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南波照間通信 No.3 1995.8.29.


邦子のハイスクール放浪記①

具志堅 邦子

残暑お見舞い申し上げます。と、同時にほんとに長い間ご無沙汰しています。『南波照間通信第3号』です。又の名は『はるかなくにの風便り』といいます。ごたごたしていますが、実は第1号は、一九八五年、第2号は一九九三年の発行の家族通信なのです。
前回はいつだったっけと第2号を読みなおして、ヒエー(心の叫び声)、わたしはあの、続きを書かなければと思うと、気が遠くなってしまっています。まだ、二年しか経っていないのに…。あの時の精神状態から、まるで十年前くらいたったような気がするんだよね…。困った。ほんとに 困ってしまう。ひらきなおるしかないね。
別に誰にも強制的されていなくて、義務的な気持ちで書くことなんかなにもないのだが、友人が発行しているミニコミ『下馬黒マント』に第2号で中断している幻の家族新聞『南波照間通信』が紹介されていて、こちらの方はすっかり忘れていたのだが、そんな時もあったね、またこういう遊びやってみようかと、どちらからともなく言い出して、第1号発行から二人ともそれぞれ十キロ増えた体に鞭打って、精神の筋トレとして書こうとしています。
はっきり言って面倒くさい。でもここで立ち止まって自分を見つめておかないとおかしなオカシナ浮きかたしてしまいそうで…。ま、パソコンの練習も兼ねて書こうとしています。
第2号では「家族」に向かわざるをえない苦しい私の叫びがいっぱいで、具体的に何があったのかを説明できない私が遠回しにいっぱい告白していて恥ずかしいのだが、振り返ってみると、その頃う〜んと苦しんでいて良かったなと思います。ちなみに第1号は「有機農業」に対するイキイキした期待がいっぱいの通信でした。 今帰仁に購入した私達の家族農場に遠大な夢を描いています。

さて、今回は何を書こうかと困っています。ダイエット、セクシュアリティ、学校、高校生、アルコール依存症、祭りと教育、と浮かんできますが、醒めているからノラないのと、書きなれていないから逃げ出したい…。でもね、今日の夕食作っているとき、2年前に卒業した生徒から電話があった。突然絵を勉強したくなって絵の学校に通っているという。

「え、えー、えって絵のこと」と聞き直したら、

「え、えー、絵の学校なの」と返してくる。

「ファミリーマートでアルバイトしてそれから学校に行く。時間が足りない、苦しい。先生、だけど私逃げないよ。しょっちゅう、絵の先生に基礎ができていないとしかられているけど」という。

彼女は原級留め置きで二回三年生をしており、私が教科を受け持っていた三年生の頃はユタになろうとしていた。私はユタの彼女に私自身を随分カウンセリングしてもらっていたので、彼女の突然の絵の勉強も妙に納得してしまう。苦しいのだと思う、だけど、ほんとに逃げ出したくないのだと思う。だから、私に電話したのだと思う。私も同じ精神年齢(? 戸籍年齢・身体年齢は違います!)だから、すーと、彼女の気持ちは分かるのだ。

「先生、がんばっている?」とつっこまれる。

逃げられないな。そう、こんなかたちで、元生徒が刺激をくれる…。見透かされたなと思うと、突然奮起する私が居る。彼女は

「今、この苦しい状態から逃げたら、自分がだめになる」という。

「すごい」と私がいうと、

「先生、ありがとう。がんばるからね」といって電話を切った。

で、私はさっきまでのグチャグチャの自分の気持ちを切り替えして、エイと気合を入れて夕食をつくる。つくりながら、やっぱり、書こうとノリだす。そこで、自分の周辺をすこし、自分をとりまく何人かにやっぱり報告しようと思うのね。だから、読んでね。

