見出し画像

『カラマーゾフの兄弟(中)』ファム・ファタールと浪費

『カラマーゾフの兄弟』のネタバレがあります。
未読の方はぜひご一読を。世界文学の最高峰として読み継がれていることはあります。ナボコフは褒めてないけど。

『カラマーゾフの兄弟(中)』で長兄ミーチャは本作のファム・ファタールことグルーシェニカに恋をして自暴自棄になり、金を浪費する。その金の出所と事件を巡って最終巻へ進むことになる。

ドストエフスキーが発端なのか、人類は自暴自棄になると全財産を使い果たすようにプログラムされているのか、多くの小説で金遣いをしくじって人生が破綻する物語が描かれる。『ボヴァリー夫人』しかり『闇金ウシジマくん』しかり。トンボに羽がなければ飛べずに死ぬように、魚にヒレがなければ泳げずに死ぬように、金は人にとっての羽でありヒレなのかもしれない。

わたし自身も後先考えずにというか、考えたつもりでも浅はかでお金が厳しくなるというのを何度も繰り返し、それが改まる気配はない。それよりも地上の歓びが大事なのだという気持ちは痛いほど分かる。
しかし、ミーチャのようにがんぜない子供のように湯水のごとく金を使う。必要のない人にまで金をばらまくという心理は理解しがたい。これは他人を支配したくて金を使うのだろうか。シャンパンをあけ、料理をたらふく食べさせれば、世界は自分の思い通りになると思っているのだろうか。それが一瞬のことでも世界を支配したい刹那の欲求を求める気持ち、わたしには分からない。だって絶望の限り世界は続いていくんだもの。

わたしの長兄もミーチャと同じように実家から大金を引き出して勘当され、ファム・ファタール相手に湯水のように使い果たして、今では生活保護を受けている(らしい)。『きのう何食べた』の何巻かで床屋の人の父親が生活保護を受けているから援助してくださいというはがきがきた場面、「知ってる知ってるー」と頷いて、彼と同じように「援助できません」と返信した。
結果として我が家は父の死と同時に相続放棄し、一時は村長まで排出した家と土地を手放すことになった。

おもしろかったのは、父の葬式に勘当された長兄は呼ばれなかったのだけど、どこからか聞きつけてやってきたこと(本当に、誰も呼んでないのにそのタイミングでやってこられる行動力は実に不思議だ)。元々粗暴で会社で喧嘩して辞めてしまうような人だったが、すっかりおかしくなって日本語も拙くなっていた。実家から出棺して葬儀場へ向かう途中の路で、長兄は手を振る代わりなのか、ラジオ体操をしていた。
一瞬だけ見えたラジオ体操第二の、腕を回してから肘をまげて膝を軽く曲げる運動。バスの中の失笑。
わたしは笑う気になれず、ただ左足が少し曲がりすぎたラジオ体操を見えなくなるまで見ていた。こういう人は救われるべきなのか? 何をもってして彼は救われるのだろうか? 誰も彼を許すことができない。彼もまた、許される相手をもたない(わたしは年が離れているので許すも許さないもなく、無関係な人でしかない)。

ミーチャを見ていると長兄のことを思い出す。警察に問い詰められても自分を大きく見せようとするのか、不利なこともべらべらとしゃべってしまって、後から「あれは嘘だ」と愚かしいごまかしをする。証拠を探すために裸にされて初めて自分の立場が最悪であることに気づく。

『まるで夢でも見てるみたいだ。俺はときおり夢の中で、自分のこんな醜態を見たことがあるな』それにしても、靴下を脱ぐのは苦痛でさえあった。靴下はひどく汚れていたし、下着も同様だというのに、今やみんなにそれを見られてしまったのだ。

仮にミーチャが無実だとしても、彼は幸福になれるのだろうか。人の中には元々幸福になることができない人がいるのではないだろうか。
ミーチャの無邪気さと彼をとりまく絶望。物語はまだ終わらない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?