして喜びを分かち合うための祭りでしょ。でも、お祭りをする前に御嶽で3日間行われることがあって、芭蕉の葉っぱで包んだもちと、お米から作ったミキ、パパイヤと長命草、クワンソウを味噌であえたものをお供えし、お祈りをするわけさ。お米から作るミキには、いくつかの種類のミキを作るよ。

Q.お祈りでは何を祈るの?
A.収穫に対しての、豊穣のお礼のお祈りをするよー。その後に、また、今年もよろしくお願いしますというお祈りをするわけさ。

Q.その御嶽では仕切る人がいるの?
A.御嶽では、司という人が仕切るさ。

Q.今の豊年祭で出てくるヘリコプターはどう意味があるの?
A.あれもね、時代の流れで、結局は、穀物をネズミや虫などから守るための害虫駆除を表してるさ。昔のように、ねこなどに頼っては、多くの量の穀物を守ることができないから、害虫駆除を現代風にしたもので、実際にはヘリコプターを使って害虫駆除をしてはいないが、祭りをもり上げるためにやってるんだはずよ。

Q.おばあちゃんの豊年祭のイメージってどんな感じ?
A.戦後まもない頃の生活を知っているから、ただ祭りとしては楽しめない。その、祭りのおもさが身に染みて感じる。戦後まもない頃はお米もなくて、おいもが主食の生活だったの。その生活をしている人からしたらお米はとても贅沢な穀物で、作るのがとても大変だった。だからご飯を朝昼晩と食べれなかった時代を知っている人たちには、感慨深いものがあるよね。だからこそ、お米っていうのは大事に扱われてきたわけさ。大事だからこそ、稲の一生というのは祭りとして続いていくわけさ。

考察
豊年祭では五穀豊穣を祈願するお祭りであることから、昔は穀物はとても貴重なものであったと考えられる。また、昔の豊年祭では行われていなかったことが今の豊年祭で行われていることから、時代とともに祭り自体にも変化が起きていると考えられる。

感想
 今回、石垣島白保の豊年祭豊年祭についてインタビューをしてみて、今では盛大に行われているが、昔は小規模なものであったことや、祭りの前に御嶽で三日間お祈りをすることなど、豊年祭について知らなかったことを聞くことができたので、よかったです。また、私たちのように若い世代の人は楽しいお祭りというイメージだったのに対し、戦後まもない頃の暮らしを経験する人たちにとっては、感慨深いものであると知ることができました。それを聞いた時に、私は沖縄戦は終わった後にも多くの人に影響を与えるとても恐ろしいものなんだなと感じました。次、豊年祭に参加する時は、このようなことも踏まえて考えて祭りに参加して、社会的背景を読み取ってみたいと思いました。

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