私は今南部のとある職業高校で教師をしている。臨時的任用の補充教諭である。情報ビジネス科の二年生のクラス担任である。この間五年ほど補充教諭を続けていて、今は七校目。情熱が失せたらこの仕事辞めようと思っています。今、きわどくアブナイところ。そんなとこで、私の浮き沈みを書くつもりです。では、二学期からリアルタイムでお伝えします。ぢゃーね。

一九九五年 八月二十日

絵のない日記…わたしの夏休み

具志堅 邦子

学校の先生していると夏休みという、世にも幸せな勤務時間がある。もちろん、教師の資質と情熱によってこの期間の過ごしかたは違うのだが…。誤解しないでね。この期間教員はまるっきりオフというわけではないのですよ。

わたしの今年の夏休みは、まずラッキーなことに給料があった。わたしのような補充教員は七月二十日でいったん採用が切られ、九月一日で再交付されるケースが多いのだが、たまたま今年は、本務の教師がクラス担任で、その補充として臨時的に任用される代替教員としての採用なものだから、給料があったのです。わたしはゲンキンなのです。

学期末の事務整理と教材研究を夏休みも学校に出て、たらたらとしていたら、勉強に慣れていないわたしは、こんなに勉強していたら二学期がもたないなと気付き、えーいと遊びまくった。ふと、気がついたら今週の金曜日から二学期が始まる。

そこで、夏休みの宿題をいっきに仕上げる生徒のように夏休みの日記を一日で書いてみる。一九九五年 八月二八日に決心した。

一九九五年 八月九日 エイサーのガーエー

ウンケーの日、名護の要の実家からの帰り、寄り道してコザに行く。呉屋十字路に着いた途端、センター通り青年会の道ジュネーに出会う。やっほー。ウンケーの親族の重力がここにおいて吹き飛んでいく。繁華街での道ジュネーなのに、あたりが闇のように感じられ、エイサー青年男女たちの放つフェロモンに酔う。
一連の演舞が終った静寂に、十字路の向こう岸から、激しい太鼓が聞こえてくる。陸橋を渡って、呉屋の裏道に出ると、呉屋青年会と園田青年会が正面衝突して、火花を散らしながらエイサーをしているのである。
すごかった。恐かった。青年男女のこんな激しい魂のぶつかりあい。平均的な高校には千人前後の生徒がいるが、体育祭、学園祭、予餞会で「燃えろ青春」に近いテーマでイベントをするのだが、燃焼することはないんだよな「棒倒し」よりも恐かった。呉屋青年会が負けて、道をゆずり、戦いは終ったのだが、勝利に満ちた園田青年会の勝ち誇った視線のなか、道の辻を曲がっていく呉屋青年会の潤んだ瞳を見たわたしの胸はキューンキューン。見回すと目が赤いおばさんやおじさんが何人もいる。

一九九五年 八月十日 再会ばかりの一日

盆の中日。友人に会うために、豊見城の株式会社「工◯」に行く。一時間ほどランチタイムをお邪魔して、旧南西空港に行く。田辺◯さんとその友人の中学三年生の森◯◯さんにあうため。田辺◯さんは小学校四年生の時、我が家に二日間ホームステイした冒険学校のこどもなのだが、高校三年生になっているという。
石垣からの帰りに那覇により四時間後には、名古屋に向かう彼女に会うのだが、顔を覚えていない。約束の時間より遅れてしまったものだから、待合室にいる観光客がどの飛行機から降りてきたのか、もう見当もつかない。真っ黒に焼けて、ダレている女の子がいるので声かけてみる。一発であたり。「お昼食べた?」と聞くと、「朝から何も食べていない」という。公設市場で食事をする。名古屋行きの飛行機の時間まで市場を散歩するつもりだったが、我が娘のささやかな事件のため、家に戻らなければならなくなり、彼女と彼女の友人も一緒に我が家に行く。二人の話から、この二人が十何日間、貧乏旅行をしていることがわかったので、ウークイのクファジューシでおにぎりをつくり、持たせ、空港に送る。

夜、読谷の楚辺にいく。楚辺の部落の運動場で潮風にあたりながらエイサーの練習をしている青年男女を見ていると、見覚えのある顔がある。しまった。そうか、三年前に読谷高校で、産休補充をしていたときの生徒たちが、今、まさにその年頃なのだ。見つからないように、目線を合わさないようにしていたのだが、見つかってしまった。三人が、弾けるようにわたしのところに飛んできて、「センセイ、センセイ」の連発。照れて照れて、何を会話したか覚えていない。エイサーの群舞に戻った彼女たちの躍る姿を見ながら、ジワーといろいろな思いが込み上げてきて、早々とひきあげてしまった。楚辺部落の運動場のライトよりも、月光が彼女達を照らし、紅潮している顔が見えた。嬉しい。

一九九五年 八月十一日 夫の父親の初盆

ウークイ。要の父の初盆。享年六十六歳。一連の盆の儀式のフィナーレをする。去年まで盆を仕切っていた義父がもう懐かしい人になってしまっていた。

一九九五年 八月十二日 白保の獅子舞・道アンガマ

朝から旅の準備。リュックサックを四つ出して、荷物をつめる。息子の◯〔中学一年〕は一緒に旅に出ず。四泊五日間一人暮らしになることをとっても喜んでいる。わたしと要と◯子 〔小学校二年〕と、わたしのいとこの子供の◯◯〔小学校四年〕の四人で旅立つ。石垣へ。

民宿「白保」に七時五分前に到着。夜、白保の獅子舞いを見る。沖縄ジャンジャン以来である。我が家にも訪れて来たことのある獅子である。ジャンジャン公演のとき、獅子は我が家であずかっていた。その時、『ゆらてぃく組』のメンバーが新しい我が家の「清め」をしてくれた。あの獅子が、本家で舞う。大島◯◯はその日はすっかりシマの人間になって、ずーと三線弾いていた。寸時休まず。祭りを継承する予備軍らしき高校生の男の子が二人、三線を持って端に座っているのだが、そのうちの一人が、◯◯にチンダミをお願いする。戻ってきた三線を嬉しそうに弾く高校生の顔。高校生ウオッチャーのわたしとしては、見逃せない場面。うふっふっ。こういう男達のつながりかた、いいよなあ。

獅子は、一頭に二人入る。獅子ブサーたちの獅子に入る姿と獅子から出てくる姿を目の当りにしたが、そこは表現したくない。そこはたとえ、活字で表現するにしても、女のわたしが踏み込んではいけないと思う。こういう聖域を犯してしまうことは、人間の品位を失う。

獅子は赤ん坊を噛む。噛まれた赤ん坊は健康に育つという。二〇キロもある獅子の頭に赤ん坊を頭から入れて、おなかから出すのである。若い母親がやっと首を持った赤ん坊を、獅子ワクヤーにお願いして、いとおしそうに渡し、獅子に噛まさせるのだが、おなかから出てくるまで、息を呑んでしまう。赤ん坊が出てきた瞬間、人々は喜びを共有し、母親は、至福に満ちた顔で我が子を抱く。赤ん坊はこの地上に初めて生れたように泣くのである。赤ん坊の泣き声で、もう一度、人々は喜びを味わい、笑う。

真夜中。午前二時。 白保の辻で、道アンガマが始まる。厳かな獅子舞いの後の道アンガマは、月あかりのなかで行われる真夏の夜の夢の饗宴のような気がした。午前三時半、民 宿白保に戻る。

一九九五年 八月十三日 波照間

午前九時に民宿「白保」を出る。バスに乗って市街地へ。銀行でお金をおろし、港に向かう。波照間へ行くのだ。午前十一時に船に乗る予定。波照間の民宿は満杯で、予約が取れない。「今日は野宿になるかも」と、こどもたちに言うと、「野宿って何」と、聞く。「土の上に寝て、星を見ながら、寝ることさ」と言うと、ふーんという顔して、終った。乗船キップを買いながら、仕事のできそうなネーサンに「波照間に行くんだけど、民宿がいっぱいで…。」と訴えるよな目で見つめたら、あちこち知り合いの民宿に電話して取ってくれた。「ありがとう、感謝感激雨霰」なんてワケのわからないような挨拶をしてそそくさと船に乗ろうとして、間違った方向に向かった。アブナイ。

海はべた凪。水平線上に浮かぶ島々は美しかった。五十分で波照間に着いた。民宿「みのる荘」に着くと、さすがに四時間しか寝ていないから、要もわたしもビールを飲んで、部屋でバターンと寝た。夕方こどもたちが欲求不満を起こしているので、西の浜というところで泳ぐ。あまりに細かくて真っ白な砂なので、こどもたちは泳ぐことを忘れて、砂浜で遊んでいた。

民宿に戻って夕食を取っていると、◯◯のバンドのリハーサルのサウンドが風にのって聞こえてきた。やがて、公民館のマイクで「波照間島の皆さん、今晩七時半より、石垣白保出身の大島◯◯さんの沖縄・八重山の島歌ライブが…」という放送が流れた。わたしは民宿の洗濯機をまわしながら、あせっていた。波照間島で主婦業をしながら、村の集落センターの集まりに向かうなんて乙な気分だ。

夕日がどっぷりと落ちて、ライブは始まった。波照間の泡盛『泡波』を飲みながら、ライブを聴いた。満足、満足。

一九九五年 八月十四日 自転車・二日酔い・ライブ

石垣島へ午後一時の船に乗ることにした。こどもたちは昨日から自転車に乗りたがっている。しかし、◯子が乗れそうなこども用の自転車がない。わたしは二日酔い。こどもたちは本当に自転車に乗りたがっている。要が◯子のためにレンタサイクルにいろいろ働きかける。なかなか適当な自転車がない。サドルを下げても、やっとペダルに足の爪先が付くだけ。波照間島まで来て、やはり、最南端をみないのは残念である。「要が少し手伝ったら、◯子は大丈夫よ」とわたしが言うと、「うん、◯◯こ、だいじょうぶ!」と気の強い娘は父親の手を振り払って、自転車に乗って出発した。

大丈夫ではないのは実はわたし。サトウキビ畑でもどしながら、わたしは二日酔いのなか自転車に乗って最南端を完結した。波照間島の皆 さんごめんなさい。『泡波』があまりにも美味しくて。

子どもたちに白保の珊瑚礁をまだ見せていないので、もう一度白保に泊まろうと思い、民宿「白保」に電話するが、予約がいっぱいとのことで、民宿「ウスパレー」に予約した。 午後一時。波照間島を後にする。

民宿「ウスパレー」は二日酔いと船酔いの混合したわたしの体をほぐしてくれる清潔で心鎮まる民宿であった。今晩の石垣市内の「アイランドブリーズ」のライブに向けて、「ウスパレー」で体を休めていると、かすかに三線の音が聞こえる。いいなあ、ここちよいなあと、耳をすませて聞いていると、◯◯のファーストアルバムの「北風南風」である。サンキュウ。昼寝をする。しばらくして、目を醒ます。三線の音が聞こえる。また、◯◯である。うふっふっふ。
起きだして、今晩は夕食食べたら、外出することを民宿の方に伝える。実は今、かかっているCDのライブに行くのだといったら、民宿の代表者ナガシマさんも、ヘルパーのホヤさんも即座に一緒に行こうということになり、わたしたちは大島◯◯の追っかけツアーに変身してしまった。

ライブは始った。いきなり八重山民謡の古典。「あがろうざ」。続けて「ぶざーとーら」。一瞬にして、世界ができあがる。客の緊張感もぴりぴり。密度の濃いステージが構成されていく。◯子が落ち着きがない。わたしは判断する。◯子を民宿「ウスパレー」に帰すことにした。◯子とライブハウスを出る。わたしはこどもでもこういうことでの聞き分けのないのは許せない。◯子を叱る。タクシーに乗る。白保までの夜の距離は長い。「ウスパレー」に◯子を置き去りにして、ライブハウスに戻る。◯◯ちゃんが歌った曲名を刻銘にメモしている。もう、ずいぶん歌っているのである。最後の曲になりましたと言う言葉を聞いたとき、とっても、残念だと思ったが、明日もライプがあるということが救いだった。◯子を民宿「ウスパレー」に捨ててきたので、その日はまっすぐ帰った。それに、翌日、珊瑚礁体験を予定に入れていたから。

一九九五年 八月十五日 白保を歩く・ライブに行く

午前九時。久しぶりに二日酔いでない日を迎える。八年振りに白保の珊瑚礁を見る要。わたしは何年振りだろうか。ハマサンゴ、エダサンゴ、アオサンゴ久しぶりだね。あなたたちに感謝しているよ。◯子と◯◯ちゃんは、珊瑚礁の間で、どんどんお魚になっていく。午後、要と白保を散歩する。
「白保に出会って、新良◯◯さんに出会って、大島◯◯さんがいて、『ゆらてぃく組』があって、わたしたちの十年間なんらかのカタチで白保に関ったのに、こんなに、ゆっくり、白保歩いたのはじめてだね」こんな会話をしながら、炎天下二時間 白保村を歩いた。

夜、◯子と◯◯を大島さんの家にあずけて、要と二人だけでライブに行く。高嶺方祐先生もいらっしゃった。アンコールがなりやまない。フィナーレはコンディショングリーンのシンキさんと◯◯と高嶺先生のセッションの「てぃんさぐの花」。こんな新鮮な「てぃんさぐの花」聞いたのはじめて。ヘビーな石垣の夜に未練はあったが、要とわたしは◯◯と別れて、白保に帰った。

一九九五年 八月十六日

朝、那覇に帰る。


ティーモーイの魅力:世冨慶のエイサーを見て

具志堅 要

この論考は具志堅要のブログ『ぷかぷか』でも転載(2016年7月6日)しています。論考の要旨は勝連半島の動きの抑制されたパーランクー型エイサーは近代初頭の名護に端を発する「ダンクモーイ」をモデルとするもので、そのダンクモーイの面影は世冨慶エイサーに見ることができるのではないかというものでした。筆者はその後見方を変え、勝連半島のパーランクー型エイサーは近代の那覇の街で誕生した雑踊(ぞうおどり)を取り入れたものではないかと見ています。

海上交通の面からエイサーの伝播を見、陸上交通が整備されない近代初期には海上交通が物流の重要な位置を占め、勝連半島は沖縄島東回りの海上交通をほぼ独占していたため、誕生したての雑踊をストレートに採り入れることが可能であったのではないかという見解に変化しています。(2023年1月30日)

はじめに

『南波照間通信2』では、竹富島の「種子取り祭」への紀行を書いていますが、思い返してみるとここ数年、僕はまつりに浮かれているようです。通過儀礼を経験しない僕たちは、としの取り方も知らないままに、中年にさしかかり、未経験な肉体の衰えに驚いています。僕たちは老いを迎え入れるすべを知りません。成熟を知らないままに肉体のみが衰えていくのです。少年の精神状態のまま僕たちは老いていきます。

琉球弧や日本弧の精神文化の基層では、人はまつりのたびに古い魂を流し捨てました。そして、新しい魂を身に着けることにより、そのたびに生まれ変わり、新しいとしを迎えることができました。としを取るということは、生まれ変わることであり、若返ることでありました。

シマから脱出することを願った僕たちは、いまさら自分のシマや親族の持つ重力の中に戻ることもできません。だけど、よそのシマのまつりに観客として参加することができるとき、そのシマの魂の切り替えの場に立ち会うこともできるような気もします。そのとき、こんな僕たちでもそれなりに若返り、としを取ることができるような気もします。

今年は八月に沖縄の旧盆のエイサーと白保の獅子舞い、道アンガマを見ることができました。その印象を忘れないうちに書き留めます。書けるところまで全部、書けないところ は次号に報告をします。

世冨慶へ

旧暦七月十五日のウークイ(お送り)の日(今年は八月十一日)、名護市東江(あがりえ)にある実家のウークイを済ませ、那覇への帰り道、隣部落の世冨慶(よふけ)のエイサーを見ました。世冨慶という村は山がすぐ海に迫る小さな部落です。 世冨慶のエイサーはティーモーイ (手舞い) 型のエイサーで、独特の型を残していることで有名です。

エイサーは現在は太鼓そのものが踊りだす太鼓型が大勢を占めていますが、これは歴史がまだ新しく、太鼓が踊るエイサーは戦後に流行したのです。戦前はティーモーイ型のエイサーが多かったといわれています。ティーモーイ型では太鼓は伴奏楽器としての役割を果たしています。 ティーモーイ型は現在は、山原(やんばる)の一部に残っているような状態ですが、エイサーの原型として貴重なものです。

世冨慶のエイサーはティーモーイ型の中でも洗練された独特の型を持っているようです。僕はこのエイサーの型が勝連(かっちん)エイサーの型のモデルではないのかという仮説を立てているものですから、見逃せないエイサーのひとつです。

世冨慶の部落に入って車を止め、ドアを開けると、大太鼓の音が響いてきます。すかさず音の源を目指して走り出してしまいました。なにかに呼ばれている感じです。その太鼓の響かせ方の秘密はよくわかりません。すべての太鼓が僕を走らせるわけではありません。考える間もなく身体が反応してしまうなにかがこの太鼓の響きにはあります。

エイサーは部落の中にある公民館の広場で行なわれていました。花笠をかぶり、黒い着物を着た三味線の地謡(じかた)が二人中央で歌い、ティーモーイが円陣を組んで、時計の針の進路と逆向きに、歩きながら踊っています。衣装はクンジー(紺地の着物)、膝を突き出し地面を踏みしめるように歩く独特の足運びで、歌に囃子を返しながら歩いています。

ティーモーイと地謡の間に大太鼓二人と道化がいます。この三人はバサージン(芭蕉衣)をからげてステテコを見せ、頭に棕櫚(しゅろ)の毛を丸めた赤いかつらをかぶり、 ティーモーイをはやしています。大太鼓も道化と同じ衣装を着けているということは、大太鼓も道化と同じ位置付けと役割をになっているということだと思われます。

ティーモーイ型にくらべ、 太鼓型のエイサーでは、太鼓が踊りのメインになっています。太鼓を自在に舞わせながらバチでさばく太鼓型の踊り方も、本来は踊り手をはやす道化の意味を持っていたのかもしれません。世冨慶のエイサーでは、大太鼓はあくまでも伴奏楽器です。

ティーモーイのテンポ

世冨慶のティーモーイは読谷村楚辺のティーモーイと似ていて、円陣の内側に大きく踏み込み、踊りながら円を描き、地面を踏みしめながら歩く、その繰り返しです。踊りは十九曲あるそうで、その型を全部見ることができます。太鼓型は通常七〜八曲、多くて十曲ぐらいなものですから、その倍の踊りの型を見ることができます。芸能尽くしの感があり、歩く『村芝居』のようです。

しかし、世冨慶のティーモーイはティーモーイにしてはテンポが遅い方で、ほかのティーモーイ型では同じ時間で三十曲近くを踊ってしまいます。踊りのテンポが早く、囃子の返しが活発なのがティーモーイ型の特徴です。

モーアシビのノリか

なぜ、ティーモーイ型のエイサーは、このように早いテンポで踊ってしまうのでしょうか。ひとつにはモーアシビ(野遊び)のノリを考えることもできます。モーアシビとは、過酷な一日の労働を終えた未婚の青年男女が夜に入ると、村境などに集い、歌い踊った遊びを指します。農村ではその遊びのなかで婚姻が成立したようです。現在、島唄といわれる遊び歌はそのほとんどがモーアシビの場から発生しています。

モーアシビは沖縄の庶民の芸能の母体だったといえます。そこでは男女の掛け合いで歌が歌われ、踊りが踊られました。異性を求めあう若い男女の遊びですから、カチャーシーなどのエネルギッシュな早弾きの曲が好んで踊られたようです。モーアシビに参加する年齢は十四、五歳から結婚するまでだったようで、結婚するとこの遊びには参加できなかったようです。

この年齢構成は、そのままエイサーの年齢構成になります。つまり、エイサーのメンバーはモーアシビのメンバーと同一になるということです。モーアシビのメンバーがモー (原野)から村に場所を変え、宗教的祭祀の芸能集団として出現するのがエイサーということになります。当然エイサーで踊られる踊りのテンポもモーアシビで好まれた早弾きのテンポで踊られることになると思われます。

村芝居のパロディか

もうひとつの考え方として、エイサーは荘重な『村芝居』のパロディではないのかということも考えることができます

『村芝居』は豊年祭などに催されるもので、『八月遊び』『八月踊り』『村遊び』などとも呼ばれています。長者の大主(うふしゅ)や弥勒などその村の神や祖霊にあたるものが出現し、村の繁栄を寿ぎ、引き連れた眷族が踊りを披露します。そのなかで組踊などの劇も演じられます。

『村芝居』は村を代表する芸能として公的な位置を村の中で占めています。エイサーはそのような公的な位置付けは村の中では与えられていなかったようです。名護市屋部ではエイサーは「昔は、男性だけでしかも貧農の若者のみでやり、少し身分のある男性は『村踊り』に参加した」(宜保栄治郎 「沖縄の盆踊り」より)とのことで、ある種の差別感があったようです。

しかし、七月と八月とわずか一月違いで、踊りを見せる芸能が村の中に二つもあるということは、この両者がなんらかの対関係、あるいは逆立関係を持っていたことは考えることができると思います。エイサーと『村芝居』は裏と表、影と陽射しの関係を持っているかもしれません。

表の『村芝居』に対して裏のエイサーでは、『村芝居』の大真面目に対し、カオスの中で村人を解放します。 カオスのエネルギーの中で『村芝居』を繰り返すことにより、滑稽感を産み出します。繰り返す行為は繰り返す相手を笑い飛ばすことです。笑い飛ばすにはコマ落しのような速度感を必要とします。これがティーモーイ型の早いテンポの秘密なのかもしれません。もしかすると本来一つのまつりの中にあった光と闇、正と反の部分が『村芝居』とエイサーに分離したのかもしれません。

世冨慶エイサーの特徴

世冨慶のエイサーは、ティーモーイ型の中では古典化の作用を受けたエイサーではないかと考えられます。そのように考える理由は、テンポがゆるやかになっているせいです。沖縄や日本の芸能においては、民衆レベルでの芸能が古典化の洗礼を受けるとき、テンポがゆるやかになる傾向があります。
では、なぜ世冨慶のエイサーはテンポがゆるやかになったのでしょうか。仮説のひとつとして「ダンクモーイ」の影響を受けたのではないのかということが考えられます。
ぼく自身、「ダンクモーイ」という踊りはまだ見たことがないのですが、「ぎのわん 字宜野湾郷友会誌」によれば「ダンクとは談合と書き、人知れず男女が恋を語らうことで、舞いは姉小(アングヮ)踊りの部類で、浜千鳥(ちじゅやー)や加那ヨーと同じく手を頭上にあげ、こねらして踊る方法である」とのことであり、「この歌は王府時代の末から明治の初め頃にかけて流行したようで、国頭地方から中頭地方の野遊び歌によく使われている」とのことで、およそのイメージを持つことができます。
たぶん「人知れず 男女が恋を語らう」ということがミソで、モウアシビのテンポの早い集団群舞のなかに個人の抒情性を表白できる踊りが新たに出現したことだろうと思われます。
民衆レベルの芸能が個人の抒情を表白する段階にいたるとき、また儀礼芸能として昇華するとき、テンポを落とし、その落した間合いの中に無限の思いと意味を込めることができます。

ダンクモーイの影響

一時期一世を風靡した「ダンクモーイ」がどこに震源があったのかというと、どうも名護のあたりに流行の源があったようです。
「ダンク節」の歌詞には、「ダンクモーイ習ゆんで、なぐあがりかゆてぃ、かゆてぃみじらさや」(ダンク舞を習おうと名護の東江に通って、通って面白い)という歌詞があり、今回世冨慶のエイサーから聞き取った歌詞では、「ダンクモーイ習ゆんで、なぐばんじゅかゆてぃ、ばんじゅいしがちに、ちんしかちわてぃ」(ダンク舞を習おうと、名護の役場に通って、役場の石垣に、膝頭を打ち割ってしまって)という歌詞がありました。名護の番所(ばんじゅ)は東江にあり、どうもそこでダンクモーイは盛んに行なわれていたようです。

なぜ、役場でモウアシビをするのかということは、モウアシビについての稿を起こし、そこで考察するしかありません。世冨慶は東江の隣部落になります。当然「ダンクモー イ」の影響があったことが考えられます。

勝連エイサーもダンクモーイ?

また、冒頭にあげた世冨慶のエイサーは勝連(かっちん)エイサーのモデルに近いのではないのかという仮説もその根拠は「ダンクモーイ」にあります。

勝連エイサーは太鼓にパーランクー(半胴鼓)を使い、力を抑制し、手首だけで叩きます。禁欲的なところまで力を抑制させることにその美しさがあります。ティーモーイの部分もアングヮーモーイで、踏み込んで踊る部分はほとんどありません。
勝連町平敷屋のエイサーは、「明治三十六年当時、沖縄中で評判のあった名護エイサーを当時の青年会長が名護に出向いて習い会員に教え伝えたのが現在のエイサーである」との伝承があります。
ところが、名護には勝連半島のようにパーランクーを使うエイサーは、ぼくの知っている限りでは現在残っていません。そのため、この伝承には不思議な気がしていました。
しかし、名護で習ってきたエイサーがティーモーイの部分の「ダンクモーイ」であったのならば、この疑問も解けます。当時沖縄中で評判であったのは「ダンクモーイ」のエイサーであった可能性があります。

この「ダンクモーイ」に合わせるには、太鼓を激しく叩くわけにはいきません。パーランクーを禁欲的に舞わせる勝連半島の独特のエイサーの型は「ダンクモーイ」から発生した可能性が高いと思われます。

おわりに

世冨慶のエイサーは、ティーモーイ型が洗練されたエイサーだということができましょう。テンポがゆっくりめの分だけ踊りをこころゆくまで堪能することができます。また、そのテンポに合わせて太鼓が叩かれるため、音がゆっくりと大きく響き、〈なにか〉を呼び込むような力があります。それは、村の中だけではなく、背後の山からも降りてくるような気がします。そのときエイサー人数(にんじゅ・集団)は、山から降りてくる踊り神の姿とも重なります。

ティーモーイ型のエイサーは、ぼくはまだ読谷村の楚辺と宇座、名護市の城と世冨慶、本部町の伊豆味と五つのエイサーしか見ていません。来年からはもっと精力的にティーモーイ型のエイサーを見てまわりたいと思っています。手探り状態の中で仮説の訂正と新たな仮説を立てることができるかと楽しみにしています。エイサーについては、また来年のこの時期に報告します。白保の獅子舞いと道アンガマについては、次号で報告します。


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